心と命を扱う科学は成り立つか?


 心理学は、心(精神)を対象とする学問である。しかし、心は目に見えない。人間(あるいは脳)という物体に心が宿っていることを科学的に実証できるのか知りたい。また、生物学は、生命を対象とする学問である。有機体という物体に生命が宿っていることを科学的に実証できるのか知りたい。
 はなから心や生命の存在を前提とする心理学や生物学という学問は、心や生命という非物理的実体を対象としている。生きていること、心があることは、科学的証明以前の出来事であり、人間の本能的直感で感知することである。命がある存在かどうか、心がある存在かどうかは、対象との接触やコミュニケーョンで感じとることで、生ずるものである。心の存在を感知できるのは、科学的方法ではなく、別の心をもった存在の本能的直感だけである。この能力は科学では説明がつかない。
 
 とすると、ある物体に心や生命という神秘的存在が宿ることを前提とする心理学や生物学は、コントの提唱した神話的思考形態に近いものがある。ある物体が動いた原因を心や生命というスビリチュアルな存在に帰着させるからである。
 私は心理学と生物学が非科学的で間違っていると言っているのではなく、むしろ非科学的要素に支えられてこそ成立つ科学であることを主張しているのである。
 
人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

   
 
[PR]
by merca | 2009-01-25 00:45 | 理論 | Comments(7)
Commented by Chrysostomos at 2009-01-26 21:59 x
論宅さん、毎回興味深いエントリを挙げられるので、この先が楽しみです。
他人の心の存在ということについては私も若かりし頃ずいぶん考えたことがありましたが、結論はそれは知りうることではないというものでした。
存在論的アプローチはまずい戦略で、むしろ他人の心の存在を仮定したらどれだけ客観的且つ有効な議論ができるかという方向で進むほうがいいでしょう。仮定なのですから人間だけでなく、動物や植物や鉱物にもあると考えても構わないと思います。
一方、心なぞは存在しないという仮定のもとに、事物をどれだけ説明できるかというアプローチもあると思います。
あと、心理学と生物学を挙げておられますが、心理学でも実験心理学は自然科学的なアプローチで、生物学は分子生物学をはじめとするしえ物学の主要部分は自然科学(つまり心を必要としない)で、脳科学の内、茂木先生が活躍している領域とか、動物行動学(特に高等動物を対象とするもの)が心の存在を前提としている分野であろうと思います。
Commented by merca at 2009-01-26 22:44
Chrysostomosさん 論宅です。
 他人の心の存在は、哲学でもよく議論になり、その論理的証明は難題です。他我問題ですね。フッサールやレヴィナスを持ち出すことになります。
 ところで、社会学では、他人の心や社会の目は、自分の心よりも重要視されます。恥の意識というものがありますが、これは他者の視線を前提としています。もし他人に心がないのなら、平気で他人の前で裸になることもできますが、実際にはそういうわけにはいきません。これは哲学的、論理的な他我の論証ではなく、日常体験に基づいた体験的事実であり、これをもとにして論理を構成します。また、伝達が本質的機能である言語の存在そのものが、他者の心を前提とします。
 今はそのことよりも、気になるのが、心を「として」観察するというレイヤー構造です。心を理性・思考として観察することも可能ですし、心を感情として観察することも可能です。植物に心があるといった場合、どういうレベルのレイヤーで観察していることになるかです。ここらへんは、もう少し考えてみないと私にはわかりませんが、エントリーをつくりたいと思います。
Commented by at 2009-01-27 16:34 x
人間が思考する際に形而上学を完全に克服することは不可能であるばかりでなく、形而上の実在を表す単位を想定することは思考そのものの前提ですらあると思います。この現象世界にひたっている肉体的な生理現象とその認識もまたその様な不定的な未知の側面を同時に合せ持っていないと活動を停止してしまいます。つまり、思考は思考自身によってしかあり得ないと判断せざるを得ないような原理を通じてしか思考自身を継続することは出来ず、思考によってはあり得ないという判断は、ほかならぬそのあり得ない実在を前提することでしか導くことが出来ないのです。

というのも、人間の認識機能は事象の鳥瞰図的包括者ではなく、事象の単なる構成要素であり、従って観測機能としての我々が例えば「感覚する」瞬間ごとに他の全事象との何らかの有機的連関を相互関係的に併発せざるを得ないということになります。それ自身が事象の全運動の一構成要素であり働きであるようなものが事象全体を「ほんの少しも」動かすことなく完全に神の視点でもって眺めやることは最初から不可能であるばかりではなく、本来人間には許されてはない行為なのでしょう。
Commented by eastcorridor at 2009-01-27 21:33 x
こんばんは。eastcorridorです。
論宅さんは、科学哲学者の村上陽一郎氏をご存知でしょうか?
彼が、あるフォーラムで、「心を扱ったら、科学ではない」という主旨の発言をしていました。「心理学は、心を排除し行動のみに着目した『行動心理学』としてのみ科学為りうる」とも。
Commented by merca at 2009-01-28 23:23
宏さん お久しぶりです。論宅です。
 心という形而上の実在を前提としてしか思考が不可能であり、むしろ科学的思考もそれを前提とせざるを得ないという発想ですね。そういう意味では、社会科学としての法学も自由意思という形而上の実在を前提とします。考えようによっては、道徳や愛や正義というのも、ある種、形而上の実在かもしれません。「科学内の非科学的要素」これは私の最大の関心テーマです。
 
 eastcorridorさん コメントありがとうございます。
 村上陽一郎は知っています。心を直接観察するのは不可能なので、心を直接扱うのではなく、人間の行動や反応など観察可能な現象を分析し、あとから心という概念を構成するというかたちをとるのだと思います。科学の立場からすると、人間の心理構造を解明するのが最終目的だとしても、誰でも観察可能な部分を分析・調査する他ないのだと思います。その結果から事後的に心という構成概念をつくりだすわけです。そうなると、脳科学者・茂木氏のクオリアは誰でも観察可能かと言えば少し疑問がわきます。
Commented by at 2009-01-30 10:35 x
論宅さんどうもです。

物質性という抽象的な実在を想定することなく、世界の現象をこの感覚で感じるような例えば音やら色やら匂いやらといった感性的要素にばらばらに還元してしまい、それらの感性的要素が相互に連関し合いこの世界が構成されていると仮定し、その際「私」という自我はただより複雑で密度の高い連関であるがために、一切の現象性から独立したものに感じるというだけに過ぎない、否そのように感じる感性複合体としての性質なのかもしれません。つまり、心や私といったものは物質のような固定した実体ではない、無形の感性的情報が有機的に連関することでその現象を形作っていると解釈するのは非常に巧い考えだと思います。もちろん、こうした現象は酸素(O)と水素(H)から出来た化合物(H2O)の性質が、もととなる構成要素の性質からは想像も出来ないまったく新しい性質を帯びる様に、心を形づくる感性的要素個々の性質をどの様にこねくり回したって心という性質を想像する事はできない、いな、だからこそ、ここには心を読みとくための新たなアプローちや方法論が要求されてくるものだと思います。
Commented by merca at 2009-02-01 00:47
 宏さん こんばんは 論宅です。
 仏教では、全てに実体がない=無我と観察します。おそらく、物質も実体があるわけではなく、もっと小さな要素に分割できると考えられます。全体と要素の無限分割ですね。無限の階層性から宇宙は構成されており、確固とした実体はなにもなく、はたらきとしてのシステムのみがその都度創発されると考えるわけです。
 階層性システム論をとるか、自己組織システム論をとるかで少し違ってきますが・・・。
 
<< 人工生命、人工意識の研究はニセ科学? コントの三段階の法則 >>