メタ認知的ホムンクルス論の落とし穴


 メタ認知的ホムンクルス論と同型の思想は多く見いだされる。つまり、認識主体と対象の区別は一つの存在から生じた仮構であるという思想は多くある。
 独我論、西田哲学、現象学、唯識論、システム論、構造構成主義などは、全てこの考え方に立脚している。
 独我論では、世界には自己しか存在せず、自己が認識しているもの=対象は全て自己がつくりだした妄想であると捉えられている。
 西田哲学では、自他不二の純粋経験から自他の区別が後から生ずると考える。
現象学では、意識の外の存在があるかないかをアポケーし、全てを意識内の現象として捉え、認識主体と対象は意識内のノエシスーノエマ構造に還元する。
 この発想を引き継いだ構造構成主義では、基本的に外部存在の実在性がなくても、科学的認識は成立すると考える。
 仏教の唯識論では、認識の外には実在はなく、自他の分別は八識という根本意識がつくりのだしたものだと捉える。
 システム論では、システムと環境の区別は、システム内部の疑似区別だと考えられる。システムは基本的に自己観察=自己言及しかできない。自他の区別や認識主体と対象の区別は、意識システムが自己を観察するためにつくりだしたコードにしかすぎない。
 
 さらに言うならば、これらの思想は、基本構造は宇宙生命論型の思想と同一である。宇宙生命論とは、一つの宇宙生命(あるいは神=絶対者=自然)が実在し、自他の区別、主客の区別は、そこから生じた現象世界における相対的なものにしかすぎず、全ての存在は宇宙生命を媒介にしてつながっているという思想である。インド哲学や新興宗教の教義にもよく見受けられる。現代では、トランスパーソナル心理学がこの宇宙生命論にあてはまる。

 一つの存在の自己分割として自他の区別あるいは認識主体と対象の区別が生ずるという思想は意外に多く、脳科学における唯脳論は、メタ認知的ホムンクルス論に限らず、この手の思想と同型である。唯脳論においては、自己が認識している対象は実在物ではなく、全て脳がつくりだした幻想だと考えるからである。

 ただし、一者の自己分割の原因を外部存在や他者や物それ自体に求めるか求めないかで、この手の思想も分かれてくる。論理的には、自己分割の原因は結局外部に求めざるを得ないと思われる。そいうい意味では、システム論は、世界そのもの=世界の無限の複雑性という本当の外部世界を想定しており、宇宙生命論型の思想とは異なると考えられる。メタ認知的ホムンクルス論は、全く外部存在を否定しているわけではないと思うが、外部存在との関係性を理論として取り込んでいない。 
 いずれにしろ、意識内に現象化してこない外部存在を想定するかしないかで、変わってくる。脳科学者が脳の外には世界は存在しないと考えるのか、それとも物それ自体のような外部を自己の理論に組み込んでいるのか微妙なところである。外部存在を完全に否定した場合、神秘思想に至る傾向にある。

 認識論においては、認識主体と対象の区別は意識内現象であることは否定できないと思われ、現象学や唯脳論に軍配があがるが、しかし、一つ説明できないことがある。意識の受動性の問題である。
 対象は私が意識内で構成した幻想であるにもかかわらず、私の期待を裏切ることがあるからである。例えば、魅力的な女性が目の前にいて、交際してくれと言っても、断られることはある。つまり、魅力的な女性は自己がつくりだした幻想であるにもかかわらず自己のコントロールがきかない。また、自分の意思とは別に勝手に認識対象は立ち現れては消えてゆく。これは体験的事実である。風景は意識内現象かもしれないが、自分の意思と関係なく、勝手に現象化してくる。クオリアも私の意思とは関係なく、与えられる。つまり、意識は受動的である。この受動性の感覚、自己の思い通りにならないという感覚が、外部世界が存在するというリアリティの根拠となっている。認識の原因は、私の方にあるのではなく、対象の方にあるだと思うのも、この意識の受動性の感覚からくる。意識の受動性の感覚が、自己以外の何かが自己の外にあるということの存在証明となる。「我思う故に我あり」ではなく、「我感じる故に他者あり」である。
 しかし、懐疑主義者は、意識の受動性も自我意識が作り出した幻想であると考えるかもしれない。しかし、そうなると一切が幻想であることなり、(幻想/現実)の区別はかえって寂滅し、一切が現実であると言っても、一切が幻想だと言っても、同義になってしまう。同じく、一切が脳内現象だと言ってしまうと、脳と脳以外のものの区別はなくなり、わざわざ脳だと言う必要がなくなる。唯心論も唯物論も、全てが心だ、全てが物だと言った瞬間、区別を失い、同義になる。あるものを定立するためには、それ以外のものとの区別が必要なのである。

 込み入った哲学論議は久しぶりであるが、脳科学が唯脳論に走らないためには、意識の受動性を根拠に、自己の理論の中に本当の外部や他者をどのように組み込むかが必要だと感じたわけである。茂木氏のメタ認知的ホムンクルス論も、他者や外部を導入しない限り、一つ間違えると、自他不二の宇宙生命論型の思想になり、トランスパーソナル心理学と同じになるのである。
 だが、決して意識に現象化しない他者の痕跡を理論化することは非常に難しい。意識に現象化した途端に、外部は外部でなくなり、他者は他者でなくなるというのは、他者論の哲学者レヴィナスが指摘するとおりであるからである。

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by merca | 2009-02-11 22:18 | 理論 | Comments(5)
Commented by onamae at 2010-02-20 18:33 x
>一つの存在の自己分割として自他の区別あるいは認識主体と対象の区別が生ずるという思想は意外に多く云々

西田(大乗仏教即非論理)はそんな単純なことは言ってないと思いますが。

そのように単純に一般化してしまうから、

>つまり、魅力的な女性は自己がつくりだした幻想であるにもかかわらず自己のコントロールがきかない。

みたいな、いわゆる他者の差延論が出てくるのです。世界はマーヤにすぎない、ならおめえはダンプトラックを避けないのかみたいな。

こんなことは、即非論理には織り込み済みです。これを業(カルマ)、肘外に曲がらずといいます。

デリダのテクスト論と唯識のテクスト論は同じでしょう。

レヴィナスの他者ですか。デリダや大乗仏教が批判しているように、レヴィナスには本当の他者(外部)はありません。なぜなら彼の論は結局ヒューマニズム(人間中心主義)だからです。人間以外の動物その他の他者はどうなるんですか。レヴィナスの他者論ではこの問題がすっぽぬけています。

Commented by merca at 2010-02-20 23:41
 西田哲学における即非論理の盲点が一つあります。
 Aは、非Aとの区別によって成立ち、Aと非Aの境界は同一となり、結局は一つの存在になってしまうと考えます。境界によって、存在の意味が与えられるのなら、Aと非Aは、完全に切り離せず、同一になります。私は、私でないものとの関係から規定されることになります。
 ところが、このような即非論理の欠点は、非Aが無数にあることに気づいていないことです。つまり、無数にある非Aどうしの差異を隠蔽化していることです。Aとは異なる存在と言っても、非Aという存在が一つあるのではなく、B、C、Dという具合に無数に存在します。この無限にある差異をおしなべて非Aとして一般化し、括ってしまうことで、あらゆる理論や思想は、独我論に陥ってしまいます。Aと非Aの二項関係から世界は構成されているのではなく、無限個の存在のそれぞれの関係から成立っています。ライプニッツのモナド論が私に考えに近いです。二項関係からは他者性=彼性としての外部は出てこず、独我論となります。晩年にレヴィナスが彼性にこだわった理由です。
Commented by onamae at 2010-02-21 21:02 x
>Aは、非Aとの区別によって成立ち、Aと非Aの境界は同一となり、結局は一つの存在になってしまうと考えます。

これは形式論理、対象論理(同一律)ですが、即非論理はそれを脱構築しています。差延(脱構築)ですから境界なるものも差延されています。

>境界によって、存在の意味が与えられるのなら、Aと非Aは、完全に切り離せず、同一になります。

差延ですから、同一律的な意味での存在の意味は与えられません。

>ところが、このような即非論理の欠点は、非Aが無数にあることに気づいていないことです。

無数にあるというのも同一律にとらわれた見解です。唯識の種子や華厳の事々無碍も単に同一律的に同定できる存在が無数にありそれが薫習したり無碍したりしているのではありません。

>ライプニッツのモナド論が私に考えに近いです。

西田も絶対矛盾的自己同一をモナド論に近いといっています。

レヴィナスの限界は人間中心主義(ヒューマニズム)です。
Commented by merca at 2010-02-22 00:18
論宅です。
 実は、同一律そのものが、すでに差延を現しています。「AはAである」という具合に同一律は表現されますが、Aは一つの存在であるのに、主語のAと述語のAの差異を前提としてしまいます。同一律的な同一性は、差延を隠蔽することで成立つ仮構であります。 
 残念ながら、即非の論理が、Aと非Aの二項関係からなる閉じたものであるのなら、差延が隠蔽され、論理上、一者の自己分割となります。二項関係の外部をどのように考えるかが論理上の問題となってきます。西田哲学でどのように克服されているかがポイントですが、この点はわかりにくいです。
 
 また、単純な同一律的な同一性と、存在の唯一性のレベルを分けて考える必要が有ります。一つのモナドは、他のモナドと区別され、唯一でありますが、その境界=表面に宇宙に存在する他の一切のモナドを写しています。自分の中に他者が入り込みながらも、そでいて唯一であるということで、絶対矛盾的自己同一は、存在の唯一性だと解釈したいところです。

 レヴィナスよりもナンシーの「複数にして単数の存在」に興味有ります。矛盾的表現ですが、モナド論に近いです。



Commented by onamae at 2010-02-23 11:22 x
>実は、同一律そのものが、すでに差延を現しています。

それは後知恵というものじゃないですか。

>つのモナドは、他のモナドと区別され、唯一でありますが、その境界=表面に宇宙に存在する他の一切のモナドを写しています。

これは華厳がすでに言っています。

>レヴィナスよりもナンシーの「複数にして単数の存在」に興味有ります。矛盾的表現ですが、モナド論に近いです。

デリダでもナンシーでもいいですが、仏教からは2,3000年のタイムラグがありますね。どうでもいいことですが。
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