メタ認知的ホムンクルス論の観察


 脳科学者·茂木健一郎は、メタ認知的ホムンクルス論をあみだした。この理論は、脳という物質的存在からいかにして意識=心が発生するのかを説明しようとする知的な冒険である。
 茂木氏は、脳内にある異なる機能を担当する無数の神経細胞のネットワークを鳥瞰するホムンクルスとしての自我意識を前提とすることなしには、クオリアという主観的体験は成立しないと考える。クオリアとは、質感のことであり、我々はそれを体験していることは主観的な事実であり、その立ち現れ方は、必ず私という自我意識を伴うという。
 さらに、茂木氏は、自我意識を担当する神経細胞を説明するために、さらに別の自我意識を想定していくという無限遡及を防ぐために、メタ認知という物の見方を採用する。これは、システム論における自己言及と同じ構造をとる。この点が非常に重要である。
 厳密な意味では、メタ認知的ホムンクルス論でも脳から意識が発生するメカニズムは解明はされていないが、茂木氏によって、その手がかりとなるフレームが構築されたと言ってよい。

 私になりに解釈し、メタ認知的ホムンクルス論の前提を書き出してみた。

1 クオリアは、私という自我意識においてのみ体験化される。
2「我思う故に、我あり」によって自我意識は確実に存在する。
3 主観的体験のみが存在し、客観的事実は主観的体験の中から数量化·記号化して他者と共有できるものだけを抽象化したものにすぎない。
4 全ての認識は、自己言及的であり、外部存在を写し取ったものではなく、自己を認識しているにすぎない。認識主体と外部対象という区別は自己内で生じた疑似区別である。

1については、カントの先験的統覚と同じではないかと思う。一つの体験が私の体験であるという感覚を伴うのが、意識現象の構造である。

2については、デカルトの有名な命題であるが、この命題については解釈は分かれる。私という自我意識の存在は疑えないということであるが、私の成立は他者(あるいは他者一般)との関係性によって生ずるという社会学や心理学の考えもあり、発生論的な問いに還元することができる。脳に自我意識が生ずる原因解明は、もしかしたら社会学や心理学のテレトリーである可能性がある。デカルトの命題に安住する茂木氏は、形而上学に留まっている。茂木氏とっては、デカルトの「我思う故に、我あり」は、「事実それ自体」であって、「説明されるべき事実」ではないと考えている。社会学や心理学のような人間科学では、これは説明されるべき事実として扱われている。

3については、客観的事実が主観的体験の特殊な一部であり、クオリアとしての主観的体験から抽象化して構成されたものであると考える点において、社会構成主義と同一である。主観的な体験から客観的な科学がどのようにして構成されるのか、非常に興味深い点である。私見になるが、近代科学の真理観である真理の対応説=分離型認識論それ自体が、構成されたものであると考えられる。
 ちなみに、構造構成主義は、主観的な体験から客観的な科学がどのようにして構成されるのかを解明している。茂木氏は、構造構成主義を取り入れることで、理論を発展させることができると考えられる。

4については、私が一番興味をもっている点である。自己の内部に疑似的主体と疑似的客体の区別を構成するわけであるが、これは現象学の意識のノエシスーノエマ構造と同じである。また、システム論でいうところのシステムと環境との区別の認識である。
 もう少し具体的に説明しよう。赤いリンゴを認識している時に、赤というクオリアを感じるわけであるが、それは外部対象を認識しているのではなく、脳内に生じた赤いリンゴの像たるクオリアを見ているにすぎない。決して外部対象それ自体を観察しているわけではない。外部に事実それ自体は存在せず、我々は外部世界から刺激を受けて生じた脳内あるいは意識内で構成された現象を観察しているにすぎない。つまり、自己観察し、自己言及しているにすぎない。
 もう少し言うと、外部世界からの刺激を受け、変化した自己の状態を観察しているにすぎない。全ての認識は、自己認識であり、他者は決して知り得ず、不可知である。つまり、他者それ自体は決して現象化しない。レヴィナスの他者論の視点でもある。(この場合、私そのもの=ホムンクルスも現象化しないことに注意)
 システムは、外部世界そのものとの複雑性の落差をシステムと環境というシステム内部の区別として認識する。システムにとって環境とは、疑似外部であって、外部世界からの刺激による自己内部の変化を投影したものである。
 別の言い方をすると、私たちの認識は外部対象を認識しているのではなく、外部対象との関係性を自己の内部に構成し、観察しているのである。
 このようなメタ認知というあり方は、認識主体と対象を完全に分離した構造で観察する従来の科学観と異なる。分離型の認識論は、必ず無限後退のパラドックスに陥る。だから、分離型の認識論(真理の対応説)に立つ限り、自我意識=ホムンクルスの無限後退が生じ、茂木氏の説は成り立たなくなる。そこで、茂木氏は、メタ認知という考え方を導入し、認識主体と対象を同一者の自己分割として捉え、無限後退を回避しようとする。
 
 心=自我意識の発生は社会(他者一般)の発生と同時であるというミード社会学や発達心理学の前提からすると、脳というのは心が生ずる必要条件ではあっても、十分条件ではないと考えられる。
 今後、メタ認知的ホムンクルス論と「社会が心をつくる」という人間科学の命題との絡みを期待したいところである。


 
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by merca | 2009-02-08 18:43 | 理論
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