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ニセ科学批判への違和感の本質


 客観的事実とは、その対象について、いつ誰が見ても同一の認識内容をもたらす命題のことを言う。客観とは、個々人の視点を離れた万民が共有・利用できる視座からの観察である。そして、科学主義者は、科学という方法で認識すれば、万人が同一の認識内容を得ることができ、人類共通の知識、技術として共有できると考える。一方、主観的事実とは、特定の個人にしか立ち現れない認識内容である。例えば、ある絵を見て特定の印象をもったとする。しかし、その印象は、その個人にとっては、厳然たる事実であるが、万民が共有できるものでない。しばしば、それは心理的事実、精神的事実と呼ばれる。(霊能力者がオーラが見えるというのは、主観的感覚のレベルの話であり、客観的事実とは異なる心理的事実である。従って、客観的事実として見なすのはカテゴリーの混同である。)
 しかし、このように客観的事実を定義すると、科学のみが客観的事実をつくりだす道具ではないことがわかる。同じ認識方法をとれば、同じ認識結果をもたらすのなら、同じ宗教思想を身につけた人間どうしは、同じ認識内容をもたらすことになる。例えば、雷が鳴ったら神様が怒っているという物語を所有している未開社会があったとすると、その共同体の成員は、神様が怒ったと同じ認識をもつことになり、その社会では客観的事実となる。(社会学者トマスの公理・・・人々がそれをリアルだと見なすと、本当にリアルになる。) これを客観的事実ではなく、間違いと指摘するのは、いかにもナンセンスである。もし万民が同じ物語を所有したら、客観的事実になるからである。一つの民族社会で生じた宗教観念が世界全体に行き渡り、利用可能なかたちで共有されていく過程は、歴史を学んだ者であれば、誰でも承知の事実である。ユダヤ教から発したキリスト教などの世界宗教がそれである。科学のみならず、あらゆる思想は利用可能性に開かれており、その認識が客観的事実となる可能性を秘めている。
 
 人に対して客観的事実と異なり間違っていると指摘することは、暴力を伴うことがある。つまり、我々の見方が多くの人々の見方で正しく、あなたの見方は訂正しなければならないという圧力となるのである。ニセ科学批判者たちが、科学を利用して、スピリチュアルや占いを闇雲に批判しまくるのは、一種の暴力としても観察できるのである。
 このようなニセ科学批判に暴力性を見てとる平和で穏健な人々は、ある種の違和感を感じるのである。ニセ科学批判者やその周辺者たちがピラニアのごとくコメントしてくる社会病理現象はよく知られている。その言説の暴力性は凄まじい。ニセ科学批判に賛同する社会学者をほとんど見かけないのは、このような違和感に由来していると思われる。手を出せず、沈黙を守る社会学者がほとんどである。言いたいことが言えない状況かもしれない。
 以前、私は、ニセ科学批判は、人々から科学と呼ばれるものだけに限定し、科学内部の闘争に止めるべきだという趣旨でエントリーを書いた。つまり、スピリチュアルや占いや宗教などの社会における他の分野の文化を対象にすることは慎むべきだということを書いた。科学による文化破壊によって、人々の選択肢が減ることを懸念していたのである。
 
 視点は変わるが、ニセ科学批判者がニセ科学のレッテルをはる対象に対して、必ずしも人々は客観的事実として受け取っているとは限らない。血液型性格判断は科学ではなく占いとして受け取り、水伝はロマンとして受け取り、クーラーの機能さえあればマイナスイオンはどうでもいいやと思っている人もいるし、ゲーム脳は勉強をさせるための方便として利用している親もいる。これらを科学や客観的事実を装う対象として認識するように、人々に強制する権利はない。もしニセ科学批判者がニセ科学のレッテルをはる対象に対して、全ての人々も科学や客観的事実として観察していると思い込んでいるのなら、かなり非現実的である。大衆を馬鹿にしているとしか言いようがない。思い上がりである。つまり、ある言説、学説、商品の機能や効能を客観的事実として受け取るかどうかは、受け取る人々の観察コードによる。どのような観察コードで対象を認識し利用しようと、他人が支配できることではない。受け取る人々の観察コードの自由性を無視したニセ科学批判者たちの議論は、抽象的であり、益々、世間から遊離していき、違和感を増していくであろう。
 
 最後に、全ての科学者・科学技術者がニセ科学批判者のような立場ではないことを祈る。ニセ科学批判者のような科学者・科学技術者は、ほんの一部なのだろうか? 科学者・科学技術者全体に一般化しないように心がけたい。

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by merca | 2008-12-23 18:35 | ニセ科学批判批判
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