受動意識仮説とニセ科学


 心は、目に見えないので、行動を通して、はたらきとしてしか観察できない。それでは心のはたらきを知・情・意の三つに区分し、観察してみたらどうなるだろうか?
  脳科学が主張する脳にしか心は宿らないという考えは棄却され、機械にも心が生ずる可能性がでてくる。例えば、知の側面では、人工知能はすでに人間とチェスや将棋をすることができる。つまり、一定のルールのもとで人間とコミュニケーションができる。
 
 ロボティクス研究者である前野隆司という科学者は、いずれ、情・意についても開発可能であり、心のあるロボットをつくることができると確信している。この科学者は、茂木健一郎のクオリア論とは一線を画している。前野氏は、心を受動性のもとで捉え、自由意思を否定する。自由意思と思えるのは、環境からの刺激に対する無意識の脳内情報処理過程の結果を後で認識したものにしかすぎないと考え、「受動意識仮説」を唱え、心のはたらきを完全に物質一元論で割り切る。

 実は、ポイントは受動というキーワードである。意識=心は他の存在に動かされた結果で動いているということである。つまり、必然の因果律を想定している。だからこそ、心というはたらきを発生させる脳のメカニズムさえわかれば、心を人工的につくることができると考えるわけである。感情のクオリアも脳の情報処理過程=メカニズムから発生したものであり、作り出すことは原理的に可能だとする。
 
  そこで、少し見えてきたことがある。(能動性=内的動因=自己原因/受動性=外的動因=他者原因)という区別から観察すると、前野氏の理論は明らかに受動性という外的動因説に準拠している。能動的な自ら動く存在を認めると、前野氏の説は全て破綻する。私は生物と物質の根本的区別は、生物が内的動因によって動き、物質が外的動因によって動くと述べたことがあるが、それと同じである。
 ところで、日常の感覚からすると、内的動因、つまり自分から動く存在こそが、生命であり、心であると、私たちは感じているのではないか? 法学、経済学、社会学などの社会科学でも、人々の能動的な自己選択性を理論に取り込んでいる。生きているとは自分から動くことであり、受動的存在は物として扱われている。

 そのような自己原因的存在、他者から見れば偶然性をもたらす存在は、人工的につくることができないのである。永久機関説は疑似科学だと言われている。思うに、永久機関が疑似科学と言われるのは、永久機関が内的動因で動く存在であり、因果律の適用外となり、科学の外にでるからである。
 
 科学は、自ら動くものをつくることができない。もし自ら動くものをつくることができるという自然科学者がいたら。ニセ科学である。心を受動性に準拠したものではなく、能動性に準拠したものと捉え、それが本当の心だと定義すると、心のあるロボットは不可能であり、ニセ科学である。逆に言うと、前野氏のように受動意識仮説を唱えないと、人工意識の開発はニセ科学になるのである。
 さらにこれを拡大解釈すると、自ら動くものを想定し、理論構成する自然科学は全てニセ科学になるのかもしれない。
 
 ちなみに、唯物論者である前野氏は、原始仏教とポストモダンに肯定的な相対主義者であり、相対主義に批判的なニセ科学批判者たちと少し傾向が違うようである。この点、また興味深い。

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by merca | 2009-02-01 00:03 | ニセ科学批判批判
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