コントの三段階の法則

 社会学を学んだ者なら、社会学の創始者コントの三段階の法則を知っているはずである。社会が進化するにつれて、人間の精神の歴史は、三つの段階をたどるという有名な古典社会学の理論であり、近代化論の先駆である。
 三段階とは、神話的段階、形而上学的段階、実証主義的段階の三つである。神話的段階は、現象の原因を神などの想像上の存在のはたらきとして解釈する思考形態をいう。原始社会や古代社会ではよく見受けられる思考形態であり、神話や宗教が幅をきかせていた。世界の説明原理は神話や宗教ということになる。
 形而上学的段階とは、現象の原因を論理的で抽象的な原理によって説明しようとする思考形態である。哲学がこれにあたる。中世社会では、スピノザやライプニッツの形而上学は有名である。世界の説明原理が抽象的な哲学理論ということになる。
 実証的段階とは、現象の原因を観察と実験による実証的な事実に求めようとする思考形態である。これは正しく、近代社会における科学のことをさす。世界の説明原理が科学理論ということになる。なお、実証的な学問は、単純な対象から複雑な対象へと向かっていき、数学、天文学、物理学、化学、生物学を経て、もっとも複雑な対象である社会を扱う学問である社会学で完結すると言う。つまり、社会学が実証的精神の最終目標となるのである。

 教科書的なことを書いたが、コント社会学の発想それ自体は今でも使える。確かに人間社会の歴史は、三段階の法則に従って進化してきたと観察できるからである。近代社会では、宗教的思考や抽象的な哲学的思考は周辺に追いやられ、実証性を重んじる科学的思考形態が知識の主役となっている。天災を物理現象としてではなく神の怒りとして解釈するのは、神話的段階の社会では、違和感がなかったことであろうが、近代社会では迷信となる。水に心があり、人間の言葉を理解するという思想も、神話的思考からすると、整合性はあるが、近代社会においてはマイナーな思考形態になると考えられる。

 しかし、コントの三段階の法則は、現実の現代社会と多少ズレており、そうでない部分もある。
 というのも、近代社会に入っても、宗教も哲学もなくなりはせず、中心ではないが、分業社会でそれなりに重要な機能を担っているからである。
 哲学は思想や道徳というかたちで、人々に社会規範や価値基準を提供し、宗教は誕生・結婚・葬儀などで人間の生死の意味付けを扱う。宗教と哲学は消滅せず、むしろその機能が純粋化されたとも言えるのである。三段階の思考形態は、近代社会になっても、全て人間にとって必要なものなのである。実証的な思考形態である科学のみが、全ての機能を代替することはできない。
 一つの思考形態だけを絶対化せず、この三つの思考形態を目的と場に応じて使い分けるのが、後期近代産業社会=成熟社会に適合的な生き方なのである。

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by merca | 2009-01-24 23:56 | 社会分析 | Comments(3)
Commented by Chrysostomos at 2009-01-25 01:12 x
論宅さん、続けて投稿させていただきます。
実は近頃、ジャック・モノー著「偶然と必然」という本を読み返していました。(この本は、大学生になった時、教科書以外で初めて購入した当私にとって思い出深い本なのですが)
モノーは、岩や川や雲に魂が宿り、人間の言葉を理解するという世界観を物活説と名づけ、現代の哲学にも潜んでいるとして、テイヤール・ド・シャルダンの生物哲学やヘーゲルの弁証法哲学、マルクスの唯物論的弁証法を非難しています。マルクスの弁証法が科学的と言いながら、自分の理解している科学とはかけ離れていることに違和感を覚えていた私は、この指摘を読んでなるほどと思ったものです。
それはさておき、
>近代社会に入っても、宗教も哲学も必要だ
ということに賛成します。
こういったのものが共存して行くためには、シーザーのものはシーザーに、神のものは神にというお互いのテリトリーを尊重する精神が重要ですね。
すべての分野で自分以外を認めないマルクス主義が滅びたのは当然です。
Commented by merca at 2009-01-25 19:21
Chrysostomos さん こんばんは 論宅です。情報提供ありがとうございます。物活説という用語を使用し、万物霊魂説を表現していきたいと思います。
 マルクスの唯物論が物質を生物のように記述しており、霊魂説になってしまい、唯心論と変わらぬ結果を導くという論文を私も書いたことがあります。これは、一元論に基づく全ての思想が行き着く、論理的結論と考えられます。全ての存在が弁証法という共通の内的原理によって動き発展するというのは、弁証法=霊魂原理として考えられます。
 
 システム論社会学の観点からも、機能分化した社会では、分化した各社会領域(法、経済、政治、宗教、教育、学問、医療、娯楽など)の価値観が対等にすみ分けし、共存していくことが理想とされます。
 ただ、扱う対象が同一であることがあります。例えば、心は、宗教も扱うし、心理学という科学も扱います。この場合、互いに共存し合うためには、その目的を区別することによってのみ可能と考えます。
Commented by Chrysosotomos at 2009-01-26 00:37 x
論宅さん、いまさらマルクス主義批判でもないだろうと思われたでしょう。すみません、昔のことを思い出して熱くなったもので。
>扱う対象が同一である場合、互いに共存し合うためには、その目的を区別しなくてはならない(一部編集)
とありますが、認識のレイヤー(層)というものを考慮しなければならないと思います。
いい例を思いつかないのですが、
たとえば、コンピュータに蓄えられている情報をハードディスクに保存したとします。情報工学的に見れば同じ情報ですが、物理的に見れば片方は記憶素子の電圧であり、他方は記憶媒体の磁気パターンで、全然別物です。
同様に宗教にも心理学にも社会科学にも自然科学にもそれぞれのレイヤーがあって、それをきちんと区分すれば、共存は可能だと思うのです。逆にレイヤーが正しく認識されてないから、無用の誤解や不毛の議論が生まれてくるのだと思います。
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