厳罰化の社会的正当性


 治安悪化神話論者たちは、統計的事実によると犯罪は減少しているのに、過剰なマスコミ報道や犯罪被害者支援団体等の活動によって、人々の体感治安が悪化し、厳罰化世論が形成され、厳罰化政策がなされ、刑務所の収容過剰が起こったという仮説を唱える。
 
 治安悪化神話論者たちは、この社会現象をモラルパニックや厳罰化ポピリュリズムと呼び、一種の社会病理現象として観察している。
 この仮説の前提には、国民は犯罪が減っているという統計的事実を知れば体感治安も悪化せずに厳罰化に向かわなかったという理屈が隠されている。つまり、事実を認識すれば、治安状況について正しい評価を下し、厳罰化には至らなかったというわけである。

 しかし、この仮説には、次のような異論もあり得る。国民は犯罪に対する本当の事実を知ったからこそ厳罰化に向かったのだという考えである。つまり、これまで国民は加害者の犯罪事実と動機に関する情報しか与えらておらず、犯罪被害の本当のあり方=被害事実が隠蔽されたてきたが、犯罪被害者支援団体等やマスコミ報道によって、犯罪被害の実態が国民に知らされるようになり、犯罪にまつわる本当の事実を知ったからこそ厳罰化の世論が形成されたという認識である。
 今まで、国民は犯罪被害は裁判所が決める犯罪事実の範囲であると勘違いしてきた。一つの犯罪の被害は、法的な犯罪事実の範囲にとどまらず、犯罪被害者の家族の生活全般に及ぶことが知らされなかった。犯罪は、犯罪事実だけではなく、被害事実を知ることによって、正当な評価を下すことができるのである。一つの犯罪を正しく認識し評価するためには、その犯罪が与えた被害を見積もる必要がある。
 国民は、馬鹿ではなかったのである。犯罪に対する犯罪事実と被害事実を知ることができるようになり、犯罪に対する厳しい道徳評価を下すようになったのである。治安悪化意識も、国民が犯罪被害の実態を知ったからであるとすると、おかしなことではない。
 社会学的には、これが厳罰化の社会的正体であり、極めて社会的には正常な流れである。以前は犯罪被害者の声が国民に届かず、被害事実が隠蔽され続けてき、正当な道徳的評価を下す機会が閉ざされていたのである。今やマスコミ報道や犯罪被害者支援団体等の活動によって犯罪現象に対する無知のベールが剥がされ、国民が正当な道徳的評価を犯罪者に対して表明できるようになったわけである。

 治安悪化神話論者たちは、体感治安悪化や厳罰化を国民の事実に対する無知(犯罪統計にかかる)に基づくものだと見なしているが、事態は全く逆であり、マスコミによって犯罪被害が報道されることで犯罪現象を総合的に認識できるようになり、道徳的に厳しい評価をしだしただけなのである。
 厳罰化現象は社会的に健全である。人に多くの被害を与えたものにはそれだけ厳しい罰を与えるのは、道徳的にも正常である。
 治安悪化神話論者たちは、国民を馬鹿にしすぎている。彼らが考えるよりも、国民は賢い。治安悪化神話論者たちが国民に抱く物語=妄想を押し付けないで欲しいものである。 
 
 裁判員制度になって益々犯罪現象に対する加害者と被害者の双方の無知のベールが剥がされ、犯罪の事案に応じた正当な道徳的評価が犯罪者に対して下されるようになるのである。

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by merca | 2009-08-09 10:53 | 社会分析 | Comments(4)
Commented by イソップIN at 2009-09-08 06:25 x
道徳は市民の多数決できまるというのが社会学に基づく結論なんですか?それなら学者という職業はこの社会には不要ですね。裁判官も弁護士も不要。法律も不要だ。
裁判も不要かもしれません。市民によるリンチが正しいわけだから。
Commented by イソップIN at 2009-09-08 06:39 x
>マスコミ報道や犯罪被害者支援団体等の活動によって犯罪現象に対する無知のベールが剥がされ・・・

それからこれはマスコミなどが正しく公平に事実に基づき犯罪について報道してる場合のみですよね。

その前提がなければ国民による道徳的評価などできないはずです。

でも現実のマスコミ報道は公平に事実に基づき犯罪を報道することなどないのではないでしょうか?

国民が本当の事実を知ったという前提には無理があると思います。

マスコミ報道の偏りで厳罰化が進んだと逆にいえてしまう気がします。そうではないというなら現在のマスコミの報道姿勢に偏りがないと証明しないといけません。
Commented by merca at 2009-09-11 00:31
イソップIN さん 論宅です。
 前近代社会では、道徳の根拠は多数決ではなく、社会の外にあるもの=神や自然に基づくと考えられました。しかし、近代社会では、神は死んだとニーチェが豪語したとおり、道徳は人間がつくるものだという発想が出てきたわけです。議論を通じて民主主義の多数決でつくりだすという発想です。正しい意見は、統治者一人で決めるのではなく、多くの人の意見が必要だというわけです。
 
 しかし、実際のところ、社会学では、前近代社会であれ、近代社会であれ、道徳は社会によって人々に植え付けられるものだと考えます。自己の所属する階層・集団・宗教・地域によって、道徳観はつくられます。これが真なる道徳の社会学的発生原因です。言わば、神でも人でもなく、社会が道徳の創造者です。例えば、言語は、神がつくったものでもなく、人間が人工的につくったものではないのと同じです。社会の中で自然発生したものです。道徳観もそのようなものです。
 道徳観念がどのように植え付けられていくか、それを社会学は研究します。それと、道徳だけでは社会は秩序が維持できませんから、法等が存在するわけです。
 
Commented by merca at 2009-09-11 00:38
イソップIN さん 論宅です。続きです。
 被害者の会の講演を聞いたり、直接被害者から話を聞いたことがありますが、マスコミが偏った報道をしているとは、特に感じませんでした。被害者という社会的弱者に対して、市民が白い目で見るということも多く、むしろ被害者が市民や司法制度からリンチを受けているように思いました。地域社会から被害者であるのに非難されるという二次被害の現象は、被害者学という学問ではよく知られています。
 やはり被害者が受けている被害というのは、被害者自身が感じるものであり、当事者のみが知りうる真実であり、当事者の語りを聞く以外ないわけで、それをそのままマスコミは報道している場合が多いので、特に問題はないと思います。
 いじめを受けた被害は、いじめを受けた当事者がどういじめと感じているのか聞く以外ないのと同じです。
 
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