アドラー心理学は、実証科学ではなく、思想。

 アドラー心理学が流行りすぎている。今やニーチェよりも流行っており、人々に受け入れられている。
 しかし、まずは、アドラー心理学は、科学ではなく、思想であることを理解する必要がある。残念ながら、アドラー心理学には、実証科学的根拠はないのである。因果律ではなく、目的論を採用していることからも、それはわかる。科学は、統計学的手法により、因果図式で対象を捉えるからである。

 アドラーは、無意識が人の精神や行動を規定するという因果律を唱える精神分析学を否定する。また、過去のトラウマが精神状態に影響を与えるという因果律を唱えるトラウマ学(ハーマン)を否定する。人間は、因果律で動くのではなく、主体的に体験を意味付けることで、与えられたものを利用するという立場を取る。
 従って、目的によって選択された意味付け次第で精神や行動はいかようにもなると考える。さらに、個人は、性格分類等で分析的にバラバラにして捉えることが不可能であると考え、個人心理学という立場をとる。不可分の個別性は、実証科学の外である。科学は、反復する一般性のみを対象とし、唯一無二の個別性は対象にできないからである。主観によって、世界や体験を解釈するというのなら、心理構成主義の一種とも言えるかもしれない。

 アドラーは、幸福になるための三つの原理を提示している。自己受容、他者信頼、他者貢献の三つである。
 自己受容とは、ありのままの自分を受け入れること。
 他者信頼とは、他者は敵ではなく、味方=仲間であるという感覚をもつこと。
 他者貢献とは、自分の価値は、他者の役に立つと思うことで得られること。
 これは、ロジャースがあみだした無条件の肯定的配慮、共感的理解、自己一致というカウンセリングの三原則に似ているが、アドラーの三原則のほうが範囲が広い。つまり、アドラーは、カウンセリング関係のみならず、人間関係一般を射程に入れているからである。

 アドラーは、この三原則を実践することで、人間は共同体感覚を得て幸福になれると考えている。簡単に言えば、いかなる他者とも仲良くし、善行を為すことで、他者とつながり合って、幸福になるという考え方である。これは、エゴイズムを否定する究極の性善説であり、科学的根拠はない。これを実践して幸福になった人間を調査し、統計的な因果関係が立証されないかぎり、科学とは言えない。思想のレベルにしかすぎない。
 
 しかし、私は科学的手法のみが正しいという固定観念からは自由なので、アドラーの思想が真理であるという可能性は否定しない。というよりか、近代社会では、アドラーの思想に反対する価値観をもっている人は少ないと思われる。アドラーの思想を所有することで、近代社会が平和になり争いがなくなるのに役立つのである。つまり、世界平和に役立つ思想である。平和を望む社会では、アドラーの思想は、(社会的)真理となるだろう。つまり、道徳的真理として機能するわけである。
 
 特に、アドラーのいう共同体感覚というのは、全ての他者との肯定的な関係性(仲間意識)を感じる感覚であり、個別の国家共同体を越えて、人類社会を含む宇宙全体を意味している。従って、個別の国家共同体という枠ではなく、人類社会という枠がより上位の共同体であり、国家間の争いや対立は相対化されることになる。人類はみんな仲間であり、戦争は否定されることになる。さらに重要なことは、世界の中心に自分をおくべからずと、アドラーは考えていることである。世界の全ての他者と対等に関係しているのが真実だと主張し、自己を中心におく思考では真に幸福になれないと考えているのである。これは、脱エゴイズムである。
 
 アドラー心理学は、平和な世界社会を可能にする思想なのである。しかし、アドラー心理学と同じような立場をとる思想や哲学は世の中に多くある。人々に注目される目新しさはどこにあるのかと思ってしまう。
 思想的には目新しくないが、人々に流行るのは、心理学という科学の装いをしていること、加えて全ての問題は人間関係にあると考える点だと思われる。つまり、心理学が科学だと思われており、科学のみが真理だと思っている現代人には受け入れやすいこと、さらに人間関係で悩む人が多い現代社会では、全ての問題は人間関係に帰着するというアドラーの価値観は適合的であるからである。

 いずれにしろ、アドラー心理学という思想が後期近代社会にどのように機能していくか見極めて行くことが、社会学の役目である。

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# by merca | 2017-05-07 23:52 | 理論

市民社会(普遍性)と国民国家(特殊性)の止揚としての近代社会(全体社会)

 ルーマン研究家の社会学者佐藤俊樹氏が「意味とシステム」という著作において、行為、コミュニケーション、システム等について根本的に議論している。私も興味をもって拝読したが、むしろ面白かったのは、システム論にまつわる本質的探求の部分ではなく、国民国家と市民社会の二重体として近代社会を観察している部分である。つまり、国民国家と市民社会は単純な対立概念ではなく、国民国家の複数性と市民社会の単一性が相互に依存しているという洞察である。国民国家は、世界に複数存在することで、個人に国家所属についての選択意識を表象させ、国家に包摂され尽くされない外部としての独立意識をもたらすことになる。このような個としての意識が市民社会の意識をつくりだす。

 逆に、国家は社会契約論的観点から、国民が市民たりうることで、本来的に自由な個人たる市民たちが契約によって国家をつくったという近代社会の成立根拠の正当性を担保できる。つまり、自由な市民だった国民によってつくられた、あるいは全ての国民の合意によって国家が成立したという建国物語をもつことができる。社会契約論という必要的虚構が国家の成立の本質的根拠となるわけである。

 さらに、国民国家の外に個人が市民として存在することで、国家は国民に自己負担させることができ、個人の責任を全て国家が丸抱えせずにすむことになる。

 複数ある国民国家は、特殊性、共同性を意味し、単一の市民社会は、普遍性、世界性を意味することになる。個人は、国民として国家共同体に所属しつつも、世界市民として市民社会(世界社会)の中にいることになる。近代社会は、国民国家と市民社会という一見対立している二つのファクターを含みつつ、両者を止揚することで、成り立つことになる。

 

 このような近代社会の見方は、根底から、カントの理想とする世界共和国の思想を覆す社会理論と言えよう。平和共和国という普遍性に偏った一元的なカントの社会観は、弁証法的にはあり得ない。弁証法的には、普遍性(単一の市民社会)は、特殊性(複数の国民国家)を前提としてしか成り立たないからである。

 さらに、国民と市民の二重意識は、後期近代社会=成熟社会に生きる我々の感覚に非常にフィットし、リアリティを感じる。市民社会の普遍的価値としての人権思想=革新主義=左翼思想と、国民国家としての郷土主義=伝統主義=右翼思想が対立するように見えて、互いに前提とするという円環的弁証法が見てとれるのである。普遍性と特殊性の弁証法である。

 ただし、国民国家あるいは国民社会は、同一性のあるシステムとして観察できるが、市民社会は、同一性のあるシステムとしては観察できないし、定義上からも、共同性はなく、システムではないとも言える。

 ルーマン社会学の視点からして、システムではないものを社会と呼ぶことがそもそもできるのか少し疑問である。普遍性を本質とする市民社会あるいは世界社会には、本来、内と外の区別がなく、(システム/環境)の区別がないでのある。


 ところが、市民社会も、一つの区別に準拠していると見なすことは可能である。(普遍性=市民社会/特殊性=国民社会)という区別によって創発したシステムとして観察できる可能性がある。国民国家と市民社会の二重体として近代社会を観察する立場は、システムとして両者を捉えることも可能である。市民社会の環境は、国家社会であり、国家社会の環境は、市民社会であるという区別が立ち現れると、システムとして存在が可能となる。


 そういう意味では、近代社会は、普遍性たる市民社会システムと特殊性たる国民国家システムという二つのシステムを止揚した何者かである。その何者かが真なる全体社会だとしたら、ルーマンのいう世界社会の解釈と合致する。ありとあらゆるコミュニケーションの包括的総体が社会システムだとしたら、市民社会と国家社会を包括した近代社会そのものが、全体社会となる。実は、全体社会は、単一でも複数でもなく、そのどちらを離れても実在しないシステムとして観察するほかないのである。弁証法的観察のみが全体社会を捉えることができるのである。

 対立しているものが実は相互に前提とし合っているという弁証法的思考で、システム論を再解釈すると、以上のようになるのである。


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# by merca | 2016-10-29 09:57 | 社会分析

時間的実体としての意味システム(意識と社会)

 生物体システムと意味システムの違いは、要素の配列の次元において、(空間/時間)という区別があることである。つまり、生物体システムにおいては、要素が空間に配置されており、意味システムにおいては時間に要素が配置されている。生物体は空間システムであり、意味システムは時間システムである。
 生物体システムの要素である細胞は、空間的に存在する。すでに過去に死滅した細胞は、現在のシステムの要素足り得ない。システムの内外環境も、空間的に存在する。
 
 しかし、意味システム(意識システムや社会システム)は、その要素である思考やコミュニケーションが、空間的に存在するのではなく、現在・過去という時間の配列の中に存在する。意識システムという意味システムにおいては、その都度の思考は、過去の思考(記憶)との関係で規定される。意識システムの要素は、現在意識化中の思念(要素)と過去に思考した複数の思念(要素)が連動し、要素間の関係が形成され、意識システムを創発させている。過去の思いと現在の思いが意識システムの要素となるのである。あるゆる意識が過去の意識(記憶)との関係で規定されることは明らかである。

 一方、社会システムの要素であるコミュニケーションは、現在生じているコミュニケーションと、直前や過去のコミュニケーションを合わせた集合である。複数の要素が、時間座標の中に収まっているのである。現在は消滅したコミュニケーションもシステムの構成要素として勘定のうちに入っているのである。もし現在生起しているコミュニケーションのみがシステムの要素なら、要素が単数となり、システムは成り立たない。複数の要素があって、かつ、それらの関係性があり、初めてシステムは成り立つ。

 コミュニケーションは、空間ではなく、時間に沿ってコミュケーションA→コミュニケーションB→コミュケーションC→コミュニケーションD→コミュニケーションEという具合に流れていく。この場合、A、B、C、D、Eと五つの時間を異にする要素からなる社会システムが生成することになる。Eの時点が現在だとすると、後の四つの要素は過去になるが、これらの過去のコミュニケーションがなければ、コミュニケーションEもシステムも創発されない。これらの5つのコミュニケーションが同一の区別コードでなされていると観察されて初めてシステムは創発される。
 そして、要素には順番、つまり序列的接続性がある。前のコミュニケーションそれ自体を観察することで、次のコミュニケーションが生ずる。曲(メロディ)に例えると、わかりやすい。音符という要素どうしの序列的つながりが曲を構成するが、過去の音符がないと、現在鳴っている音符が意味ある曲の要素として認識できなくなる。コードを外すと、不協和音となり、曲が成り立たない。曲は時間の中で生成する。同じく、意味システムも時間の中で生成する。曲も意味システムの一つである。
 
 社会システムは、時間システムである限り、三次元体としての物理的実体をもたない。社会は生物体のように空間に存在する物理的実体ではない。無論、意識システムとしての精神も、時間システムであり、空間に存在する物理的実体ではない。意味システムとしての社会システムも意識システムも、物理的実体ではないが、時間的実体をもち、存在するのである。また、意味システムにおいては、システムと環境の区別も、空間的になされない。意味境界によって区別される。
 このような空間に物理的実体をもたないにもかかわらず、確かに時間的に実在する意味システムなるものを発見したルーマンの功績は大きい。
 
 これは心身問題の解決策ともなる。すなわち、古来より哲学を悩まして来た精神と肉体の二元論問題の解決の糸口となる。生物体たる身体は、空間的システムとしての物理的実体であるが、意識=精神は時間的システムであり、時間的実体となるのである。心は時間に根拠をもち、身体は空間に根拠をもち、時空間の統合点として人間生命を捉えることができるのである。

 このように、存在の根拠について(空間的実体/時間的実体)という区別に基づき、存在を分類することが可能なのである。意識(精神)や社会は、時間的実体にカテゴライズされるのである。そして、時間的存在は、空間的存在と同等の実在性を有することを忘れてはならない。ここでは、存在(=システム)には、二種類があり、自らの要素が空間座標にある物質や生物、自らの要素が時間座標にある精神(意識)や社会に分類されることを押さえておこう。

 また、これまで、社会とその要素を空間的にイメージすることで、社会に対する認識に様々な誤謬が生じてきた。社会の空間的実体視である。例えば、国土の境界と社会の境界の混同することや、人間が社会の要素であるという考え方は、空間的実体のみが実存するという先入観に基づいている。時間的実体が確かに存在することを理解すれば、その先入観にとらわれなくてもすむのである。 

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# by merca | 2016-10-02 07:23 | 理論

あやかし(物の怪)としての社会病理概念

 DV、虐待、ストーカー、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、モラルハラスメントなど、これらの言葉は、学者や専門家が人々のコミュニケーションを観察してつくった社会病理概念である。つまり、当事者ではなく、第二次観察の結果、つくられた概念である。
 そして、今や、これらの負の行為を行った加害者は、無条件に社会から非難され、人格を全否定される傾向にあり、道徳的排除の対象となるのである。妻に暴力を奮ったら、DV夫としてレッテルを貼られ、子供に体罰をすると虐待親としてレッテルを貼られ、片思いでつきまとうとストーカーとしてレッテルを貼られ、部下に怒鳴るとパワハラ上司としてレッテルを貼られ、生徒に体罰をすると暴力教師としてレッテルを貼られる。
 すなわち、一度、そのような負のレッテルを貼られると、その人物の人格が絶対悪として構成され全否定されてまい、以後、どのような善い振る舞いをしても究極的に善い人間として見なされはしなくなる。被害者からは、更生はあり得ないと思われるのである。
 
 実は、DV、虐待、ストーカー、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、モラルハラスメント等のような社会病理概念は、大衆にとっては、(加害者/被害者)という二元コードに準拠し、さらにメタコードとして(善/悪)という道徳コードに準拠している。簡単に言うと、加害者と見なされると、全人格において絶対悪であると見なされることになる。
 やかっいなことに、このような負の全人格的レッテルのせいで、加害者と被害者の関係修復が困難となってしまうことがある。夫婦関係、親子関係、部下上司関係は、分離崩壊という選択肢しかなくなり、家族関係や人間関係を崩壊させるという病理現象を生み出している。
 社会構成主義の観点からすると、一度、加害者に対してそのような負の対人認識が出来上がると、被害者は、歪んだ認識で全ての加害者の行為を悪意として受け止め、コミュニケーションは悪化していくことになる。また、道徳的に悪と思われたくないために加害者も被害者に不適切な反発言動を行い、その反発言動を根拠として、DVや虐待等のコミュニケーションが再生産されていき、益々、社会病理行為はリアルになっていき、予言の自己成就をとげる。
 
 学者や臨床心理士が診断して社会病理概念を適用するのならまだしも、当事者が社会病理概念を恣意的に使用するようになってしまい、単なる夫婦喧嘩がDVとなり、単なる親子喧嘩や躾が虐待や体罰となり、単なる恋人への不満表明がストーカーになってしまっている。
 学者の二次観察によってつくれた社会病理概念は、あくまでも専門家の診断によるべきであるが、当事者が概念の取り扱いに注意することなく、その概念を乱用するために、道徳コードに準拠してしまうわけである。本来、社会病理概念には、その行為の加害者が悪であるという道徳的判断は含まれてないにもかかわらず、一度、当事者である大衆に流布するや否や、道徳コードと結合してしまうのである。そして、人間関係崩壊という二次病理現象を引き起こしているのである。

 本来、人間科学的には、社会病理概念の役割は、加害者がそのような社会病理的行為をしてしまうメカニズムを解明し、問題解決することであり、加害者に道徳的判断を下すことではない。にもかかわらず、社会病理概念は、人口に膾炙した時点で、(加害者/被害者)というコードを経由して、(善/悪)という道徳コードと結合し、自らを再生産するとともに、加害者の人格に対して道徳的排除を惹起させ、家族や人間関係の破壊という別の次元の病理現象を新たに生み出しているのである。
 システム論的には、学者による第二次観察である社会病理概念それ自体が大衆によって道徳コードに準拠して観察されたことになるわけである。所詮、学者や専門家の観察(=専門用語)も社会から超越した特別な観察ではなく、それ自体が一つの社会内観察にしかすぎず、大衆の道徳コードによる二次観察によって利用される宿命にあるのである。多くの場合、大衆は、人間科学の諸概念は道徳コードによって観察し、一方自然科学の諸概念は真偽のコードで観察するのである。このように学者がつくった専門概念を大衆が活用するのは、再帰的近代化した社会にとっては、避けられない現象であるが、社会学者は、その過程自体を明らかにし、問題提起する役割を負っているのである。要するに、科学的知識に対する大衆の二次観察によるコミュニケーションを分析することになる。
 
 そして、多くの場合、社会病理概念は道徳コードと結合した時に、息吹を得て、人々の情念に取り付く負のあやかし(物の怪)となるのを心得ておくべきである。無論、社会病理概念だけがあやかしとなるのではなく、思想もあやかしとなる。むしろ思想があやかしになることの方が多い。その代表がニーチェ思想やマルクス主義である。
 このあやかしが、喧嘩している夫婦や親子の情念に取り憑き、最悪の物語を作り出し、事態を悪化させ、家庭崩壊という不幸をもたらすことがある。DVとか虐待という専門用語に取り憑かれた関係を解除し、専門用語では決して一般化されない個別的な心の理をしっかりと受けとめる実力のある心理カウンセラーや福祉ケースワーカーの存在が求められるのである。学者や評論家のつくった言葉の副作用を知るべきである。
 
 DV、虐待、ストーカー、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、モラルハラスメントなどに含まれる道徳的判断をアポケーし、事実を事実として受け入れ、人の心の理を把握し、どのような道筋でその人に社会病理概念や思想が取り憑いたのか見極めるのが、真の臨床家である。

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# by merca | 2016-08-10 09:15 | 社会分析

思想・宗教より尊いもの

 世界には様々な思想や宗教が溢れている。
 しかし、思想や宗教が尊いのではない。
 尊いのは、思想や宗教を通して愛する者の幸福を願う人々の美しい心=他者愛である。
 たとえ、どのような優れた思想や宗教であったとしても、憎しみや利己心から思想や神仏を利用する者は、この世に破壊をもたらすであろう。
 
 本当に祈る人は、自分ではなく、愛する人たちを守ろうとし、愛する人たちの幸福のために、必死に思想にすがったり、神仏に祈ったりする。
 人は、自分のことではなく、家族や愛する人たちの幸福のために神仏に祈るのである。
 その時、尊いのは神仏というよりか、むしろ愛をもつ祈る者の方なのである。
 他者の幸福を祈った時、神仏は、その人に宿るのである。
 利己心から祈る者には、神仏は宿らない。
 利他心から祈る者にのみ神仏は宿るのである。
 
 この世の中にどんな優れた思想や宗教ができようとも、利己心から祈る者には、救いはないのである。どんな優れた社会思想であったとしても、恨みと憎しみの心を持つ人たちに利用されたら、世界を破滅に導くであろう。マルクス主義がその典型であった。マルクス主義を利用する醜い為政者たちのために、多くの人々が犠牲になった。
 赤軍派が自らの醜い自尊心のために同志をいじめ殺したり、また社会に恨みを持ったオウム真理教の麻原彰晃氏も仏教やインド思想を利用して若者を騙し信者として洗脳し、罪のない人たちを殺した。これらは、利他心ではなく、利己心を根本動機にして思想や宗教を利用した例である。
 神仏に家族の幸せを祈る平凡な庶民の方が尊い心=他者愛をもっているにもかかわらず、若者は安易にエゴイズムから奇妙な思想や宗教にかぶれるのである。

 しかし、心ある社会主義者を初めて知った。ムヒカ元大統領である。彼は、社会主義のために革命を望んだのではなく、愛する貧しい人たちを幸福にするために、戦ったのである。社会思想は、人々の幸福のための手段にしかすぎない。利欲や保身のために思想や宗教を絶対化したり、思想や宗教を利用して人を煽動するかぎり、戦争が起き、世界平和は到来しない。
 スターリンや毛沢東などの社会主義を標榜する独裁者は、多くの人々を殺戮した。暴力革命は民衆の命や幸福を奪う本末転倒の思想なのである。

 何のために思想に心酔しているのか、何のために宗教にすがっているのか、それを問うてみるがよい。もし保身や利己心のためであるのなら、自身と世界を破滅に導くであろう。
 ニーチェ思想にかぶれる多くの若者は、他者の幸福のためではなく、自我防衛のためにかぶれるのである。ムヒカ氏とニーチェは正反対なのである。

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# by merca | 2016-05-03 22:23 | 反ニーチェ

ムヒカ元大統領の幸福論が世界社会を変える

 今、日本でウルグアイ元大統領であるムヒカ氏の旋風が起っている。この方は、マザーテレサ級の偉人である。また、何となくワンピースに登場しそうなキャラクターでもある。ネット右翼や小林よしのりの反応を見てみたいものである。
 左翼や右翼という既成概念にとらわれ、そのような固定観念による視点でしかムヒカ氏を見ることができないとしたら、思想的に愚かである。人々の幸福に左翼も右翼もない。そこにあるのは、ただ経験に根付いた社会的真理のみである。
 
 ムヒカ氏の重い言葉に比べれば、社会学者・古市憲寿氏の幸福論がいかに軽く浅薄なものであるか実感させられた。雲泥の差である。人間としての本当の幸福は、古市氏が考えるような軽薄のものではない。「絶望の国の幸福な若者たち」において、単なる内閣府の社会調査統計によって、日本の若者は、絶望の国にあって、意外に幸福だという非常に浅薄な結論を導き出しているが、本当の不幸と幸福を知らない者の戯言にしか思えない。
 
 まずは、絶望の国? 何が絶望だと言いたい。本当の絶望を知らないから、安易に絶望だと言い放つことができるだけである。また幸福な若者たちと言い放つが、本当の幸福が何か知らない若者たちばかりである。不幸のどん底を知ってはじめて本当の幸福を知ることできる。
 そもそも絶望とは、不幸のどん底である。不幸のどん底にある社会とは、今のような日本社会には該当しない。いつ自分が死ぬかわからない戦時中の日本こそが絶望の国であったのである。戦後の日本社会を絶望の国というのはおこがましいに程がある。ムヒカ氏は、投獄され、拷問を受け、不幸のどん底から、本当の幸福を悟った。古市氏は、絶望という言葉を軽々しくよく使えたものだと思う。

 ムヒカ氏の幸福論からすると、本当に貧しく不幸な人とは、無制限な欲望をもち、いくらあっても満たされることがない人である。また本当に豊かで幸福な人とは、少しのことで満足できる人のことであるという。
 消費社会に踊られている日本人は、貧しく豊かではなく不幸だということになる。また、人間は一人では生きていけない存在であるという、ムヒカ氏の悟った真理からすると、日本社会で孤独化している若者や高齢者は不幸になる。孤独が最大の不幸という思想は、ムヒカ氏の長い投獄経験によるものである。
 
 ムヒカ氏は、人々が分かち合うことで、貧困はなくなると考えているようである。他者と分かち合うとは、単に物資を分かち合うだけでなく、愛を分かち合うことになる。分かち合うためには、人に対する愛が前提にないとできないからである。なぜ人は分かち合うのか、それは人の幸福を思うからである。
 かの歴史主義者・司馬遼太郎氏は、社会とは人々が分かち合うための仕組みである考えていたようであるが、ムヒカ氏は、その思想の体現者である。ヒトラー、毛沢東、スターリンのような独裁者とは対極の人物である。今世紀最大の哲人政治家である。
 
 さらに、ムヒカ氏は、マララと同じく、自分を虐待して来た人たちに対して恨みや憎しみをもつことは不毛であり、暴力革命ではなく、文化を変えることで、社会はよくなると信じている。ムヒカ氏は、愛する人とともに生活できることが最大の幸福であると信じている。
 世界社会となった今や、ムヒカ氏が理想とする博愛の社会は、平和を分かち合う世界社会においてはじめて達成される。個人のレベルだけでなく、世界の各国が平和を分かち合うことが求められている。日本国憲法における戦争放棄の思想は、来たるべき世界思想の先駆けとなるであろう。

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# by merca | 2016-04-25 23:25 | 社会分析

祝 人気ブログランキング社会科学部門1位

 社会学玄論のブログが、1月5日午前0時48分現在、人気ブログランキング社会科学部門1位となりました。
 読者の皆様!! 応援、ありがとうございます。
 ついでに、社会学玄論のツィッターを紹介しておきます。
 https://mobile.twitter.com/rontaku14?p=s
 今年は、ネット社会学者、ネット思想家の立場から、著名な思想家や学者に議論をふっかけていきたいと思います!!
              放浪の社会学ブロガー 論宅より

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# by merca | 2016-01-05 00:55

社会構築主義による観察 言葉(概念)が現実をつくる。

 社会構成主義における、言葉(概念)が現実をつくるとはどういうことか?
 それを説明してみたい。
 つまり、それは、言葉の意味する役割や機能を遂行することで、あとから現実が構成されるというメカニズムのことである。言葉が先にあり、後から認識対象が形成されるというわけである。
 簡単な例でいうと、一本の竹竿があり、ある人が釣り竿と見なし、釣り竿として使用できれば釣り竿となるし、別の人が武器と見なし、武器として使用すれば武器となる。また、さらにまた別の人が物干竿として使用すれば物干竿になる。このように一本の竹竿について、釣り竿、武器、物干竿という概念を付与し、そのように機能すれば、本当に釣り竿、武器、物干竿という認識対象が出来上がり、実在することになる。
 そして、釣り竿、武器、物干竿という三つの認識は、どれも正しく、相対主義となる。一つの対象に複数の認識が妨げ合わず成り立つわけである。認識主観の側に認識の原因があり、認識主観のもつ目的に応じて、複数の真理がある世界となる。一つの真理しか認めない自然科学とは異なり、社会科学の世界では複数の真理が成り立つ相対主義の王国となる。 
 要するに、以上のように、何々として見なして使用することで、後から認識対象が構成されることになる。

 また、別の角度の例をあげてみたい。例えば、教師は教員資格に合格して生徒に教えるという役割を遂行することで教師として世間から認められる。役割存在は、役割を遂行し、役割が他者から承認されてはじめて役割存在となるわけである。教師は最初から教師になる人物に内存していた性質ではなく、役割という概念が先にあり、役割付与とその遂行を通して後から現実が形成されることになる。
 一般化していうと、言葉を付与され、その機能を果たしたり、その役割を遂行することで、事後的に社会的現実が形成されることになる。
 虐待という言葉が人々の相互作用を通して虐待をつくり、セクシャルハラスメントという言葉が人々の相互作用を通してセクシャルハラスメントをつくる。感情のレベルでも、親からの体罰的躾を虐待と解釈することで、あとから虐待を受けたという恨みの感情が生まれることがある。感情さえも後から言葉によってつくられる。犯罪行為も、法律による裁判を通して犯罪として社会的に構成される。
  このように、社会的事実においては、言葉(概念)が先にあり、後から現実が構築される。ポンイトは、後から構成されたとしても、認識対象が全くの無ではなく、実在するものとして人々の前に現象化するということである。社会的事実は、人々の意識(意味世界)の外にあるのではなく、意識を離れては成り立たない意存的対象ということになる。社会構築主義の立場からは、人々の意識から全く独立した自存的対象としての社会はあり得ないと結論付けられることになる。ちなみに、社会のメカニズムや構造は、人々の意識から独立して実在する自存的対象であると主張する批判的実在論の立場とは全く異なるわけである。
 
 そこで、種々の分類概念や分析概念をつくりだす社会学者が気をつけないといけないのは、自らがつくった社会理論が社会思想として人々に作用し、本当に社会的事実となることである。いわゆる予言の自己成就である。社会学理論が社会をつくるのである。マルクス主義がそれである。
 批判的実在論も例外ではなく、批判的実在論の科学観が社会をつくるのである。社会構築主義の観点からすると、近代社会における批判的実在論の役割は、科学を確固たる真理として社会に流布し、科学を正常に機能させることである。

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# by merca | 2016-01-03 12:26 | 理論

反社会学講座の盲点をつく・・・批判的実在論の観点から

 反社会学講座は、ほとんどの場合、人々の抱く常識を統計的データや史実によって否定し、常識と反対の命題を提示するという脚本で出来上がっている。これは一見すると、常識の根拠を問い直す社会学の方法とよく似ている。
 しかし、この脚本が読者に功を奏するのは、統計的データや史実こそが客観的な事実であるという常識が人々に流布しているからである。もし人々が統計的データや史実こそが客観的事実であるという真理観・科学観を抱いていなかったら、何のリアリティもパオロ氏の説に抱かないであろう。統計的データは、科学でもなんでもなく、特定の観点から現象を記述したものであり、様々な諸要因から生じた偶然の産物にしかすぎないのにである。 
 このように、パオロ氏は、多くの人々に共有されている共通の真理観・科学観を利用して逆説的な自説を真実に見せかけているのである。
 ここで、もしパオロ氏が本気で自説が正しいと思っているのなら、「統計的データ=客観的事実」という世間の常識に自らが染まっていることになる。
 パオロ氏は人々は常識や通説に騙されていると主張するが、自らも社会の常識に騙されていることになるのである。きちんと科学哲学を知っていれば、「統計的データ=客観的事実」という短絡的思考に行き着くことはない。また、自己の論理を自己適用しないところがパオロ氏が社会学でない証拠でもある。 
 
 具体的に示そう。
 さて、パオロ氏は、昔に比べると少年犯罪は減少しているという統計データでもって、古い世代の人間は今の世代の人間よりも凶悪であると結論付けている。本当にそうか?
 実のところ、これは、端的に社会条件を無視した議論である。戦後間もなくの日本社会と現代日本社会とでは、全く社会条件が異なる。戦後間もなくは、経済的、政治的にも不安定な社会であり、食べるのに困る人たちで溢れかえっていた社会である。また、教育制度や刑事政策制度も今のように進んでいない。そのような不安定な社会では、犯罪が多発するのは当然である。秩序は緩み、生きていくために犯罪をする人たちも多くいたわけである。
 
 このような社会条件を無視して、古い世代の人間は現代の世代の人間よりも凶悪であるというのは全くの戯論である。過度の孤立、貧困、失業が犯罪を生み出す要因になるという犯罪発生のメカニズム、それと犯罪抑制要因である刑事政策の進歩を無視した非科学的思考である。
 同一の社会条件のもとで、犯罪が減少したのなら今の若者のほうが凶悪でないと言えるが、このように著しく社会条件が異なるのに同列に比較し評価する彼の手法は明らかに科学的に間違いである。
 
 また、逆に戦後社会が安定して教育制度も充実化して来たにもかかわらず、犯罪をする現在の少年の方が凶悪化しているとも言えるわけである。殺人をしてみたいから殺したという理由のない殺人=脱社会性の少年による猟奇的犯罪のほうが明らかに凶悪である。
 社会学者宮台氏の分析のほうが優れているのである。質的観点からいうと、裕福な家庭に育ち理由なき猟奇的殺人をする現代の少年のほうが、貧困にあえぎ食うに困って強盗する戦後間もなくの多数の少年よりも明らかに凶悪である。

 他にも、パオロ氏は、近代化論を無視して、前近代社会である江戸時代の日銭稼ぎの就労者と後期近代社会である現代のフリーターを同列に扱い、フリーターになることを奨励したりしている。社会条件が全く異なるのに、過去の日本人と現在の日本人を単純比較し、昔はパラサイトシングルやフリーターも肯定されていたみたいな説を唱えている。 

 いずれにしろ、ほとんどパウロ氏の議論は、故意かどうかわからないが、社会条件を無視して、比較できないものを比較するという過ちを犯している。この過ちは、「統計的データ=客観的事実」と考える統計的実証主義の科学観にありがちな誤謬である。パウロ氏には、批判的実在論を勉強することを勧めたいものである。

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# by merca | 2016-01-01 22:47

「批判的実在論を考える」第2回 社会構築主義の克服

2 批判的実在論は、社会構築主義を克服したか?
 批判的実在論は、社会構築主義と一線を画する。社会構築主義は、科学も含む全ての人間の知識は社会的に構成された相対的なものであり、客観的なものではあり得ないと主張する。しかし、批判的実在論においては、人間の意識とは独立に外界に、生成メカニズムや構造が実在するという立場をとり、それらを把握することが科学の目的であると主張する。
  実験という方法で「閉じられた系」を作り出し、近似的に生成メカニズムや構造を解明していくことになるという。実験は意識が予測していない結果を出してくれるわけであり、意識の外にある自然界からの応答であるとも言える。つまり、人間の意識とは独立した自然界からの反応をメッセージとしてキャッチすることが実験の目的である。このような実験の意義については、自然科学の世界では当たり前の話であり、何も批判的実在論でなくても、たぶん科学者は普通にそのように考えていると思われる。実験が意味をもつためには、意識とは独立した存在=自存的対象を前提とする必要があるというわけである。
 さて、ここでポンイトは、外界に実存すると言っても、素朴実在論や経験的実在論のように経験的に存在する事物が実在すると言っているわけではないのを押さえておく必要がある。経験的に実在する事物は、意識によって加工された意存的対象にしかすぎない。例えば、目の前にあるイスや机などである。これらのように意識によって認識された目に見えたままの世界は、実在物ではなく、かえって意識や言葉によって構成されたものにしかすぎず、社会構築主義によってその実在性を骨抜きにされるのである。
 要するに、批判的実在論は、直接観察可能な事物=現象が実在すると言っているではなく、直接観察不可能であり実験でしか把握できないものこそが実在すると言っているである。この直接観察不可能で経験を越え、実験の積み重ねによる論理的推論やリトロダクションでしか捉えることができないものとは、生成メカニズムや構造のことであり、これのみが意識や社会による構成とは別に、世界で実在するというのである。
具体的にいうと、イスや机は意識によって把握された概念的存在=人工物であるが、イスや机を構成する木の細胞や細胞を構成する分子は実在するというのである。おそらく自然階層ごとの一個体のみが実在するということになると思われる。このような立場は、自然科学においては、科学的実在論というかたちで、洗練化されつつある。批判的実在論は、どらちかというと、社会科学をターゲットにしている。
 
 批判的実在論においては、人間の心も社会も直接観察不可能であるが、階層として異なる次元に独立に実在するという立場をとる。しかし、批判的実在論は、自然のメカニズムのように不動の存在として、社会が実在するとは捉えていないようである。
 バスカーは、社会構造に制約されたかたちで人間は相互行為をするが、その相互行為を通して社会構造も変化していくと捉えている。また、変化した社会構造が相互行為を制約する。パスカーは、このような螺旋状の循環的相互作用を見抜き、「社会構造とエージェンシーとの相互作用における分析的サイクル」として定式化している。これは、社会学者ギデンズの構造化理論と同型の社会理論である。
 
 しかし、ここまでくれば、社会構築主義とあまり変わらなくなる。基本的に、社会構築主義とは,社会は言語的コミュニケーションによってつくられたものであるという説である。その基礎は,バーガーとルックマンの知識社会学にある。社会構築主義の公理を定式化すると,外存化,客体化,内存化の三つの循環的過程となる。外存化とは,人間の内的世界が外部世界に投影され,なんらかの形をなすものとしてあらわれることを言う。客体化とは,その外在化されたものが所与の現実として客観的でリアルなものとして現れることを言う。さらに,内在化とは,その客体化された現実を内的世界に取り入れることである。例えば,法律は,人々がつくったものである(外存化)。その後,人々にとってその法律が社会環境の一部になる(客体化)。さらに,その法律を内面に取り入れ,自己の行動を規制していく内的な規範としていく(内在化)。
 
 批判的実在論と異なる点は、社会構築主義が社会の中に意識を取り込んだ理論にしている点である。パスカーによる「社会構造とエージェンシーとの相互作用論」では、意識の次元と存在の次元が交わることがない。ギデンズの構造化理論も同じてある。当事者の意識の次元と社会構造の次元を独立したものとして区別している。
 一方、社会構築主義は、意識の次元の内容が存在次元の客観的な規範=社会構造として外化し、さらにまたそれを意識が内在化することで個々人の行為に制約を加えるという構図になっている。
 かたやバスカーの相互作用論では、どのように社会構造が相互行為を制約し、どのように相互行為が社会構造を変化させるのか具体的に説明がない。
 というよりか、社会構造と相互行為の相互作用のメカニズムを説明していない。意識(=心)と社会が別次元の階層に属するという批判的実在論の立場からは、原理的に相互行為と社会構造の具体的関係は解明されないことになるのである。
 
 このような困難は、実はルーマンのシステム論では克服されている。別次元にありつつも、社会も意識も同じ意味システムであるという視点をとることで解決される。つまり、コミュニケーションを要素とする社会システムという発想で解決できるのである。
 コミュニケーションは、情報、伝達(発信)、理解についての選択からなる。意識システムが他の意識システムに何を伝えるか選択し、その伝達方法も選択し、そして他の意識システムが選択的に理解する。この一連の過程がコミュニケーションである。そして、コミュニケーションがどのようなコードに準拠して創発されたかで、創発されるシステムの種類が決まる。創発されたシステムは、コミュニケーションを通して自己を再生産する。事前のコミュニケーションが後続するコミュニケーションの前提となることで、コミュニケーションを再生産していくことになる。
 いずれにしろ、社会の創発に関して、意識システムが介在することになるわけであり、意識と存在の並行論とはならない。ルーマンは、社会構築主義と同じく、意識と存在の交差論の立場をとる。

 社会構造(ないしは社会システム)が前提となり、相互行為(コミュニケーション)をつくり、相互行為(コミュニケーション)が社会構造(ないしは社会システム)をつくるという循環過程については、社会学の本質的メカニズムにかかわる問題であり、簡単に語り尽くすことはできない。
 とりあえず、ここでは、並行論と交差論という二つの立場があることを確認しておこう。そして、批判的実在論が並行論をとることで、人々の意識によって社会が構築されるという相対性を排除していることを確認しておこう。

参考文献
 ロイ・バスカー著「科学と実在論」
 バース・ダナーマーク他著「社会を説明する」

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# by merca | 2015-12-31 18:15 | 理論