規則の分類


 規則における法則と規範の区別をしておきたい。この区別は(違反可能性/違反不可能性)に準拠している。
 
 法則とは、それに反することが不可能な規則である。例えば、自然科学が追求する因果法則がこれに該当する。質量保存の法則や万有引力の法則などの物理法則は、そもそも逸脱することはできない。従って、法則に反する現象や行為は存在し得ず、守らせるための賞罰は存在しない。法則は、世界の必然な部分にかかわる規則であり、物理学が扱う領域である。

 規範とは、それに反することが可能な規則である。例えば、法律や道徳である。法律に違反する行為を犯罪と呼ぶが、犯罪者には罰則が科せられる。規範に合致する者は賞賛され、反する者は罰せられる。また、道徳的行為をすると他者から褒められ、反道徳的行為をすると他者から非難される。さらに道徳観念を内面化している人間は、道徳律に合致する行為をすると自己評価があがり、反する行為をすると自己評価が下がるという自己賞罰作用が心に生ずる。規範は、世界の偶然な部分にかかわる規則であり、社会学が扱う領域である。

 ここで問題なのは、数学の規則、論理規則、文法である。
 数学の演算規則は、果たして逸脱可能なのだろうか? 計算間違いがあるように、間違うことは思考レベルでは可能であるが、実験レベルでは不可能である。5+4=9が正解であるが、幼い子供は計算を間違うかもしれない。しかし、5個の玉と4個の玉を混ぜて数えるという実験をすれば、必ず9個になる。また、計算は思考実験の一種であるが計算機を使用することで正解を導きだせる。数学の規則の世界は、思考と現実が合致する必然世界である。人間は、物理的な外部世界を頭脳に内面化することで自然に適応するわけであり、数学は人間が内面化した物理世界の観察に基づいている。
 論理規則も数学と同じであり、思考レベルでは間違うこともできるが、実験では逸脱不可能である。論理に反する外部現象はあり得ない。数学の規則も論理規則も法則であり、逸脱はあり得ないものであり、従って賞罰もない。
 文法は、間違うことが可能であるが、特に賞罰はない。文法は文化によって異なるので社会現象であり、世界の偶然の部分にかかわるが、無意識のうちに習得するので、賞罰を必要としない規則だと考えられる。
 
 社会学の対象である規範という規則は、逸脱可能であり、賞罰によって維持されていることから、自然科学の対象とする世界の必然な部分=物理現象とは根本的に異なるのである。対象の性質が異なるためにその記述方法も自然科学と異なることになる。
 社会を必然だと見なす科学的マルクス主義は、カテゴリーの混同に基づくニセ科学と言えるのである。社会に実体はないとする究極の社会学からは、社会が必然だと思えるのは、物象化現象にしかすぎず、各種文化装置によって社会の必然性が維持されているだけにすぎないのである。
 ちなみに、特定の社会観を必然性の相で捉え一元論的に絶対化する思考回路は、社会病理現象をもたらす。全共闘運動や秋葉原無差別殺人事件がそれである。

  参考
 生物学のホメオタシスは、むしろ法則ではなく規則である。体温が36度でなければならないという規則は病気になると逸脱するからである。しかし、それを維持しようとする生命体のはたちらきが起こり、36度に戻るのである。規則を維持する装置を必要とするので、これは物理学とは異なり、世界の偶然性の部分に対応する学問ということになる。
 
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by merca | 2009-08-23 11:11 | 理論 | Comments(2)
Commented by 御坊哲 at 2010-08-05 09:53 x
社会学的には自然科学法則は、mercaさんの仰る通り反することのできないものと扱ってよろしいと思います。
しかし厳密には数学と自然科学は同列には扱えません。数学は公理と論理(logic)によって導かれたものでありますが、科学法則は観測による帰納を前提としておりすべてが論理によって導かれたものではないからです。したがって現在の科学哲学においては、すべての科学法則は暫定的なもの、すなわち「仮説」であると位置付けられています。
このことはmercaさんの記事の趣旨の本質とは関係ないかもしれませんが、一応参考として下さい。
Commented by 履歴書の賞罰 at 2011-10-10 20:27 x
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
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