(自然/文化)という区別の相対化

 (自然/文化)という区別に、あらゆる論者が準拠し、科学論やニセ科学批判を行っている。言わんとすることは、自然現象と文化現象は異なる世界であり、互いに閉じているということである。例えば、法律や道徳は文化現象であり自然現象を根拠にしてはならず、逆に万有引力の法則や熱量の法則などの物理法則は文化現象を根拠にしてはならないということである。
 水伝が道徳という文化現象の根拠を自然現象に求めるというカテゴリーミスとして批判されるのは、ニセ科学批判たちが(自然/文化)というメタ区別に準拠しているからできる批判である。 
 
 (自然/文化)という区別コードは、肉体と精神、脳と心などの二元コードとも対応している。
ニセ科学批判者も共有するこの区別を脳科学議論に適用すると、自然現象である脳に心の根拠を求めてはならないことになり、脳科学の脳という自然現象が心を生み出したという説は否定されることになる。基本的に脳とは無関係に心は存在することになる。これは、心身二元論である。
 脳科学は、心という人間現象=文化現象を自然現象に求めることで、水伝と同じカテゴリーミスを犯していることになる。脳科学と水伝は同じカテゴリーミスを犯しており、ニセ科学批判の脈絡からは、脳科学のいう脳が心をつくりだすという説はニセ科学となる。
 
 さらにここが重要なところであるが、(自然/文化)という区別は真理観とも対応している。自然現象は真理の対応説の世界であり、文化現象は真理の合意説(共有説)の世界である。真理の対応説とは、対象と認識が一致した命題を真理とする説である。真理の合意説とは、人々が共通にそれが正しいと合意を得たり、共有していたりする考えが真理であるという説である。自然=対応説、文化=合意説となる。
 反社会学講義のパオロ・マッツァリーノ氏や俗流若者論批判者の後藤氏らのように、統計的事実を絶対化して社会を語る論客が増えているが、彼らは全て真理の対応説に準拠している。統計的事実とは、対象を測定するという正しく真理の対応説に準拠しているからである。文化現象や社会現象を自然現象に用いられる真理観で観察するのは、厳密な意味では、カテゴリーミスとなる。
 例えば、民主主義社会や人権と言っても、それは対象として外部に実在するのではなく、人々が合意・共有して正しいと思っている理念にしかすぎない。しいていえば、多くの人がその物語を演じることで仮に現象化するものである。対象は不安定であり、砂上の楼閣のごとくであり、統計で図ることのできるような実体的な対象ではない。社会学者の内藤朝雄氏なども指摘していたと記憶しているが、人権は、人々が共存するための必要的な虚構物語である。柄谷行人も同じようなことを倫理の問題として論じている。
 いずれにしても、人間がつくりだす社会現象や文化現象を真理の対応説に準拠した自然科学的手法で分析することは、水伝が犯しているカテゴリーミスと同一である。

 ところで、(自然/文化)という区別もこれまた絶対的な区別ではなく、別の区別から相対化できるものだと考えると(脱パラドックス化が可能だとすると)、また少し話は違ってくると思われる。今、(自然/文化)という区別自体に疑問を投げかけているネット論客は見当たらない。
 しかし、実は社会構成主義的には、(自然/文化)という区別も社会がつくりだした一つの区別にすぎないと考える。(自然/文化)という区別に準拠しない論者には、私が述べてきた説は通用しない。 多くの科学者やニセ科学批判者は(自然/文化)という区別を遵守しているようであるが、社会現象や文化現象に真理の対応説を適用しようとする統計的事実を絶対化する論者たちは、(自然/文化)というメタ区別に無頓着なのか、あるいは別の区別から相対化=脱パラドックス化しているのか知りたいところである。

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by merca | 2009-03-07 11:20 | 理論
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