IE9ピン留め
科学哲学者・戸田山和久の科学観の矛盾
 科学哲学者たちは、科学とは何かについて探求し、一定の科学観を構築しようと努める。そして、科学と非科学(疑似科学)の境界線を引くことができる科学観こそが確立した科学観の資格をもつと考えられてきた。ただし、科学哲学者たちの科学観は、世界的に有名な超一流の社会学者たち、例えばウェーバー、マートン、ルーマン、ブルデューなどの社会学的視点による科学観とは異なる。社会学における科学と非科学の境界線は、社会システムの構造と相関しており、視点が異なるからである。社会学の場合は、科学的知識の内容の真偽は括弧に入れ、その社会的、歴史的な発生条件によって科学を定義することになる。
 
 さて、疑似科学批判者あるいはニセ科学批判者たちが準拠する科学観は、概ね伊勢田哲治(ベイズ主義)や戸田山和久などの科学哲学者の科学観に源流がある。ニセ科学批判の祖である菊池誠氏の科学観もこれらの科学思想を受け継いでいると考えられる。数年前に、社会学玄論ブログ内のコメントで、菊池氏が私に伊勢田哲治の「疑似科学と科学の哲学」を勧めてきたことも記憶に鮮明に残っている。
 菊池氏の科学観の特徴として、科学と疑似科学が連続しているというグレーゾーン論を見てとることができる。つまり、一つの学説は科学か疑似科学に完全に分けることができないが、限りなく疑似科学に近い学説を科学と称する場合、ニセ科学として批判するというわけである。さらに、科学と疑似科学を二分法的に明確に分ける科学観を批判している。
 現在のニセ科学批判クラスターたちも、グレイゾーン科学観を共有しているものと考えられる。戸田山和久氏著作の「「科学的思考」のレッスン」という著作においては、このグレイゾーン科学観が分かりやすく説明されている。以下、この科学観を批判的に検証していきたい。

 まず、科学哲学者・戸田山和久氏は、「科学が語る言葉」と「科学を語る言葉」という明確な二分法に基づき、科学概念を整理する。「科学が語る言葉」とは、科学の研究対象物の属性を記述する科学的概念である。酸素、DNA、自然淘汰などである。一方、「科学を語る言葉」とは、仮説、理論、反証、実験など、科学的知識の獲得方法にまつわるメタ科学的概念である。さらに、戸田山氏は、これまでの科学教育が単なる科学的概念の伝授となっており、メタ科学的概念の学習こそが必要だと主張する。このメタ科学的概念を学習することで、一般市民の科学的リテラシーの基礎ができると考えている。
 明らかに、(科学的概念/メタ科学的概念)という区別は、(目的=知識内容/手段=知識内容の獲得方法)という区別に対応していることが分かるのである。つまり、科学のアイデンティティが、その知識内容にあるのではなく、知識獲得方法や手続きにあるとする科学観である。この点を押さえておこう。

 科学の本質がその知識獲得方法にあるとするのなら、自ずと科学と疑似科学の境界線も、知識獲得方法を判断基準として、分別されることになる。しかるに、戸田山氏のグレーゾーン論は、そういう立場をとらずに、知識内容に準拠して科学と疑似科学の区別をつけようとしている。説明しよう。

 戸田山氏は、科学的知識は絶対的真理ではなく全て仮説であり、より良い仮説とそうでない仮説があるだけであると考える。さらに、より良い仮説とそうでない仮説を区別する基準は真理に近いことであるという真理の近似値説を否定する。
 その代わりに、「より多くの新奇な予言をしてそれを当てることができる」「その場しのぎの仮定や正体不明の要素をなるべく含まない」「より多くのことがらを、できるだけたくさん同じ仕方で説明してくれる」の三つの基準を用いることが妥当であると考える。言い換えると、予測能力、明確性、説明能力の三つが科学的知識の本質であるというわけである。例えば、天動説よりも地動説のほうが、予測能力、明確性、説明能力があり、より科学的だというわけである。
 ここでは、ある仮説や理論が事実そのものと合致していることが科学的であるとする論理実証主義的な素朴科学観は、否定されるわけである。事実と合致していることを確かめる手段として実験なるものが存在するが、実験で得られた仮説や理論があまり説明能力がないのなら、実験結果よりも既存の科学的仮説がよりよい科学的知識のまま君臨することになる。
 物理的リアリティに単純に訴えること、つまり自然による審判(実験)は二次的な要素にすぎないことになる。これは、ニセ科学批判者の菊池氏が水伝に対して既存の科学的学説と矛盾しており、反証実験の必要なしと喝破したのと同じ理屈である。既存の公認された科学的学説と矛盾することなく、既存の学説も含めて説明できることが求められるのである。
 
 幽霊や超能力や波動の研究などの超常現象を扱う研究は、いくら科学的手法で実験しても、既存の科学的学説と矛盾しており、予測能力、明確性、説明能力がないため、現代科学から排除されることになる。つまり、戸田山氏や菊池氏からすると、端的にニセ科学となる。これらは現代科学に居場所はない。

 いずれにしろ、予測能力、明確性、説明能力は個々の科学的知識の内容=仮説や理論を対象としている判断基準であり、その知識獲得方法や手続を対象にしている判断基準なわけではない。つまり、科学か疑似科学かの判断基準を科学的知識の内容に準拠して区別し、グレーゾーン論を唱えているわけである。本来は、知識獲得方法に準拠して科学と疑似科学は区別されるべきであるのに、科学的知識の内容に照準を合わせてしまっているわけである。戸田山氏は、折角、科学の本質はメタ科学的概念=科学的知識獲得手続にありきと提唱しているにも関わらず、科学と疑似科学の境界線を知識内容の予測能力、明確性、説明能力に求めてしまっているのである。この矛盾は誠に残念である。

 このように戸田山氏の科学観に矛盾が起るのは、一つの類推であるが、ニセ科学批判者特有の一つの先入観や価値観からではないかと考えられる。それは、はなから超常現象を扱う研究を科学から排除すべきだという先入観や価値観である。予測能力、明確性、説明能力の乏しさによって、超常現象を扱う研究は簡単に排除されるのであるから。
 公認された科学的手法で得られ、既存の科学的知識を覆す実験結果によって構築された仮説や理論が、予測能力、明確性、説明能力がなく、既存の学説と不整合であるとする理由だけで、却下され、ニセ科学のレッテルを貼られることは、科学の進歩の妨げになるのである。

 科学のアイデンティティをどこに求めるかで、科学とニセ科学の区別基準が変わってくるわけであるが、知識獲得手続を対象として境界線を引くことで、明確な二分法的基準を確立することができる可能性がある。例えば、科学界で公認された方法(観測・実験している/観測・実験していない)という二分法には、グレーゾーンは存在しないのでないとかと思われる。科学界で公認されていない観測・実験方法で得られた知識を科学的知識と豪語すると、はきっりとニセ科学となる。
 二分法的思考は重要なのである。実のところ、当の戸田山氏自身が「科学が語る言葉」と「科学を語る言葉」という明確な二分法で科学概念を整理し、自らの科学観を確立しているわけであるから、自身が二分法を否定するのは自己矛盾なのである。さらに、二分法が駄目だという言明こそが、(断続性=二分法/連続性)という二分法に準拠しているというパラドクスにニセ科学批判者は盲目である。 システム論的に言うと、人間の思考は区別=二分法から生じ、区別=二分法に終わる他ないのであり、二分法は思考の根源である。さらに、一つの二分法への執着を別の二分法で相対化する営みこそが、必要とされ、それが本当の科学的リテラシーにつながるのである。

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# by merca | 2012-01-08 11:34 | ニセ科学批判批判 | Trackback | Comments(0)
ブルデュー「科学の科学」は、科学の民主化批判か?
 現代社会学の巨人であるブルデューが、科学の本質に対する深い分析を加えている。大学での科学をテーマにした講義をまとめて出版された「科学の科学」がそれである。これは、基本的に科学社会学の書である。
 STSの中心的存在である科学社会学者平川秀幸らが主張する専門性の民主化(「科学の民主化」を意味する)という流れとは全く逆の科学観に準拠していることがもっとも興味深い。ブルデューの科学観によれば、科学的知識とは、一定の資格をもつことで科学界に所属することを許された=科学者たちや科学者集団が作り出す権威付けられた専門的知識である。
 つまり、ブルデューによれば、科学的知識とは、科学者個人が単に研究対象との関係から得るのものではなく、科学界において他の科学者との競争・協力関係から構築されるものであり、集合的産物であるということである。
 自然科学の場合、数学、統計学、語学などの素養があり、特定の分野の専攻学歴があるという参入資格を得たメンバーたちによって、科学界が形成されており、観測と実験で得られた研究の成果は、科学界の他の科学者たちに検証、討議された後、合意を得て、はじめて対象と認識が一致した知識と公認され、科学的知識ができあがる。この社会的手続きなしには、客観的な科学的知識だとは言えない。そして、重要なのは、観測と実験の方法については科学界における特定の規則があり、その規則に従っていることが求められる。単純に実験における対象の反応結果が審判を下すのではなく、実験で得られた知識は、他の科学者による検証・討議による合意を得ないと駄目なのである。
 科学的知識とは、実験と観測で得られ、かつ科学界で検証・討議され合意を得た知識なのである。ブルデューは言っていないが、私見から言うと、それプラス国家=官僚が認めたことで、人々は科学的知識として安心して受容することになる。
 このような科学的知識の社会的構築過程を考えると、科学的リテラシーとか科学の民主化などは、ほとんど期待できない。まずは、数学の素養がないと科学的議論には参加できない。数学ができない文系人間は、科学的討論の外におかれることになる。非専門家が討議できるのは、科学的知識の社会における有用性くらいになる。

 視点は変わるが、先述のようにブルデューは、科学的知識が社会的に構築されたものであるという考えをとるものの、科学的知識の内容には社会的要因が入り込む余地がないと考える。ここが最大のポイントである。
 実は、対象と認識の一致=物理的リアリティを保証する装置として、科学界は機能していると言っているのである。科学社会学の祖であるマートンは、科学者集団によって科学的知識はつくられると言って入るが、その内容の真理性は括弧に入れており、不問にする。これは、ちょうど、宗教社会学者が研究対象である特定の宗教の教義内容の真理性や道徳的価値を問わないのと同じである。ちなみに、内容に対する真偽や善悪を問わないこの姿勢こそが社会学者に共通する価値中立の態度である。
 科学社会学の中には、エジンバラ学派のデヴィット・ブルアのように、科学的知識の内容が社会の影響を受けると考える流れもある。これは、科学的知識を相対化する極端な相対主義の立場をとることになる。ニセ科学批判者が一番嫌がるタイプの科学社会学である。科学的知識は社会によって異なるというテーゼは、科学の普遍性を卑しめることになる。このような相対主義ともブルデューは一線を画する。
 社会的条件が科学的知識の構築に影響を与えることにブルデューは、一面では否定しており、別の面では肯定しているようである。まず、ブルデューは、社会的条件が科学的知識の内容に影響を与えることはないと確信する。その理由は、科学界が存在するからである。科学界が専門的に定めた実験と観測の規則に従って得られた研究成果を携える各の学者たちが、一つの真理のポストを巡って討議し争うことで、社会に左右されない正しい知識が確定できると考えている。一つの知識は、実験と討議という二重の審判にかけられて真偽が決定されるわけである。
 このような社会的過程が、むしろ社会的条件が知識に影響を与えることを排除して、社会とは無縁な正しい物質に関する知識を得ることを可能にするというわけである。言い換えれば、科学界は、科学的知識における社会的影響排除機能があるのである。
 そして、科学界の機能が科学を進歩させてきたのである。しかし、この機能は、科学界が参入者の資格制限など閉鎖性をもつことで、担保されることは言うまでもない。
 ブルデューは、科学界の機能のおかけで、社会構築主義者の極端な知識相対主義と、物理的な真理の構築には他者の意見は必要ないとする素朴実在論という二つの極端な立場の対立を止揚することができると考えている。
 科学的知識は、社会(間主観的関係=科学界の検証・討議・合意)を必要とするが、そのことでかえって物理的リアリティを担保できるというわけである。個人ではなく、社会が物理的にも正しい科学的真理をつくりだすということである。つまり、社会を離れた科学的知識は存在しないものの、その内容それ自体は物理的に正しいのである。一番重要な点なので、何度ども強調するが、近代科学においては、知識獲得方法及び真理認定過程は社会的(共同主観的)であるが、知識内容それ自体は社会に左右されない真理として定立されるのである。

 ブルデューの議論からすると、平川氏のように、科学は誰のものかと叫び、科学的専門性の民主化を啓発し、万人に科学を解放すると、科学的知識の内容それ自体に社会の影響を持ち込むことになり、科学的知識の真理性を脅かすことになる。その意味で、平川氏のプランには、慎重さが必要である。
 科学の民主化・大衆化の事例としては、やはりニセ科学批判があげられる。ニセ科学批判は、素人による科学的知識の真偽の判定を伴っており、実験や観測もせず科学界の合意も得ていない自分の意見を述べて、言わばニセ科学コミュニケーションをしている。ニセ科学批判の祖である菊池氏も、専門外である医学まで口出ししている。
 科学的討論においては、その資格がある者のみが参加可能であり、科学界内部における限定された民主主義であることを弁えるべきである。 閉鎖性・自律性をもつ科学界への信頼を寄せるブルデューの議論からは、科学の民主化・大衆化は科学そのものを否定することになるのである。
 ブルデューの科学観については、ルーマンの「社会の科学」を読むことによって、さらに検討していくことにしたい。

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# by merca | 2011-12-25 11:32 | ニセ科学批判批判 | Trackback | Comments(0)
「居場所の社会学」書評 「自分探し」から「居場所探し」へ
 阿部真大という社会学者がいる。「居場所の社会学」という若者論を書いている。興味のある点は、居場所の社会学が独自の幸福観に準拠していることである。それは、居場所のない人間は生き辛さを感じ、不幸であり、居場所のある人間は幸福であるという思想である。この幸福観は、人間科学的に何ら実証的根拠をもつものではないが、阿部真大氏の個人の社会体験に根付いた貴重な思想なのである。
 阿部氏は、居場所がある人間は幸福であるという思想に基づき、家庭、職場、学校、地域社会、サークル、仲間集団、恋愛など、あらゆる社会的領域を人々の居場所にすることで、社会全体がよくなると考えている。
 ただし、各社会集団が人々の居場所となっても、それがイコール各社会集団の社会的機能遂行に直結するとは限らない。この点は、保留しておきたい。
 
 これまでの社会学の分析概念から居場所という概念に近い概念を考えてみたい。社会学者ハーバーマスが準拠する(システム/生活世界)という区別のうち、居場所というのは、生活世界に対応する。また、社会学者テンニースが準拠する(ゲゼルシャフト/ゲマインシャフト)という区別のうち、居場所というのは、ゲマインシャフトに対応する。要するに、居場所は、肯定的である人格的、情緒的な人間関係が存在する場所ということになる。
 阿部氏は、居場所は個々の主観が居場所と感じる場所ということで客観的定義をすり抜けようとするが、それでは社会科学的には何も定義したことにならないのであり、私なりに定義すとる次のようになる。

 居場所とは、ある人間にとって、肯定的である人格的、情緒的なかかわりを提供する人間関係や集団である。

 阿部氏は、高齢フリーターなどの職場に生き辛さを感じる人たちに「ひとりの居場所」という処方箋を提示しているが、これは人と無関係な場所というわけではなく、周囲が本人に関わらない配慮をするという形態の対人関係であり、完全な独我状態ではない。バスや電車の中で、全くの他人に話しかけないように人々が配慮するのと同じである。互いに話しかけないという無関心という名の配慮で、バスや電車の中は心地よい瞬間的な居場所になるのである。

 社会に存在するあらゆる集団や対人関係には、その社会的役割とは別に、自然に生々しい人間関係が発生し、好き嫌い、包摂・排除が起る。人間が役割存在としてだけ生きていない証拠である。学校や職場において、インフォーマルな仲間集団が形成され、そこで承認されなければ、生き辛さを感じ、結果的に挫折・離脱することになる。
 国家が不登校児童対策や就労支援対策としてどんな制度システムを構築しても、個々人の居場所にならなければ、定着性がなく、うまくいかない。ミクロ社会学の知見が必要となる。あるいは、社会学者・内藤朝雄氏の中間集団全体主義論の観点が必要である。

 社会的包摂とは、単にホームレスやニート等を職に就かせることだけではない。彼らにとってその職場が居場所にならなければすぐに辞めてしまい、包摂の意味がなくなる。社会的包摂の真の意味は、排除された人たちに居場所を与えることである。

 全ての人がどこかに居場所を見つけることができるような社会こそが阿部氏の理想とする社会であろう。阿部氏が社会のどこにも居場所を見つけることができず、生き辛さを感じていた青春時代を送っていたことが類推される。
 
 社会学では、意識調査などの統計調査よりも、このような学者個人の主観的な体験が実は一番客観的であったりする。それは、はなから社会という化物がストレートに阿部氏の主観に宿っているからである。主観的であればあるほど客観的になるのである。最高の玄妙なる立場から言うと、客観=社会と主観=個人の区別がなくなるところに、社会における真理は開ける。大型の理論社会学はその類いの真理である。
 
 若者の意識が「自分探し」から「居場所探し」へシフトしていることを察知した阿部氏の社会学的洞察眼は高く評価したい。そして、今後、阿部氏の居場所思想が若者の生き辛さ論と相まって居場所探しブームを引き起こすことを期待したい。

  参考 
 阿部氏は、宗教について語っていない。宗教が全ての社会的領域から排除された者の受皿=居場所として機能することを見落としている。社会の中に居場所を見いださせない者は、世界の中に居場所を見いだすのである。神仏から無条件で肯定される宗教の世界は、社会の不十分性を補完するのである。以下が参考記事である。
 コミュニケーション弱者の受皿としての宗教の機能
 http://mercamun.exblog.jp/14456650/

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# by merca | 2011-10-30 18:46 | 社会分析 | Trackback | Comments(2)
俗流若者論としての「絶望の国の幸福な若者たち」書評
 社会学者古市憲寿が「絶望の国の幸福な若者たち」という若者論を出版した。早速、自費で購入して読んだ。古市自身も20代の若者であるので、これは若者による若者論である。近年、後藤和智が、オヤジ世代による科学的根拠のない若者論を批判し、俗流若者論批判というジャンルを確立したのはよく知られているところである。俗流若者論批判は、ニセ科学批判と並ぶ思想上の発明品である。
 実は、古市氏による若者論も、俗流若者論として観察できる。俗流若者論は、中高年によるものだけではなく、若者によるものも含むのである。
 
 まず、「絶望の国の幸福な若者たち」で言わんとすることは、全体社会たる国民社会の行末がどうであれ、若者たちがコンサマトリー化しており、終わりなき日常である等身大の日常生活空間で承認を得ることで満足しているということである。従って、小林よしのりが国家存亡の危機感を煽ろうが、経済評論家が国家の経済破綻を叫ぼうが、将来大震災が起ろうが、全く今の日常を生きる若者にとっては、全て未来のことであり、若者の幸福感に何ら関係のないことになるのである。
 要するに、古市氏は、(生産/消費)(意味/強度)(将来のために今を耐え忍ぶ/今が楽しければいい)という区別に基づいて観察している。これは、宮台氏の「まったり革命」と全く同じ観察点=区別に準拠した若者論であるということである。
 
 中高年世代である宮台氏の観察点を採用しているのであり、とても若者による若者論とは思えない。社会学を勉強することで自ずと、宮台氏の区別に準拠し、それを採用してしまっているのである。後藤和智は、俗流若者論として宮台氏の成熟社会論を厳しく批判するが、同じ区別に準拠している以上、古市氏の若者論も俗流若者論となってしまうだろう。若者の視点ではなく、宮台氏という前世代の中高年の視点から若者を観察しているのである。
 たとえ、生産ではなく消費、意味ではなく強度、将来のために耐え忍ぶではなく今が楽しければいいという適応形式を肯定するにしても、この区別に準拠するかぎり、古い世代のものの見方だと言わざるを得ない。
 
 さて、これらの区別ではもはや社会や若者は捉えきれない。意味や目的にとらわれず、終わりなき日常をまったりと生きることが成熟社会に適合的な生き方であると主張した「まったり革命」なるものが挫折したことはあまりにも有名である。社会の過剰流動性の中で、まったり革命の希望の星であったコギャルたちがリストカットやメンタル系に走り、決して自身の承認不足感を埋めることができなかった現実が見落とされている。近代社会の人間は、今が楽しければそれでいいという生き方だけでは、破綻するのである。幸福な生を営むには、最低限の自身を保証する安定的なものが必要なのである。
 
 また、同著においては、若者の震災ボランティアについて、若者の自分探しや自己承認という解釈をしており、これも一つの俗流若者論である。所詮、若者のボランティアは自分探しや自己承認の域をでない利己的なものであるという俗説に基づいている。若者による義援金や献血が自分探しや自己承認と関係あるのだろうかと思う。義援金や献血に自分探しや自己承認の機能があるとは到底思われない。
 震災ボランティアの本質は、若者であれ、中高年であれ、単純に、困っている人を見て助けたいという倫理性であって、それを自分探しだの、承認のためだとかいうのは、事実ではなく、外的視点による解釈にしかすぎない。ある種のボランティアに自分探し機能や自己承認機能があることは結果であって、その動機ではない。震災ボランティアは、被災した人や街の姿や声があって、それを見て何とかしたいという感情が出発点である。他者の姿が最初にあり、自分は勘定の外にあるものである。古市氏が、自分探し・自己承認のためのボランティア活動というありがちな俗説に取り込まれたのは惜しいと言わざるを得ない。承認の共同体という一種の偏った視点から若者の行動を観察したために、他者性倫理というボランティアの本質を見誤ってしまっているのである。そして、ありがちな俗流若者論になっているのである。
 
 現代の若者の生き辛さを唱える論客も多くいる中、古市氏は若者は幸福だと信じている。「現代の若者が幸福である」という仮説については、内閣府の「国民生活に対する世論調査」という単純な統計を根拠にしているようであるが、幸福ほど推し量るのに難しい概念はない。
 拝金主義者は金があれば幸福だと答えるし、恋愛主義者は交際相手がいれば幸福だと答えるし、健康第一主義者は健康であれば、幸福だと答えるであろう。幸福感ほど相対的なものはない。社会科学的に若者論を語るのなら、若者の多くを占める幸福感の変遷を調査すべきであろう。例えば、社会が不況になっても、若者に家族主義者が多くいれば、家族で一緒に暮らせることで、幸福に感じるのである。若者が何に幸福を求めているかの実証的な調査が必要である。古市氏には、承認こそが若者の幸福を保証するものであるという信仰が認められる。全共闘時代には、承認ではなく、思想を求めた若者が多かった。これも時代とともに変わるのである。
 また、これは致命的であるが、社会情勢と個人の幸福に相関関係があるという信仰を前提にしてしまっている。個人の幸福は、社会が決めるのではなく、基本的には個人の個別的条件で個人が個別的に感じるものである。社会がよくなることが個人の幸福をもたらし、社会が悪くなることが個人の不幸をもたらすというのは、社会学者がもつ信仰=方法論的全体主義にしかすぎない。人の幸福・不幸は社会がつくるものであるという暗黙の前提に基づいているが、この前提を抜き取れば、全体社会が悪くなっても、個人の幸福とは関係なく、絶望の社会においても、個々の若者が幸福感を感じていても不思議ではないのである。絶望の国の若者が幸福だということへの驚きは驚きでも何でもなく、実のところ社会学を勉強したためにもった社会学信仰のフィルター(社会学が人をつくる)に原因がある。

 俗流若者論批判者の後藤和智が、社会学者古市憲寿の「絶望の国の幸福な若者たち」にどのような評価を下すか非常に興味があるのである。これは私のみならず、多くのネット論客の注目するところであると思う。
 仮に「絶望の国の幸福な若者たち」の主張が事実でなかったとしても、同著に共感する若者が多く現れ、その生き方が若者たちにコミュニケートされ、規範化されていくようならば、もはや俗流若者論ではなく、社会思想として社会的リアリティを獲得するであろう。社会科学は社会思想として多くの人々に観察され採用された時にはじめてその社会的機能を全うするのである。私は、「絶望の国の幸福な若者たち」を俗流若者論として観察することで、それを防止する試みをしてみた次第である。

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# by merca | 2011-09-18 22:50 | Trackback | Comments(0)
世界とは何か?
 世界あるいは宇宙は、一つの全体性=同一性ではない。そのような全体性や同一性を越えたところに世界はある。もしかりに世界が一つの同一性であるのなら、その同一性を根拠付ける外部が必要となり、世界に外があることになる。世界の外があると、世界は世界足り得なくなる。世界とは、一切であり、その外に出ることができないから世界なのである。世界は、内外の区別を越える真無限である。
 また、世界は場所であり、実体ではないので、本来、主語化できないものである。世界は主語化された途端に、一つの実体となり、世界足り得なくなるのである。つまり、「世界はこれこれだ」と述定した途端に、世界に同一性が付与され、世界は世界でなくなってしまい、世界は捉えられなくなってしまう。つまり、原理的に、世界は決して認識することはできないのである。認識できはしないが、それがあることを私たちは知っているのである。このような世界に対する知は、科学的知識の外にある。科学が宇宙がこれこれだと分析した途端に、宇宙は宇宙でなくなるのである。宇宙は認識作用ではなく、別の仕方で感じ取るものなのである。認識作用ではない知を人々は忘れており、科学のような認識作用のみが知である勘違いしているのである。

 しかし、強いて言うと、世界とは、一切と一切の関係であり、万物はその関係項である。ライプニッツのモナド論や仏教の事事無碍法界が世界論を正確に捉えている。またルーマンは、世界を無限なる複雑性として捉えた。このような哲学者たちの知は、科学のような認識作用による知ではなく、生得的な直観知によって得ているのである。
 世界論では、世界は、それぞれの万物の唯一性によって成り立っていることになる。それぞれの万物に区別がないのなら、世界は同一化してしまい、世界は世界足り得なくなる。無数の万物が世界の無限性をもたらすのである。
 
 星空を眺めたときに、我々は一つの全体性ではなく、無限性として世界・宇宙を感じる。その無限性は、無数のそれぞれの星が輝いていることからくる。星が一つもない暗闇という同一性に世界を感じるのではなく、無数の星の存在があることに世界の無限を感じるのである。世界という感覚は、そのように感受される。それが生得的な直観知である。
 
 社会も一つの世界だと考えると、この生得的な直観知は、人類社会=世界社会=万人と万人の関係を知る場合にも、必要となってくるのである。ある種、認識作用を越えた知でもって、世界社会を観察するのが、理論社会学の要諦である。世界社会の無限性を考えるときに、無数の人々の行為やコミュニケーションのそれぞれ性、唯一性こそが必要となる。
 今回、世界社会は、国民社会を越えて、東日本大震災において海外から支援や励ましのメッセージが届き、それに感謝する被災地との倫理的コミュニケーションにおいて、創発されたことが観察できた。そのメッセージの唯一の無数性が世界社会の無限性を支えているのである。ともあれ、そのような世界社会を観察する知は、ある意味、直観知であり、社会学玄論の玄とは、そのような玄妙な知を意味するのである。

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# by merca | 2011-09-10 08:43 | 理論 | Trackback | Comments(0)
被災者の視点「被災地の本当の話をしよう」書評
 東日本大震災によって東北の海岸沿いにある多くの市町村が壊滅状態になった。この事実は、マスコミによって報道され、そして多くの支援や励ましが日本全国や海外から届いた。
 陸前高田市もこの未曾有の大震災の津波被害によって、壊滅状態になったが、復興に向けて、同市の市長は、負けずに命を懸けている。陸前高田市の市長である戸羽太氏が、全国の人々に向けて、一つのメッセージを発した。それが、今回の「被災地の本当の話をしよう」という新書である。
 戸羽氏は妻と自宅を亡くした被災者である。つまり、同著では、被災者自身の視点から、被災地の現状が語られているのである。マスコミ報道は外的な視点に立ち客観的な事実を伝えるが、同著を読むことで、被災者自身から震災がどんな意味を持ち、さらに被災に対する支援がどのような役目をもっているのか克明に理解することができる。被災者の気持ちが伝わってくる。
 
 その中で、もっとも印象が深かったのは、戸羽市長が日本全国や海外からの支援や励ましに対する被災者の気持ちを語っている部分である。市長によれば、震災による辛い日々を耐えてきたことができたのは、日本全国や海外からの支援や励ましによって、一人じゃないんだという実感がもてたことであり、そのことを恩に感じており、それを忘れてはならないという気持ちがあるというのである。 多くの心ある人たちからの支援やメッセージは、このように被災者の復興のエネルギーの一部になっているのである。また、どの国が、また誰が支援してくれたかを忘れてはならないということで、支援者の個別性にも気を配っている。感謝という行為は、支援者一般ではなく、そのそれぞれ性に対して向けられることが大切だとわかっているのである。励ましが寄せ書きのかたちで送られてくるのは、それぞれ性を感じることができるためである。日本全国や海外のそれぞれの人たちとつながっているという感覚を感じることができることが大切なのである。宇宙が無限だと感じるのは、それぞれの無数の星が輝いているからである。無限の基礎は、画一的な全体性ではなく、唯一のぞれぞれ性、無数性にある。
 
 ともあれ、ここでも他者論的な倫理的関係が創発されているのである。マスコミを通じて困っている人々の存在を知り、自発的にそれを支援したいと思う人々が、支援し、そして、支援を受ける側もそのそれぞれの支援に感謝を感じるわけである。もしも支援に対する被災者の感謝に倫理や美しさを見ることができない者がいたとすると、それこそ真のニヒリストである。

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# by merca | 2011-09-04 01:26 | Trackback | Comments(0)
生物多様性は自然の摂理 思想多様性は社会の摂理
 相対主義は、多様性を肯定する思想である。実は、人為を越えた自然界も相対主義が貫かれており、意外にも、相対主義の根拠は自然界にもある。
 考えてみよう。もし自然界に一つの種類の生物しか存在しないのなら、生物は絶滅しているだろう。生物多様性という言葉が流行っているが、生物は多様性をもつことで、生き残ってきたのである。さらに、その多様な種類の生物が関係すること(食物連鎖=生態系の形成)で、それぞれの種が維持されている。多様な生物は相互依存することで、生き残っている。
 自然界では、どれか一つの形態の生物のみが正しいわけではない。みんな正しいのである。多様性を肯定し、多くの選択肢を温存させるこの自然界の知恵=摂理こそが、相対主義の原型なのである。
 
 思想においても、同様であり、人間社会に溢れる多くの異なる思想は、どれか一つだけが正しいというわけではなく、多様性をもちつつ、相互依存しているのである。人類は多様な思想を生産してきたからこそ、状況に応じて多数の思想から適切な思想を選択し、現在、生き残っているである。人類社会は、多様な思想を生産することで、発展し、絶滅を逃れているのである。
 自然界の多様な個々の生物は、他の生物の存在との関係性を前提として生かされており、バラバラに存在するのではない。関係性こそが多様性を可能にしているのである。それと同じく、一つの思想が他の思想と関係し合うことで、一つの思想は成り立つ。多様な思想はバラバラでは存在し得なくなるのである。論理面において、このことに最初に気づいたのが西洋ではヘーゲルである。
 なお、念のためにいうと、悪しき相対主義は孤立的にバラバラに思想が存在すると捉えるが、私の主張する相対主義は関係性を前提とした相対主義であり、全く異なる。この点の重要な区別がつかず、原理性相対主義などと私を批判する者がいるが、それは的外れだと言えよう。私の相対主義を批判する者たちは、(関係性/無関係性)というコードのうち、無関係性のコードに準拠していることに気づかない未熟な論客なのである。
 さて、話を戻すと、生物多様性が自然界の摂理であるように、思想多様性は、社会の摂理である。
 にもかかわらず、科学のみが正しい知識・思想であるという科学主義がはびこり、思想多様性が破壊されつつある。ニセ科学批判がそれである。ニセ科学批判者は、相対主義を批判することで、思想多様性という人類の社会進化を否定していることになるのである。
 ニセ科学批判という思想は、ニセ科学という思想を獲物にしなければ生存できないわけであり、ニセ科学を完全に否定しては成り立たないのである。また、ニセ科学批判は通俗道徳という他の思想に依存しなければ死滅する。
 相対主義たる思想多様性の摂理に基づき、思想の生態系=思想地図を作成し、思想の相互依存性を解明することは、まさしく、これからの新知識社会学の使命なのである。

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# by merca | 2011-07-24 09:58 | 理論 | Trackback | Comments(0)
ギデンズの二重の解釈学という社会学的啓蒙
 ルーマンやブルデューと並ぶ現代社会学の巨人と言えば、英国の社会学者ギデンズである。ギデンズは、二重の解釈学、構造化理論、再帰的近代化、親密な関係など、多くの有意味な社会を観察する方法を提示し、日本の社会学者や大学院生に影響を与えている。
 ギデンズ社会学の核心は、二重の解釈学という考え方にある。これは、社会は対象と認識の一致という素朴な自然科学的な真理観では観察できないということを意味している。
 
 二重の解釈学によれば、出来事、行為、コミュニケーションなどの意味付けは、社会内で行為する当事者の共同主観的な意味付けと、社会学者が行う意味付けの二つのレベルが存在している。また、この二つのレベルは、相補的な関係にあり、当事者の主観的な行為が社会構造を創造・再生産するというのである。
 具体例を示そう。例えば、結婚するという行為は、結婚する当事者たちにとっては、恋愛を成就させて一緒に暮らしたいという目的で遂行されるわけであるが、社会システムから見れば、家族や社会階層の形成や将来の社会成員の再生産を意味していることになる。社会システムを維持するために結婚したという人はいないにもかかわらず、結婚によって未来の労働人口を確保し、結果として社会システムの構造を維持することにつながるのである。恋愛は結婚で成就する、あるいは結婚して家庭をつくることが人間の幸福という思想が共同主観として男女に内面化され、求婚活動を動機付けているのである。誰もわざわざ社会構造維持のために結婚して家庭をつくっていると思っておらず、好きな人と結婚して子供をつくりたいと思っているだけなのである。
 とにかく、社会内当事者たちが共同主観に基づいて主体的に行動すればするほど、社会の構造が再生産されるわけである。重要な点は、当事者の意味付けの内容と社会学者の意味付けの内容が一致してなくてもいいということである。時と場合によっては、内容が矛盾していても、かまわない。
 例えば、過去の全共闘運動においては、共産主義革命という意味付けの学園闘争をすればするほど、資本主義社会は成熟化していくという逆説的な結果が起こった。個々人の思惑を離れて、個々人の行為の総和が全く異なるかたちで社会全体に影響を与えるということは、よくある。これも一種の創発の妙理であろう。
 ちなみに、システム論の文脈で言うと、当事者間の意味付けは共同主観的意味付けであり、社会学者による意味付けは機能主義的意味付けということになる。前者は第一次観察に対応し、後者は第二次観察に対応する。また、ハーバーマス社会学の文脈でいうと、当事者間の意味付けは生活世界を構成し、社会学者による構造に対する意味付けは、システムということになる。
 ハーバーマスは、システムが生活世界を植民地化するという危機意識をもっていたが、ギデンズは構造が人々の主体的な行為を支配するのではなく、逆に人々の主体的な行為が構造を生産すると考えており、社会に対する疎外意識・拘束感を視野の外に入れた。
 
 ともあれ、社会学者は、対象となる出来事や行為に対して、当事者である人々による内面的な意味を把握しながらも、社会全体に対する意味を見つけ出し、この二つのレベルの相互関連を注意深く分析していくことになるのである。
 付け加えると、この二つのレベルの解釈は、どちらが正しいということはない。例えば、祭りは神様へのお礼のためにするという当事者たちの共同主観的意味と、祭りは共同体の凝集性を高めるという社会学者による機能主義的意味のどちらも間違いではないということである。むしろ、神様へのお礼という共同主観的意味が単純な科学主義によって否定され、人々が祭りをしなくなり、共同体がバラバラになるほうが有害なのである。社会学は、科学主義が事実の名のもとに人々の生活世界(意味世界)を破壊することを唯一防ぐことができる学問なのである。ギデンズの二重の解釈学は社会学的啓蒙の一つなのである。
 
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# by merca | 2011-05-01 10:58 | 理論 | Trackback | Comments(2)
世界からの祈り(Pray for Japan) 他者愛の連鎖
 このサイトを見よ!!

 Pray for Japan
 http://prayforjapan.jp/message/
 
 東日本大震災が起こり、多くの人々が犠牲になった。しかし、世界中にいる無数の人たちが祈りを捧げてくれ、普通の人々の間で利他的行動が伝染・連鎖している。一体、これはどういうことか!!
これは、宮台真司が提唱する卓越した一人の利他的カリスマへのミメーシス(感染的模倣)とは全く異なる精神である。また、共同体を越えて、世界に住む無数の他者から祈りと支援が届いてくるわけであり、当然、小林よしのりが重んじる郷土愛・愛国心とも全く異なる精神である。
 カリスマでもなく、国家社会でもなく、平凡な普通の人たちの中にこそ、神仏はいるのである。これは物語ではなく、まぎれもない事実である。街角では、多くの人たちが献血や募金をしている。 ニーチェはこの事実に気づかず、ニヒリズムに陥った。レヴィナスやマザーテレサたちが、共同体を越えた一人一人の他者の中に神をみた。それは、他者愛である。他者愛は、平凡な一人一人の人々の中に宿る。
 それは、困っている人たちがいると、「あなたがたは、一人じゃない」と囁くのである。そして、そのメッセージは、共同体を越えて全世界の人々に連鎖していき、祈りと支援を生み出していくのである!! 
そして、世界平和がもたらされるのである。国家どうしの憎しみ合いは、他者愛の連鎖の前には消え去るのである。韓国と中国も日本を支援してくれている。他者愛の前には、小林よしのりの未熟な愛国心も何も意味をもたなくなる。我々は、異国=他者であるオバマの演説にむしろ励まされるのである。なぜだろうか?

 リンカーンのスピリットを受け継いだ平和主義者オバマは、言う。
 「私たちは日本とともにいます」と。

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# by merca | 2011-04-04 23:17 | 反ニーチェ | Trackback | Comments(54)
具体的批判対象を提示できない反社会学講座は空虚である。
 私は、反社会学講座が藁人形論評だと断じた。その理由は、具体的事例を出さないことにもある。
 つまり、パオロ氏が批判する個人的な偏見をへ理屈で理論化した社会学者については、反社会学講座では具体的批判対象たる実名が出てこない。
 結局、具体的批判対象としての実例を出せないということは、該当する社会学者が一人もこの世の中にいないことになり、社会学は個人的な偏見をへ理屈で理論化したものであるというパオロ氏の主張は全く成立たなくなる。また、数人の名前をだしたところで、そんな少ないサンプルで社会学者全てを代表させることは、統計学上、全く意味をもたず、非科学的である。
 
 さて、パオロ君に告ぐ!!
 一体、パオロ君のいうところの社会学者とは、誰かね? 例えば、有名な日本の社会学者には、土場学、太郎丸博、高坂健次、富永健一、浅野智彦、土井文博、そして社会学の巨人・宮台真司など多数いるが、誰のことかね。本当に全ての社会学者の著作を読んだのかね。
 実例を示せないというのなら、君の言説は嘘であり、非科学的である。それとも、実例を示すと、本格的に批判されるから怖いのかね。
 このように実例もないのに、反社会学講座を読んで説得力があると賞賛する読者は、非科学的でメディアリテラシーが全くないことになるのである。本当に自己を辱めることになるので、反社会学講座を賞賛することはやめよう。
 あるニセ科学批判者曰く、実例がない主張は空虚である。ここでも、私のライバルであるニセ科学批判者の論法がそのまま反社会学講座に当てはまるのである。

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# by merca | 2011-04-02 19:37 | 社会分析 | Trackback | Comments(0)
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