厳罰化・裁判員制度による反人権主義的正義の実現


 罪刑法定主義に基づき、犯罪行為に対する罰則である刑罰を重く規定することを厳罰化という。人々は、厳罰化されると、法を犯すことに対するリスクが大きくなるために、犯罪を選択をするのを思いとどまり、犯罪抑止効果があると言われることがある。そこには、人間は利得を増やし、リスクを少なくするために合理的に選択して行動するという考えが隠されている。
 「厳罰化は犯罪抑止効果がある。」という命題は、基本的には社会学の合理的選択理論に基づいており、理論的根拠はある。これは経済学における経済行動原理と同一である。厳罰化は合理的選択理論の刑事政策への実践的応用である。
 このように人間科学の理論が刑事政策に応用されるわけであるが、その実証的根拠についてはどうだろうか?
 
 罰則を強化することで、人間の行動に影響を与えるという社会心理学的な小さな実験は可能だと思われるし、行われている。日常場面では、勉強をしなければお小遣いを減らすとか、そういう親もいる。
 また、心理学に強化理論や報酬理論というものがある。賞罰によって人間の行動は左右されるという理論である。純粋に強化理論を受け止めると、厳罰化を支持する理論のように見えるが、実際は、心理学では、罰の効果は短期的であり、罰よりも報酬によって人間は動機付けられるという結果を導きだしている。
 社会学の合理的選択理論は厳罰化を根拠づける理論ではあるが、現代の心理学における強化理論や報酬理論は罰則の効果はさほどないと考えている。
 ここで、一つの対立が起こる。社会学と心理学の理論のどちらが正しく、国家の刑事政策としてはどちらを科学的事実として採用するのが妥当かである。

 さて、厳罰化は、犯罪抑止効果とは直接関係なく、論ずるべきだという立場もある。つまり、厳罰化の役割は、人々の応報感情・道徳感情を満たすことであり、そちらの方が本質であるという考えである。犯罪者に対して多くの国民は怒り=公憤を感じるものであるが、その怒りを消化するには、犯罪者に刑罰で制裁を与える必要がある。社会のルールを逸脱したものに対して、国家が制裁を加えることで、人々は社会的公正と正義が保たれていると実感するのである。
 もし仮に犯罪者に何のお咎めもない社会であったとしたら、まじめに生活している多くの人々は、不公平で正義と秩序のない不安な社会だと思い、社会的混乱が生じてしまうだろう。厳罰化することは、人々の応報感情と道徳感情を満たし、体感治安を高める社会的機能があるのである。
 その意味において、大衆主義が厳罰化をもたらすのは、社会学的には当たり前のことなのである。厳罰化は、大衆の不満感情を統制する社会的装置だからである。
 
 裁判員制度も全く同じような機能を持つ。国民に犯罪者を裁かせ、その時代の社会の道徳観を反映させて罰則を決めさせることで、人々の道徳感情を満たすことが可能となる。
 時代によって社会の道徳観は変わってくるので、法律で定めているだけでは不十分なのである。裁判員制度は、極めて文化相対主義的な思想に基づいているのである。同じ犯罪でも、時代が変われば、死刑になることもあるし、ならないこともあるというわけである。社会の価値変動を人権に優先させる反人権主義なのである。全ての社会に共通な絶対主義的な道徳基準はないものであるという相対主義がその本質である。
 とはいえ、統計的サンプリングという科学的手法によって国民を代表すると考えられる裁判員による民主的議論=対話的理性によって裁かれているので、正当であるという感覚を国民に抱かせることになる。本来は裁判員制度は相対主義であるにもかかわらず、真理性と正当性の仮面を被ることができるのである。ここでも、科学(統計主義的サンプリング理論)と民主主義(自由な討論)が、相対主義を隠蔽化する社会的作法として用いられている。
 「裁判員制度が厳罰化をもたらす。」という命題が社会科学的に正しいかどうかは別としても、国民を代表する人たちの手によって裁かれるのだから文句は言えないということで、国民の犯罪に対する道徳感情を満たす機能はあると考えられる。

 厳罰化を犯罪抑止効果に準拠して観察するのではなく、社会的正義の実現に準拠して観察する必要があるのである。 

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by merca | 2009-07-26 10:05 | 社会分析
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