言語の恣意性と物象化現象

 言語は、名称と概念からなる。そして、名称と概念の結合に必然性がないことを指して、「言語の恣意性」と呼ばれることは有名である。つまり、ある発音や図形(名称ないしは文字)という物理的対象に対して、何を意味するかは、人々の約束事にしかすぎないという説である。
 
 実は、「言語の恣意性」の原理は、貨幣の原理である物象化現象と本質は同じである。物象化現象とは、対象の中にあたかも価値や意味が宿るように錯覚する社会的機制のことをいう。国家という社会的なるものが存在すると思うことで、紙切れという物理的対象に交換価値が宿り、商品を手に入れることができるのである。紙切れと価値の間には、物理的な意味での必然的な関係はない。紙切れの成分をいくら分析したところで、交換価値の根拠を発見することはできない。
 まさしく、言語もこれと同じであり、発音や図形という物理的対象の中に概念の意味を見つけ出そうとしても、発見することはできない。しかし、人々が貨幣の中に価値が宿ると錯覚するのと同じく、名称や文字に特定の概念=意味内容が宿ると思い込むわけであり、「言語の恣意性」は隠蔽されることになるのである。
 
 ちなみに、恣意性は個人的な恣意性ではないことを確認しておく必要がある。私的言語があり得ないのと同様であり、言語は人々に伝わることでその機能を全うするわけであり、名称と特定の概念の結合は人々に共有されていることを前提とする。つまり、言語の恣意性は、言語の社会性を意味する。別の言い方をすれば、社会は自然=物理的世界から区別されている自律世界であることを意味する。システム論でいうと、意味システムと物理システムは、互いに閉じているということである。

 物象化現象に即して考えると、植物や水に心があるというのも、物理的には正しくないが、社会的には正しいこともあり得る。日本社会では一万円札が商品と交換できることを馬鹿にする人がいないのと同様に、植物や水に心があるという命題も、それが信じられている社会共同体では社会的に正しいことになる。このように、自然の摂理を超えた正しさを創造することができる社会の妙理は深淵なのである。そして、人間は、社会世界の住民であり、人間の幸不幸も自然の摂理ではなく、社会の妙理のなかで決定されるのである。社会学は社会の妙理を観察する学問である。 

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by merca | 2009-02-28 18:16 | 理論
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