ニセ科学批判のニセ科学化現象


 死後の世界は、科学の対象とならない。神や霊魂の存在は科学の対象外である。つまり、特定の宗教の教義内容が正しいかどうかは、科学の対象外である。さらに、道徳内容の正しさも、科学の対象外である。もし科学が自らの対象外の存在について語るならば、科学的ではなくなり、ニセ科学となる。科学が科学の対象外のものについて語りだすと、科学は宗教と機能的に等価となり、科学は途端に宗教化する。
 
 ちなみに、死後の世界について、科学者の態度としては、「私の仕事の専門外なので答えることができない。(お坊さんや神父さんに聞いてみて下さい。)」というのが正しく、「科学の立場からは、死後の世界や霊魂は存在しない。」と答えるのは、不適切である。科学者は、死後の世界という科学の対象外の分野については、語ることはできないわけである。
 にもかかわらず、死後の世界について存在しないと語り、スピリチュアルや宗教や占いを否定しまくる科学者やニセ科学批判者がいる。基本的には、死後の世界の内容については科学の対象外であり、科学の立場や方法からは言及不可能なのである。科学が言及不可能な対象について科学的に分析しようとすることは、ニセ科学に他ならない。死後の世界は、科学的方法によっては観察できず、科学の対象外である。(ちなみに、科学的方法のみが正しいと考える人を科学主義者という。)
 科学者が科学の立場から「キリスト教の教義は正しくない。」「仏教の教義は正しくない。」「神は存在しない。」「輪廻転生は存在しない。」と断定するとしたら、それはニセ科学となるのである。
 ちなみに、宗教社会学が宗教について言及する際は、神や霊魂の存在や教義内容の真偽については対象外とし、社会現象・社会的機能としてのみ宗教を扱う。宗教社会学が社会科学たる所以である。
 科学の対象とならない領域について、科学的事実を根拠にして言及するタイプのニセ科学批判は、それ自体ニセ科学であるので、要注意である。
 ニセ科学の定義に、科学の対象外となる領域を科学的に扱うことを含めることを提案したい。この定義を含めることで、ニセ科学批判の一部がニセ科学となるであろう。さらに、科学主義による文化破壊を阻止できるのである。
 
 昨今のニセ科学批判者たちが科学教だと思われてしまう理由は、科学の対象外についてまで言及しているからである。宗教やスピリチュアルが扱う領域の真理を科学的判断から真偽を吟味することで、かえって自らが宗教化・カルト化し、ニセ科学化しているのである。
 「死後の世界で魂は永遠である。」「死後の世界はなく、死んだら無に帰す。」という二つの言説は、機能的に等価である。科学の立場から「死後の世界はなく、死んだら無に帰す。」という世界観を述べることも、人々の死生観・宗教観として機能してしまうからである。
 「死後の世界はなく、死んだら無に帰す。」と断定する科学主義やそれに基づくニセ科学批判は、宗教としても観察でき、正しく宗教社会学の対象となるのである。
 
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by merca | 2009-10-18 08:54 | ニセ科学批判批判 | Comments(81)
Commented by at 2009-10-18 18:35 x
スピリチュアルや宗教や占いの輩も何の根拠もないんだからせいぜいイーブンだろ。
どっちも素人というのであればどっちを信じるかは結局個々人の問題。
私は当然科学的な方を頼りにしてみる。
Commented by 論宅 at 2009-10-18 21:30 x
 いやいや科学者に死後の世界にいる魂を鎮めたり、供養や葬式等を頼む人はいないわけで、やはり大概は僧侶や神父という宗教の専門家に頼むわけですよ。
 死んだら宗教に頼むのが普通であり、科学者に葬式や供養をしてくれとは言わないわけで、これ社会的常識ですね。
Commented by はてブ at 2009-10-19 00:39 x
上にも書いてある通り死後の世界を確認する方法がないのは宗教も科学も同じである。
なので「確認することができないからわからない」というのが科学の主張で、別に専門外ではない。
もし尋ねられた場合は科学的な見解を言った後に宗教ではなんの実証もなしに死後の世界を信じていると言うのが本当の科学者だと思う。
Commented by 素人 at 2009-10-19 16:16 x
いくつか質問してよろしいでしょうか。
1.「死後の世界について存在しないと語」る科学者の実例をご教示いただけませんか? 
2. 占い師、スピリチュアルカウンセラー等と称してマスコミで出鱈目なことを言っている人たちについて、科学者でない人が、あれは金目当てのインチキだなどと言って批判することは許されるとお考えですか?
3. 『科学の立場から「キリスト教の教義は正しくない。」「仏教の教義は正しくない。」「神は存在しない。」「輪廻転生は存在しない。」と断定する』科学者が存在するとお考えなのでしょうか? もしそのような実例をご存じであればご教示いただけると幸いです。
Commented by merca at 2009-10-19 21:44
 素人さん 論宅です。
 私は、あまり実例をあげるのは好まないタイプですので普段はめったに答えません。しかし、誰もが思い浮かぶ人をあげるのは適切かと思います。
 やはり大槻教授が神や霊魂は実在せず、人間がつくりだした空想だと言っています。http://ohtsuki-yoshihiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/index.html
 テレビでも大槻教授は繰り返し、神や霊魂などを否定しています。これはみなさんご存知だと思います。ただ、私は大槻教授のような人はわかりやすく好きです。科学が絶対的真理と思っているのに隠している科学者よりも、誠実であり、もっと本音を言う科学者が出てきたらと思います。科学者・菊池誠さんは、まだ大槻教授に比べると、科学者としての本音を言っていないかもしれません。
 あとは、科学者ドーキンスですね。神は妄想と断言しているようです。
Commented by at 2009-10-19 22:41 x
はてブさんに同意。そういうことを言いたかったんです。
Commented by 論宅 at 2009-10-20 01:07 x
上記の方へ 論宅です。
 いやいや、そんな単純だとよいのですが、残念ながら科学の観察方法では観測できませんが、別の観察方法では観測されると言われたら、その論法はおしまいです。
 科学も宗教も同じ観察方法であるというのは、科学の立場を宗教に押し付けただけになってしまいます。観測方法の同一化という誤謬をおかした理屈になってます。
 霊視によって死後の世界が霊能力がある人間だけに見えると言われたら、その主観的事実を否定することも肯定することもできません。万人に対して実証性がないと事実でないというのは、科学の立場からの真理観の押しつけとなり、科学万能主義の露呈に他なりません。
 例えば、カレーライスの味を観測するのに、科学では観測不可能です。食べることで主観的に味覚で感じとることで可能になります。死後の世界もそれと同じで、主観的観測を否定する根拠は見当たりません。それと同じで、主観的だから間違いとは言えません。
Commented by 素人 at 2009-10-20 13:17 x
論宅さん、ありがとうございます。
 なるほど、論宅さんは大槻義彦さんを批判されているわけですか。私はテレビを見ないのですが、大槻氏の噂は聞いたことがあります。神や霊魂が科学的に否定されると言っているのですね。どういう理屈なのかわかりませんが、やりすぎですね。大槻さんは仏教の教義も科学的に否定しているのでしょうか。私は仏教徒なのですが、仏教の教義を「科学的」に否定するのは無理だと思います。きっと乱暴な議論をしているのでしょうね。科学者・菊池誠さんという方も、口にはださないけれどそういう極端な考えの持ち主なんですね。ありがとうございました。
 あと、お暇なときで結構ですから2番目の質問にもお答えいただけると幸いです。
Commented by merca at 2009-10-20 22:44
素人さん こんばんは 論宅です。
 どんな科学者による宗教や精神世界に対する批判も、さらにニセ科学批判も、究極的には客観的事実=科学的事実でないから間違いであるということに論拠をおいています。これは、実例をあげるまでもなく、該当すると思います。科学的事実であるニセ科学はありえません。
 宗教、精神世界、ニセ科学は本質的には全て客観的事実=科学的事実でないから批判される訳です。真理観のおしつけです。
 ところで、仏教を信仰しているということですが、既存仏教でしょうか? 新興宗教でしょうか? 知りたいです。仏教にも種類があります。
 
Commented by 素人 at 2009-10-21 18:23 x
論宅さん、どうもよくわかりません。(長い年月をかけて人智と折り合ってきた)宗教も、新興宗教も、ニューエイジも、占いも、スピリチュアルカウンセラーもひっくるめて「客観的事実に反するからニセ科学だ」と批判している科学者がいるのですか? 大槻義彦さんはそうだとのことなのでそうなのでしょうが、他にも沢山いるのですか? 論宅さんが一生懸命批判されているところを見ると、そういう「科学者」の方が他にもいるのかと思いますが、私にはちょっとそこが信じられないのです。論宅さんは社会学がご専門とのことなので、一般論を展開するに足るサンプルを集めていらっしゃっるのだと思いたいのですが……
Commented by 素人 at 2009-10-21 18:23 x
 それから、もしお時間があれば2番目の質問にお答えいただけないでしょうか。私は、科学的にどうのということはできませんが、出鱈目を撒き散らしているスピリチュアルカウンセラーや占い師に強い憤りを感じています。論宅さんの論旨からすると、私はスピリチュアルやら占いやらの専門家ではないから(彼らの観測方法とやらを理解していないから)、彼らを批判してはいけないという結論になるように思います。この結論は社会(学)的に妥当なものではないと、私の直観はしきりに囁きます。それでもしかし、スピリチュアルカウンセラーを批判するのはゆるされないのでしょうか?
Commented by merca at 2009-10-22 20:57
素人さん こんばんは 論宅です。
 スピリチュアルカウンセラーや占い師が出鱈目なことを言っていると思えてしまう理由は何でしょうか? つまるところ、出鱈目とは、事実ではなく、嘘を言っているということであり、嘘を言っているから腹が立つということだと思います。あるいは根拠がないのに、本当のように語っている態度が腹が立つのだと思います。
 これを言い直すと、客観的事実でないから腹が立つ、実証的根拠がないのに本当のように言うのが腹が立つと言い換えることができます。
 すでにもうお分かりだと思いますが、素人さん自身が実は科学的価値観でスピリチュアルカウンセラーや占い師を判断しているわけです。科学は近代社会のイデオロギーとして機能しているわけですから、憤るのは素人さんだけではなく、かなり多くいると思います。
 素人さんのみならず、多くの人たちが科学的価値観を社会から植え付けられているわけです。社会的に妥当と思われるのはそのためです。
 科学の立場からスピリチュアルを批判する人の実例とは、素人さんご自身です。また、ニセ科学批判者やはてブでコメントしている自然科学専攻の方たち(科学者)のブログをみれば、実例が多くころがっています。
Commented by merca at 2009-10-22 21:46
 また、前近代社会では、呪術や占いが出鱈目だと排除されたりせず、社会的に受容されていました。脱呪術化・合理化した近代社会だからこそスピリチュアルカウンセラーや占い師は批判的に見られるにすぎません。彼らを批判する人は、近代人として科学的価値観を道徳として内面化しているわけです。
2番目の質問については、価値次元相対主義をとる私としてはスピリチュアルカウンセラーや占い師が人々に強制的に自己の主張を押し付けてきた時のみ批判が許されると考えます。だから、信じるも信じないも個人の自由であるというスタンスなら、出鱈目と思えても、頭ごなしに否定・批判することはできません。
 批判されるのは、自己の説のみが正しいと他者の認識や価値観を否定し、科学的価値観の正しさを押し付けてくるニセ科学批判者や科学主義者のほうだと思われます。
Commented by merca at 2009-10-22 21:47
 素人さん できれば、素人さんが信仰する仏教が何宗か教えて下さい。浄土宗系なら阿弥陀仏と死後の世界の極楽浄土の実在をどう思われますか? 法華宗系なら、久遠実成の仏の命の実在をどう思われますか?
 また、一般に仏典には如来の不思議な超能力が描かれたり、輪廻転生が出てたりします。これらを実在すると信じているのでしょうか?
 これらがスピリチュアルカウンセラーや占い師の言説と比べて、出鱈目でない理由を教えて下さい。
 私は、宗教やスピリチュアルカウンセラーや占い師を物理的事実の次元では判断不可能だと考えているために、精神的世界の真理や物語や道徳の次元として処理しています。そのために、特段、腹が立ちませんし、自己の人生を豊かにしてくれると考えています。
Commented by 素人 at 2009-10-23 17:19 x
論宅さん、ありがとうございます。論宅さんの考え方がよくわかりました。悪い霊がついてると年寄りを脅して、がらくたの壺を何百万円で売るのも勝手、騙されて買うのは自己責任、ということですね。それどころか、「自己の人生を豊かにしてくれる」ということですね。(単純な相対主義をつきつめてそのような考えになってしまうのは分からないでもないですが、そこまで行きついてみたときに振り返ってみて、どこかおかしいと思われませんか?)
Commented by 素人 at 2009-10-23 17:23 x
それから、私は自分は仏教徒だと思っていますが、何宗というわけではありません。釈迦の考え方に強い共感を持っている、という言い方に近いです。極楽浄土とか輪廻転生とかという類のことは信じるも信じないも、全く関心がありません。
Commented by 素人 at 2009-10-23 18:18 x
下の2つのエントリーなどを拝見すると、単純相対主義の愚かさもよくご理解のように思えるのですが、科学(者)の話題になった途端かくも極端な相対主義に走られるのは、何か個人的な理由でもおありなんですか?
Commented by merca at 2009-10-24 06:52
素人さん 論宅です。
 霊感商法は被害者の自己責任という考えは私はとりません。というのは、霊感商法の場合、脅しによる心理的強制をともない、価値観の押しつけになっているからです。マインドコントロールを他者に施し、純粋な自己決定がなされているとは思えず、被害者の自己責任に帰することはできないからです。
 一般に布教の仕方が個人の自由意思を無視した価値観の強制やマインドコントロール(自己選択したと思わせる心理技法)を使用している場合は、批判されてしかるべきでしょう。これは、壷を購入することが幸福になるかどうかと関係なく、切り離して考えることです。
 多くの人が由緒ある神社で、幸福になるためにお守りや厄除札を購入していますが、これは批判されることなのでしょうか?
Commented by merca at 2009-10-24 06:53
新興宗教による価値観の強制やマインドコントロールは他者の自己選択を曲げてまでも正しいものは受容させるべきであるという絶対主義だと言えます。
 一部の過激なニセ科学批判者がニセ科学信奉者をやオカルト信奉者を間違いであると否定し、科学的価値観を強制するのと本質は同じです。
 絶対主義の愚かさを感じている故に、私は方法論的に相対主義を採用しているにすぎません。
 たとえそれが科学的事実であっても、何か唯一の正しい真理があるという強迫観念=絶対主義で自己や他者を縛り、自己選択性や他者との関係性の幅をせばめ、多様で豊かな人生が送れないのは嫌ですね。
Commented by 初心者・元気ないぞ at 2009-10-24 22:10 x
北朝鮮の人々が不幸であると主張している人がたくさんいますが、人が幸福か不幸かを第三者が勝手に判定することは不可能です。それなのに多くの日本人が自分たちの価値観を基準に「北朝鮮の人々はみんな不幸に違いない」ときめつけて金正日さんの独裁を非難しています。でも金さんの支配のおかげで北朝鮮の人々は幸福になっているのです。北朝鮮の人々は、貧乏かもしれませんが、幸福であっておかしくありません。日本人は、貧乏だと不幸にきまっていると思いますが、そういう日本人絶対主義は良くないです。人の価値観は相対的ですから、北朝鮮の人たちには北朝鮮の人たちの価値観があっておかしくないでしょう。
北朝鮮批判もニセ科学批判と同じですね。
Commented by 論宅 at 2009-10-25 09:30 x
「人の価値観は相対的ですから、北朝鮮の人たちには北朝鮮の人たちの価値観があっておかしくないでしょう。」というのなら、かえって個人ごとの思想や価値観の選択の自由を否定する北朝鮮の独裁的国家体制は否定されるべきということになってしまい、北朝鮮を認めたことになりません。かえって、あなたの議論からは北朝鮮を批判する立場になって自己矛盾しています。
 相対主義の適用範囲の区別の混同からきています。
 文化相対主義と個人相対主義の区別をしておくことをおすすめします。
 個人相対主義にとっては、文化相対主義は個人に価値観を強制する絶対主義となります。相対主義は他の種類の相対主義との関係性で、相対主義にも絶対主義にも変貌します。
Commented by 初心者・元気ないぞ at 2009-10-25 19:24 x
個人ごとに思想の自由や価値観の選択の自由は絶対に必要だとは、どうして言えるのでしょうか。自由はよいものだ、というのは日本人の価値観にすぎないでしょう。北朝鮮の人々は全員不幸であるとは言えないです。
文化と個人を区別するのは、あなたにとって都合がいいだけの、説明のための理論にすぎないです。
個人が相対的なら、個人の自由も相対的な価値しかないに決まっています。それよりも重要なのは、個人の幸福です。自由が無くても幸福であることはよくあることです。
Commented by 質問 at 2009-10-26 20:04 x
相対主義は科学なのでしょうか、それとも宗教なのでしょうか。
Commented by merca at 2009-10-26 21:38
「人の価値観は相対的ですから、北朝鮮の人たちには北朝鮮の人たちの価値観があっておかしくないでしょう。」
あなたのいう「人」というのは、社会=文化と区別された個人という意味だと思いました。むしろ個人と文化が区別されるからこそ、自然にそのような言葉使いとなっていると思います。
 日本人の価値観で北朝鮮の人々の価値観を判断することはできず、押し付けてはならないというあなたの考えに基づけば、北朝鮮は他国の価値観から自由であるべきだということをおっしゃっていると見受けられます。正しく、国家社会単位ですが、あなたの価値観こそ相対主義としての自由主義となります。他国から価値観を強制されないという国家社会単位での価値観、思想の選択の自由を尊重しているわけです。自由主義を尊重しているのは当のあなた自身なんです。つまり、北朝鮮の人々は、他国の価値観を強制されない自由があるという主張となります。
 個人ごとの自由主義は認めないが、国家社会単位での自由主義は認めるというのはなぜでしょうか? その根拠が見当たりません。個人単位も国家単位も自由主義を認めたほうが一貫性があります。
Commented by 門前の小僧 at 2010-01-23 18:22 x
論宅さんの主張には「自由意志」で「自己選択」できることが正しいとするある種の「絶対主義」がありますよね?違いますか?
相対主義が行き過ぎると、他人への干渉がすべて否定されそうですね。それこそ「他者との関係性の幅をせばめ、多様で豊かな人生が送れな」くなりそうです。無責任な相対主義は害悪でしか無いと思います。
Commented by merca at 2010-01-24 09:02
論宅です。
 絶対主義も相対主義も、独我論が本質であり、同じ区別に基づいた思想ですので、確かに反関係主義的です。
 私が自由意志、自己責任、自己選択を強調する理由は、別の区別に基づいています。ポストモダン社会では、人々の行為を自己選択性で構成することで、法や道徳が成立ち、社会が回るからです。
 柄谷行人の「倫理21」と宮台真司の「日本の難点」などを読まれれば、その点は理解できると思います。
 絶対主義と相対主義の二分法はそれだけ取り出すと、必ずパラドックスに陥ります。従って、別の区別=この場合、(ポストモダン/ポストモダンでない)という区別に準拠して観察することで、脱パラドックス化します。かえって、(絶対主義/相対主義)という一つの区別を実体化して他説を観察することが問題だと思います。
Commented by merca at 2010-01-24 09:58
続きです。
 さらに、無責任な相対主義が害悪であるという話ですが、門前の小僧さんがいう責任という概念は、自己選択性と結合しています。行為の原因が自己選択性や自由意志に基づいている時に、はじめて責任を問うことができます。つまり、無責任にならないためには、自己選択性が必要になります。もうお分かりだと思いますが、あなた自身が責任概念で物事を捉えることで、すでに自己選択性という観点を暗黙のうちに採用していることになります。
 論理上は、自己選択性が無責任な相対主義をもたらすことは決してありえません。むしろ自己選択性を自覚しないことが無責任感覚の原因となります。
Commented by 門前の小僧 at 2010-01-24 17:26 x
論宅さん
ニセ科学批判を、「絶対主義」として批判しながら、ご自分の主張を「絶対主義」的であると指摘されると別の基準を持ち出すのですね。
「ポストモダン社会では、人々の行為を自己選択性で構成することで、法や道徳が成立ち、社会が回るからです。」とありますが、この主張すら、「法や道徳が成立ち、社会が回る」事こそが正しいとする「絶対主義」では無いですか?
要は「絶対主義」のみを根拠として人を批判することは、それ自体が矛盾でしょう。批判行為は何らかの価値判断を含む行為であり、人を批判することはすなわち、その価値判断の基準を人に押し付ける行為そのものだからです。
なので、「絶対主義」のみを根拠としているように見えるあなたのニセ科学批判批判は矛盾を含んでいる行為であり、かつ極めて無責任だと思います。
Commented by 門前の小僧 at 2010-01-24 17:27 x
あなたのニセ科学批判批判が無責任に感じられる理由はもう一つあります。批判を行う際に具体例を挙げないことです。
例えば、「脅しによる心理的強制をとも」なわない「スピリチュアルカウンセラーや占い師」の実例を挙げられますか?また、その「脅しによる心理的強制をとも」なわない「スピリチュアルカウンセラーや占い師」を批判している科学者の実例を挙げられますか?
科学者が批判をしている「スピリチュアルカウンセラー」は「脅しによる心理的強制をともなう」方ばかりでは無いでしょうか?例えば有名所でいうと「江原啓之」がいると思いますが、結局は相談者の悩みの原因を、その相談者が確認する事のできない「スピリチュアル」なものであるとし、アドバイスをするわけですよね。悩みの原因を相手が確認することのできないものにする行為は「脅しによる心理的強制」そのものだと私は思いますが違いますか?
Commented by merca at 2010-01-25 22:39
論宅です。
 正直なところ、ニセ科学批判者に対して科学を絶対視していると何度批判しても、暖簾に腕押しであり、無駄であると感じています。絶対視している人は自己反省心がなく、自己を絶対視していると気づかないからです。私自身そのような反省に立ち、今はニセ科学批判そのものを批判するというよりも、ニセ科学批判が他者否定の知的自己満足などのために悪用される可能性について議論することに興味があります。
 絶対主義であることのみで批判できるケースがあります。相対的真理を絶対化すること、つまり部分観を全体観と取り違える誤謬です。科学的真理という相対的な部分的真理を絶対化・一般化するのもその一つと言えます。
 それと、批判については私の考えは全く逆です。批判とは、かえって共通の前提=価値基準がないと成立ちません。その共有前提からすると、自説のほうが無矛盾的ではないかと相手に投げかけることです。共通の前提のない議論は、単なる闘争であり、異なる価値観の対立であり、水掛け論に終わります。
 小僧さんのイメージする批判は、文句の言い合いであり、おそらく知的な議論ではありません。
Commented by merca at 2010-01-25 23:14
 続きです。
 何か具体例という実体がないと、つまり実証的根拠がないと、何も述べてはならないというのは、極めて極端な議論ですが、ここではあえて何も言いません。
 スピリチュアルが人にもたらす肯定的な心理的効果を科学的・実証的に研究されている教授がいるようです。下の方です。
尾崎真奈美 http://blog.sq-life.jp/ozaki/
 さらにスピリチュアルケア学会というのも、存在します。
http://hccweb5.bai.ne.jp/~hee76001/spiritual-care3/spiritual-care7.htm
 要するに、死に際しては、人は宗教が提供する物語によって癒されるという事実を前提にしています。
 脅しによる心理的強制からはいかなる癒しも安心感も生じません。スピリチュアル的なものが、その物語の事実的真偽に関係なく、癒し効果があるというのは、上記のような研究から明らかです。
 
Commented by merca at 2010-01-25 23:43
続きです。
 江原さんについては、個人的な印象からすると、ナラティヴセラピーと同様の心理学的な効果をもっています。つまり、前世物語をもつことで、癒され、励まされるという効果です。江原さんの語りと相談者の語りによって、共同で物語がつくられるわけです。つくった物語は事実である必要は全くなく、夢や理想でかまはないわけです。事実ではなく、人間の自我は言葉=言霊による物語によってできています。
 生きるために前世物語が必要な方を否定することはできません。物語は、科学的真偽という基準よりも、自我を支える機能をもつかもたないかという基準によって価値が決まります。何でもかんでも真偽の区別を実体化する思考は人生を豊かにしません。物語や夢は人間の習性ですので、より人生を豊かにする物語を提供することは悪いことだとは思われません。
 なぜスピリチュアルに対して、ニセ科学批判者は、もう少し柔軟で冷静なプラグマティックな考えをもてないものかと思います。
 ぶっちゃけた話、私の方がスビリチュアルに対しては機能主義的な冷めた見方をしています。菊池氏等のニセ科学批判者たちは、敏感に熱くなりすぎています。
Commented by 門前の小僧 at 2010-01-26 01:02 x
論宅さん

論点が多岐に渡っているので、それぞれを短くコメントしたいと思います。
まず、論宅さんのニセ科学批判者に対する、科学絶対視等の話しは、具体的な事例が無い限りは単なる印象操作との違いがありませんし、言い合をしても水掛け論になるだけでしょう。そのようなコメントを最初に持ってくるところは、それこそ議論をする姿勢として不誠実だと思います。
「小僧さんのイメージする批判」について批判をするまえに、ご自分の議論に対する姿勢を見直した方が良いと思います。

私は批判にもいろいろな批判があると思っていますが、今回の場合は、論宅さんの批判しているニセ科学批判とその論宅さん自身の批判について、本質的な差が無いことを指摘しているだけです。それが理解できませんか?
Commented by 門前の小僧 at 2010-01-26 01:03 x
続きです

>何か具体例という実体がないと、つまり実証的根拠がないと、何も述べてはならないというのは、極めて極端な議論ですが、ここではあえて何も言いません。

事実の認識が異なるため、具体例を挙げての議論が必要だと言う事だと思いますが、それを理解していますか?事実認識が異なったままではまともな議論ができないため、まずその事実認識について確認するのは議論をする上で当たり前だと思うのですが。ましてや一括りにニセ科学批判者といってますが、いろんな人がいろんな立場でニセ科学を批判している現状で、一括りで扱ってしまうこと自体、かなり乱暴でしょう。
Commented by 門前の小僧 at 2010-01-26 01:04 x
続きです

スピリチュアルのメリットを述べていますが、「脅しによる心理的強制」の問題点はメリットがあれば不問にするのでしょうか?そうであれば、それこそ霊感商法だって騙されている本人は(騙されている事に気付かなければ)救われた感情を持っているわけですよね?スピリチュアルと霊感商法の本質的な差は何なんですか?どうやって見分ければ良いのですか?

スピリチュアルには、言われている内容が本当かどうかを見分ける手段が無いこと自体も問題だと思います。現状は表立って高額な対価を要求していないかもしれませんが、一度信じてしまえば、高額な対価を要求されても拒否しにくくなるでしょう。そういう意味でも本質的には霊感商法と同じでは無いですか?
たとえ、スピリチュアルにメリットがあるとしても、デメリットと比較をした上でどうすべきか判断されていますか?論宅さんが挙げられた菊池さんなどのニセ科学批判者は、そのメリットとデメリットを比較した上で、スピリチュアルを批判すべきと判断されているだけで、論宅さんが言うように科学絶対主義だから批判しているわけでは無いですよ。
Commented by 門前の小僧 at 2010-01-26 01:05 x
最後に

科学者にも宗教家はいます。私も宗教は否定してません。ただ、宗教はあくまで精神世界のものであり、形而上にとどまるべきでしょう。なぜなら、上記のように物質世界の事を語りはじめると、本質的に危険を抱え込むことになるため、メリットよりデメリットが大きくなると思うからです。宗教に対して無批判であることは、第2のオウム事件につながるという危惧があるからです。そんな私からニセ科学を批判する論宅さんを見ると非常に無責任に見えるわけです。
Commented by merca at 2010-01-27 22:09
論宅です。
 根本的に誤解されている点があります。ニセ科学という実体=具体例は存在しません。なぜなら、それは一つのレッテルであり、レッテルを貼る側であるニセ科学批判者の認識構造=観察方法の問題であるからです。ちょうど、魔女狩りにおいて、魔女という実体が存在しないのと同じなわけです。魔女というレッテルを貼ることで誰かが魔女とされ、犠牲者にされるわけです。はじめに魔女がありきではありません。
 同じように、ニセ科学も最初から存在するのではなく、ニセ科学批判者がレッテルを貼ることで成立する概念的構築物にしかすぎません。
 ニセ科学のレッテルを貼られた具体的な学説や商品よりも、実は現象学的には何をニセ科学と見なすかというニセ科学批判者たちの判断基準の方にニセ科学の存在原因があるわけです。具体的対象には原因はありません。
Commented by merca at 2010-01-28 22:51
続きです。
 私の議論がメタだとよく言われるのはそのためです。観察の観察という立場をとります。
 物の見方に焦点を当てた観察が無意味だと言われるのなら、それまでですが、あえて私はそのような立場から批判的な観察をさせてもらっています。私がよって立つのは、ラディカル構成主義という観察方法だからです。
 菊池氏、天羽氏、大槻教授らが批判するニセ科学やスピリチュアルの具体的事例=事実よりも、むしろ彼らに共通の認識構造に興味があります。個々の具体的事例という事実よりも、彼らの共通する認識構造や思想に興味があります。
 哲学的立場からは、明らかにニセ科学というものが最初から実体として存在するという前提は、認識論的錯倒なのですが、彼らに同調するブロガーたちは、ニセ科学という具体例が最初から実在していると勘違いしています。科学の対象は物質的存在ですが、科学そのものやニセ科学は認識方法つまり思想にしかすぎません。いいですか、科学もニセ科学も物質的な実体ではなく、人の物の見方や考え方であります。科学を科学することはできないわけです。ニセ科学の本質は、ニセ科学批判者の物の見方の中に存在しています。
Commented by merca at 2010-01-28 22:52
続きです。
 スピリチュアルにメリットとデメリットがあり、それを比較した上でスピリチュアル批判をするということですが、同じ論理からすると、ニセ科学にもメリットとデメリットがあり、それを比較する必要があります。また、科学にもメリットとデメリットがあり、それを比較する必要があります。科学についてだけメリットとデメリットの比較がないとしたら、その方は科学だけ特別視していることになります。ニセ科学批判者は、科学についてそのように反省的に考察しているとは思えません。
 もう一段深く考察すると、スピリチュアルそのもの、科学そのもの、ニセ科学そのものには、何らメリットもデメリットも宿っておらず、それを利用する人間に問題があるという結論になります。つまり、スピリチュアルやニセ科学を自己のお金儲けのために利用して人を騙すこと、科学を利用して人を殺すことが問題であり、利用する者の価値観に問題があるわけです。
 スピリチュアルそのものは有害でも無害でもありません。それを悪用する人間が有害なだけです。にもかかわず、ニセ科学批判者の議論は、スピリチュアルそのものに有害性が宿っているかのような議論になってしまっています。
Commented by merca at 2010-01-28 22:52
最後に
 霊感商法は脅しによる心理的強制という手法をとりますが、これはニセ科学批判者にこそ当てはまると思います。
 というのは、菊池氏とそれに同調するブロガーたちは、自己の主張を絶対化し、暴力的な言葉を浴びせかけ、自己の意見と異なる多くのブログを炎上させてきた経緯があるからです。
 私は正しいからあなたの議論は間違っている。それに従わないと、あなたはダメな議論しかできない馬鹿であるという内容のコメントを平気でしてきます。これは、臨床心理学的には、一種の脅しなわけです。
 馬鹿になりたくないなら私の考えに従えというのは、極めて野蛮な方法です。私はそのような野蛮な方法をとる人間たちにニセ科学批判が悪用されるのをおそれているわけです。私のこの見方に同調するブロガーたちも最近出てきています。洗脳から解け、ニセ科学批判者をやめた方も出てきました。
 科学を信じる心は霊感商法による洗脳を解除するよりも難しいと感じています。
Commented by 門前の小僧 at 2010-01-29 08:46 x
論宅さん

色々反論があるのですが、その前に議論の前提とも言うべき点について、共通の認識を持てているか確認させてください。

1.論宅さんは、「客観的事実」があるとの立場をとりますか?
例は何でも良いのですが、例えば、そこにパソコンがある、とかです。
誰が観測しても同じ結果になる(あるいは多くの人が観測できる)事象の存在と言っても良いかもしれません。
上記の「観測」には直接的でない観測も含むものとします。
例えば、「地球は丸い」は、誰もが直接的に観測した訳ではありませんが、現代においては「客観的事実」として差し支え無いと思います。
幽霊の存在とかは現状では誰でも観測できる事象では無いので「客観的事実」では無いと言えます。
Commented by 門前の小僧 at 2010-01-29 08:47 x
続きです

2.論宅さんは、「客観的に正しい」「客観的に間違っている」事があるとの立場をとりますか?
ここで言う「正しい」「間違っている」に価値判断は含まない事とします。単に「客観的事実」との整合性のみを問題とします。
例えば、そこにパソコンがあるのに、「パソコンが無い」というのは「客観的に間違っている事」になります。「地球は丸い」は「客観的に正しい」であり「地球は丸くない」は「客観的に間違っている」となります。
これは客観的に正しくもなく、間違ってもいない事の存在を否定するものではありません。
「幽霊は存在する」は「客観的に正しい」事では無いですが、かと言って客観的事実に反する訳でもないので「客観的に間違っている」事でもありません。
Commented by 門前の小僧 at 2010-01-29 08:47 x
続きです

3.論宅さんは、「論理的に正しい」「論理的に間違っている」ものがあるとの立場をとりますか?
「AならばB」が正しいなら、その対偶の「BでないならAでない」も「論理的に正しい」というような話です。ここが共有できていないと、そもそも議論が成立しないと思うので。
例えば、「幽霊は存在する」は「客観的に正し」く無いですが、それを持って「幽霊は存在しない」と言うのは「論理的に正し」くは無いという感じになります。(無い事の証明は悪魔の証明となるため、存在が証明できなければ「客観的に存在しない」という立場もありますが、今回はそれはなしにします。)
Commented by merca at 2010-01-29 22:46
論宅です。それに答える前に、あなたの考え方を知るために、以下の菊ログでのコメントを読ませてもらいました。http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1204070813#CID1216128624
 224番のコメントですね。共感できる部分もあることがわかりました。
Commented by 門前の小僧 at 2010-01-29 23:16 x
論宅さん

>224番のコメントですね。共感できる部分もあることがわかりました。

であれば、私のコメント以降で良いですから、一通り熟読することをお勧めします。そうすれば、「ニセ科学批判」についての理解を進めることができると思います。共通の知識があった方が議論もスムーズになると思いますし。
少なくとも私はそのコメントのやり取りで多くを学ぶことができました。
Commented by merca at 2010-01-30 16:56
論宅です。
 1の客観的事実について
 門前の小僧さんの定義によると、客観的事実とは誰がいつ観測しても同じ認識になるような命題と定義されると思います。その定義からすると、個々の主観的事実の集合が客観的事実ということになります。多くの人たちの主観な物の見方つまり認識方法が同一ならば、その考え方は成立ちますので、否定はしません。
 裏を返せば、共通の観念を所有している人々の範囲では、限定的でありますが、一応、客観的事実なるものが成立します。パソコンという観念、地球という観念を所有する人たちの間では、「ここにパソコンがある」や「地球が丸い」という命題は客観的事実として現象化します。現代日本社会に属する私と小僧さんの間では客観的事実となります。
Commented by merca at 2010-01-30 16:59
続きです。
 しかし、パソコンを知らない未開人が見ても、パソコンがあるとは認識しないと思いますので、パソコンという観念を所有しない未開社会では、客観的事実にはなり得ません。同様に、「雷は神様の怒りである」という認知方法をもつ未開社会があるとすると、その社会の範囲内では、雷が鳴ると神様が怒っているということが客観的事実となります。
 社会や文化を越えた客観的事実を求めたいのなら、別の定義を考える必要があります。科学的事実も科学的認識方法を所有する人たちの社会の間では、かろうじて客観的事実と言えますが、それ以外の人たちにとっては客観的事実とは判断されません。
 おそらく、宗教の神観念やスピリチュアルの霊を信じる人と科学主義者では、物の認識方法が異なるので、共通の客観的事実が成立つことはありません。ある特定の認識方法や判断基準を共有せよと強制することはよくありませんが、目的や状況に応じて異なった認識方法を選択して柔軟に対応することはよいと思います。普通、我々現代日本人は、病気に際しては医学という科学に依存し、死に際しては、宗教で葬儀をあげ、スピリチュアルな物の見方や感じ方を選択します。
Commented by merca at 2010-01-30 16:59
論宅です。
2の客観的な間違いや正解が存在するかどうかですが、共通の認識方法をもつ人たちの間では、一応、成立つと考えます。
3の論理的真理については、実証的事実と矛盾しても正しいと考えるかで分かれてきます。例えば、調べなくても正しいことはあります。
 「AはBより大きい」「BはCよりも大きい」が真ならば、AとCを直接比較して調べて実証しなくても、「AはCよりも大きい」ことが論理的な真理として示されます。
 実証しなくても正しい真理が存在することがあると、実証主義を標榜する科学は否定されます、論理的真理は、実証に基づいた科学的真理を相対化するという面においては、今のところ、私は肯定的な立場をとっています。
 ちなみに、論理的真理が正しいとすると、永遠の生命は肯定されます。「私(の精神)は有る」「論理上、有るものが無になることは矛盾している」「従って、(肉体の死後も)、私(の精神)は有り続ける。」 さらに、有名な神の存在論的証明も論理的なものであり、論理的真理が正しければ、神が存在することは真理になります。
Commented by 門前の小僧 at 2010-01-31 12:00 x
論宅さん

まず、1について。
私の定義が曖昧であったため、確認したいことが確認できなかったため再度質問します。(ハンドルネーム通りの非専門家なため定義とかは苦手なもので。申し訳ない)
●論宅さんは主観的事実を超える客観的事実は無いとする立場ですか?
・例えば、木を火に近づけると、燃えて炭になりますよね。それはどのような観念で捉えたとしてもそのような変化が起こる訳で、その変化をどう表現(あるいは認知)するかが観念によって異なるだけだと私は思いますが、論宅さんはどう考えますか?
・上記に関して認知しなければ無いに等しいという考え方もあるとは思いますが、例えばある世界の観念では刃物を認知できないとしても、その世界の人間が刃物を心臓に刺さればその人は死にます。そう考えると、観念や認知に関係ない客観的事実(ここでは刃物による変化)があると私は考えますが、どうですか?
Commented by 門前の小僧 at 2010-01-31 12:01 x
次に3ついて。
1の回答と3の回答の整合性がとれていないように見えるため論宅さんの主張を一部理解できないのですが、

>論理的真理は、実証に基づいた科学的真理を相対化するという面においては、今のところ、私は肯定的な立場をとっています。

これは、論宅さんが「論理的な真理は科学的真理を超える(論理的真理の方が正しい)」という立場をとると解釈したのですが、違いますか?
細かく定義するのが面倒で、3の質問をする際に端折った私も悪いのですが、論理についても突き詰めて考えると、論理そのものも相対的(立場によって是非が異なる)なものであるとするのが普通だと思います。(超数学について少し勉強すれば、世の中には複数の論理体系が存在しうる事が容易に理解できると思います。)

仮に科学的真理を相対化可能としても、同じく相対化可能である論理的真理の方が正しいとする理由はなんですか?それとも「論理的真理」は相対的でないと考えているのですか?


今までのコメントのやり取りでの私の見立てでは、おそらく論宅さんは「科学」や「論理」について正しく理解できていないと予想しています。少なくとも「科学」については誤解している可能性が高いと思います。
Commented by merca at 2010-01-31 15:00
門前の小僧さん 論宅です。
●論宅さんは主観的事実を超える客観的事実は無いとする立場ですか?
 飛躍的な発想をとると可能です。つまり、認識とは、対象をありのまま写し取ることであるという考えです。この場合、客観的事実は、個々人の主観から超越しているので、いわゆる絶対的真理になります。素朴実在論とか真理の対応説とか言いますが、これについてはカント等によりとうの昔に哲学的に誤りであることが指摘されています。世界それ自体やものそれ自体は認識不可能です。
 認識対象そのものは世界から主観によって切り取られた構成物にしかすぎないという立場が有力です。切り取り方、つまり対象化の方法は各主観によって恣意的です。従って、主観的事実から分離した客観的事実があればと願いますが、残念ながら、今のところ、そのようなものは信仰にしかすぎません。しかし、主観を超越した客観的事実があることを前提にして議論することは可能だと思います。
 



Commented by merca at 2010-01-31 17:14
続きです。
 先に、論理的真理についてですが、普通は論理というと、形式論理学を指します。
 論理法則が複数あるという考え方は、論理法則そのものの自己否定であると考えます。数学の公理系の話と、論理学や集合論でいう論理法則の話を混同されていると考えます。仮に、複数あったとしても、結局は形式論理学に変換できないと、我々には理解できないものとなるでしょう。
 私の言う論理的真理とは、形式論理学の論理法則のことを指します。
「AはBより大きい」「BはCよりも大きい」が真ならば、AとCを直接比較して調べて実証しなくても、「AはCよりも大きい」ことが論理的な真理として示されますが、これが正しくない場合があり得るのなら教えて下さい。別の論理が存在し、これが正しくない事態が起こることがあれば、知りたいです。
Commented by merca at 2010-01-31 18:11
続きです。
 刃物の観念をもたない社会の人に対しても、刃物で心臓を刺せば、死ぬというのは、我々の社会の観察側からは客観的事実となりますが、それを観察している我々のほうに刃物という観念が所有されていなければ、事実として構成されません。
 世界の誰もが刃物という観念をもっていないとすると、刃物で人を殺すことが可能であるということは、客観的事実にはなり得ないと考えます。刃物という観念をもつことではじめて客観的事実として生成すると考えます。
 人が、意識を離れた事実そのものを想定してしまうのは、認識とは何か外にあるものを知ることであるという論理的要請からきています。でないと、認識とは全て妄想になるからです。論理的要請としては、門前の小僧さんが提唱する事実そのものについては、あると考えます。つまり、事実そのものは論理的真理です。論理を信じる人の信仰です。日常生活を送るために、私は信じますがね。
 しかし、仮に事実そのものがあると考えても、客観的事実の材料にしかすぎず、それ自体は客観的事実ではありません。観念によって加工されることで、はじめて人に伝わり、共有されることで対象として定立され、客観的事実として構成されます。
Commented by merca at 2010-02-01 21:24
論宅です。
 話をスピリチュアルとニセ科学批判に戻しますが、江原氏についての菊ログの224の小僧さんの考えについては私も同じです。要約すると次のようになると思います。
・江原氏が特に脅しているとは思えず、人生相談であり、人によっては役に立つこともあるかもしれない。
・スピリチュアルを批判するのなら、宗教も批判されてしかるべきであるということ。
 菊ログでの224の門前の小僧さんのコメントを見る限り、極めて常識的な見解であり、私も共感します。
1)信者に対して道徳的な判断が不能な状況まで追い込んでいる
2)信者の生活に影響が出るほど、金銭的な貢ぎを信者に要求している
3)宗教のためには他者に迷惑がかかる事を厭わない(これって微妙な定義ですけどね)
 門前の小僧さんが最初に感じたように江原氏によって上記のような被害者が出ているとは到底私には思えません。
 ニセ科学批判者の集団による集中コメントは、怖いと思いました。江原氏をそこまで悪者にする理由は何か知りたいです。ニセ科学批判からは、憲法で保証されている思想・信教の自由は否定されるのでしょうか?
Commented by 門前の小僧 at 2010-02-03 01:55 x
論宅さん

やっと噛み合う部分が出てきたので、話を少し前進させることが出来そうです。今回は(も?)長くなりますが、ご容赦ください。

まず、1の客観的事実についてですが、論宅さんは「客観的」というタームに引っかかりがあるのか、中々話がかみあいませんでしたが、

>論理的要請としては、門前の小僧さんが提唱する事実そのものについては、あると考えます。

とありますので、主観的事実を超える何かしらの物質世界の事実(以後、便宜上これを「超事実」と呼ぶことにします。)の存在については共有できたかと思います。超事実の存在について共有することで、何が言いたいかったかというと、「科学」とは何かという事です。
Commented by 門前の小僧 at 2010-02-03 01:55 x
続きです。

「科学」には大別して、正しい知識を集約するための方法論と、その方法論により集約された知識そのものがあると考えています。言い換えると、方法論はいわば「超事実」により近づくための方法論であり、その方法論により集約された知識は、現存する「超事実」を認識する方法の中で最も優れた(「超事実」に最も近い)認識を提供するものだと私は考えます。

ここで「正しさ」とか「近さ」の判定方法が問題になると思いますが、それは物質的な現象・未来(超事実の経時変化)について、どれだけ正しい予測を提供するかという尺度で判定できると考えます。

例えば、病気について、神のたたりという観念で捉えた場合は、病気の予防方法や病気になった場合の対処方法について正しい方法を提供できませんし、今後も提供できる見込みは薄いでしょう。一方で、「科学」の場合では、産褥熱を例にとると、19世紀には予防方法もありませんでしたが、疫学的な研究により、細菌という概念が確立する前に消毒という予防方法が考案され、確立されていきます。
Commented by 門前の小僧 at 2010-02-03 01:56 x
続きです。

「超事実」を完全に正確に写し取る事が不可能であることは、全くそのとおりであり、科学者でも誰も否定しないでしょう。しかし、上記のケースにあるように完全に写し取る事ができなく(細菌という概念がなく)ても、科学的方法をとることで、以前よりは正確に未来の予測(消毒による予防)をすることが可能になるわけです。また、科学的方法を取ることで、「超事実」のよりましな認識方法(細菌やウィルスの発見)がもたらされるわけです。

この件に関し、ありそうな論点としては、正しい(正確な)予測が出来ることは、本当に正しい(良いこと)かどうかと言う物があると思いますが、これについては、論宅さんは以前のコメントで「自由意志」で「自己選択」できることが良いこととされていますので、同じように正確な予測も「自己選択」に必要であるという事で合意できると予想しています。
Commented by 門前の小僧 at 2010-02-03 01:57 x
続きです。

なお、論宅さんはニセ科学批判者は「科学」を絶対視していると決めつけていますが、そんなことは無いと考えます。上でいろいろ書いたことも、あくまで、「現在ある方法論の中で最もマシ」というだけだと考えています。「科学」の方法論についても、よりダイレクトに「超事実」に近づく方法論の存在を否定しませんし、より正しい未来を予測するための知識の出現を否定しません。論宅さんが目の敵にしている菊池さんも、「菊池先生と天羽さんへ」のエントリで

>僕たちは「科学は万能でも完全でもなく絶対でもないが、それに代わる合理的な拠り所はない」という立場をさまざまな場面で表明しています。

とコメントされている事を見ても、同じ考えであると思います。
Commented by 門前の小僧 at 2010-02-03 01:58 x
次に論理の話です。

論理体系が複数あると言うのは確かに私の誤解かもしれませんね。論理学について体系的に学んだことが無いのでご容赦ください。
ただ、論宅さんが「論理的真理」と言っている内容については疑義があります。
論宅さんは
>「AはBより大きい」「BはCよりも大きい」が真ならば、「AはCよりも大きい」
と言っていますが、そもそも「大きい」という概念自体に「超事実」の認識方法が含まれているため、その時点で結果については相対的なものになると思います。
例えば、思考実験として、A,B,Cを4次元世界の物体を想定しつつ3次元世界での大きさを比較することを考えると、4次元世界の物体は3次元世界への写像の取り方で大きさが変化するため、「A<B」「B<C」だったのに「A>C」となるケースを簡単に作ることができます。
もっと簡単に言うと、全ての物理世界認識方法(観念)が完全に相対的であるという立場を取られる論宅さんには「AはBより大きい」が完全に真であることを示すことができないと考えます。
Commented by 門前の小僧 at 2010-02-03 01:58 x
続きです。

そもそもの論宅さんのコメントに戻ると
>論理的真理は、実証に基づいた科学的真理を相対化するという面においては、今のところ、私は肯定的な立場をとっています。

とありますが、純粋論理としての形式論理学はその命題内容の意味にとらわれない形で記号で表現されているので、それのみでは意味を成し得ませんし、記号に意味をもたせるためには実証と同じ世界(「超事実」の認識方法が問題になる世界)に降りてこないといけないため、結局、科学的真理と同じ課題を抱える事になると考えます。


>「私(の精神)は有る」「論理上、有るものが無になることは矛盾している」「従って、(肉体の死後も)、私(の精神)は有り続ける。」

これも、同様に、「私(の精神)は有る」が完全に真であることをどう証明するかが問題になると思います。

スピリチュアルの話も書きたかったのですが、さすがに疲れてきたので、後日にします。
Commented by merca at 2010-02-06 14:50
 門前の小僧さん 論宅です。
 超事実(ものそれ自体)は認識主観には決してありのままの姿を現さないという意味ではその存在は認識不可能ですが、超事実が存在することを想定することで、我々が見ている外部世界が単なる妄想ではないという担保になると考えます。
 認識できないが、その存在を疑うことのできないものとしては、超事実の他にも、自己の存在があります。「我思う故に我あり」というデカルトの哲学的真理は、実証的真理でもなく、論理的真理でもなく、直観的真理と言います。自己を対象化した途端に、見る自己と見られる自己に分離してしまい、自己そのものを認識することは永遠に不可能ですが、自己が存在することは否定できません。同じく、外部世界そのものである超事実は、決して認識には立ち現れてきませんが、自己と同じく、信じざるを得ないものとなります。超事実が他人の存在をさす場合、哲学では他者と呼びます。他者は、自己と同じく対象化されませんが、存在します。超事実の存在を単なる論理的真理と混同するようなコメントもしましたが、正式には直観的真理と呼びたいと思います。 


Commented by merca at 2010-02-06 15:11
 続きです。
 ポイントは、実証的真理や論理的真理の他にも、直観的真理というものがあり、科学も超事実が存在することを前提とする限り、哲学の直観的真理によって基礎付けられていることになります。
 ただ、「超事実が存在する」という直観的真理そのものは、科学的方法で得られる知識=科学的知識とは区別されるべきだと考えます。科学は科学によって基礎付けられるのではなく、人間の直観的真理によって成立するわけです。
 科学的知識は超事実の近似値であり、予測可能性が高いほど超事実に近似しているという考えのようですが、特にそれを否定しようとは思いませんし、それが科学者の中で統一的な見解であるというのなら、それはそれでよしです。
 知識の評価ですが、私はむしろ使用可能性に価値を置いています。つまり、その知識がどれだけ目的遂行の手段として役立っているかどうかです。目的に応じてです。病気を神のたたりだと考える知識は、病気治療には役立ちませんが、村落社会の秩序を維持するためには役立っていたのかもしれません。
Commented by merca at 2010-02-06 15:39
 続きです。
 菊池さんたちが科学的方法が真理に近づく唯一の方法ではないと考えているということ表明しているかもしれませんが、たとえそうであっても、実際の言動は全く違っているように見えます。
 そもそも、もし科学的方法以外の方法で得た知識も認めるのなら、菊池さんがなぜスピリチュアルや占いや宗教などの他の方法による知識を強烈に否定する必要があるのか理由がわからなくなります。否定するというのは、やはり自分が正しい、相手は間違っていると相手に宣言することであり、自己の知識を相手に採用させ、絶対化していることになると思います。
 例えば、霊感という直感的認識も完全に否定できないが、科学から見たら間違いであり、それを採用するかどうかはあなたの自己選択次第です。という感じなら、菊池さんの批判も科学を絶対化しているとは言えませんが、これまでの菊池さんたちの強烈な批判からは、感じとれません。
 常識的に考えると、やはり科学的方法による思考と知識を絶対化しているからこそ、相手を強く否定できるのではと思います。
Commented by merca at 2010-02-06 16:34
続きです。
 まず、門前の小僧さんの考えによると、論理的真理も個々の命題の正しさが外部対象との近似に基づくので、意味をもつためには結局は実証的真理に還元されるという考えだとわかりました。ただ、その実証的真理も超事実の存在の同一性に担保されているので、直観的真理を前提とします。
 あいにく、このケースの場合、認識の相対性は、Bという物体の同一性によって克服されています。つまり、Bという同一の物差しを使い、AとCを比較しているからです。同じ物差しで測定した場合、何度図っても同じになります。これは、同じ物差し=認識方法をもつことで客観的事実が成立つという私の考えでもあります。
次元の問題ですが、次のように考えます。
 全ての次元世界で、「AはBより大きい」「BはCよりも大きい」が真ならば、全ての次元世界で「AはCよりも大きい」が成立つと考えます。一つの次元世界だけなら、門前の小僧さんが言うような現象もあるかもしれませんが。
 物質世界である三次元体以外の世界があるとしたら、それこそ霊界のようなものをイメージしてしまいます。次元概念は、我々の認識枠組みなのか、外部の世界なのか、どちらでしょうか?
Commented by merca at 2010-02-06 16:42
最後に 
>「私(の精神)は有る」「論理上、有るものが無になることは矛盾している」「従って、(肉体の死後も)、私(の精神)は有り続ける。」 これも、同様に、「私(の精神)は有る」が完全に真であることをどう証明するかが問題になると思います。

 門前の小僧さんが肯定する「超事実がある」を完全に真であると証明するのは、科学的方法ではなく、直観的真理によって獲得可能であるのと同じく、「私(の精神)は有る」はデカルトの「我思う故に我あり」という直観的真理に基づきます。
Commented by 門前の小僧 at 2010-02-06 22:17 x
論宅さん

菊池さんがスピリチュアルを批判する理由を論宅さんは全く理解していない事は、今までの論宅さんのコメントから明白なので、スピリチュアル関係のコメントは一端横に置いておきます。

論宅さんのコメントは、なんか結局、科学を否定したいだけのために論をとっちらかせているようにしか見えません。

>知識の評価ですが、私はむしろ使用可能性に価値を置いています。つまり、その知識がどれだけ目的遂行の手段として役立っているかどうかです。

目的遂行の手段って、誰の目的ですか?為政者が村の秩序を維持するために病気を神のたたりだと村人に信じこませたと言うことですか?
論宅さん自身のコメントで、北朝鮮の支配体制の事を否定されていましたが、北朝鮮の為政者が国の秩序維持のために国民に正しくない情報を与えることと、村落社会の秩序を維持するために病気を神のたたりとすることと、何が違うのですか?
Commented by 門前の小僧 at 2010-02-06 22:18 x
続きです。

私が2010-02-03 01:56のコメントできちんと

>論宅さんは以前のコメントで「自由意志」で「自己選択」できることが良いこととされていますので、同じように正確な予測も「自己選択」に必要であるという事で合意できると予想しています。

と書いたのに、(私のコメントを理解できなかったのかもしれませんが)そのコメントを無視したかのような発言にはがっかりしました。

北朝鮮の話の中で「自由意志」による「自己選択」が大事であり、そのためには正しい情報が必要であると考えているのに、未来を正しく予測するのに現状で最も優れている「科学」の認識方法を何故霊視とかと同列に扱えるのでしょうか?

論宅さんが、仮にこのまま全体として整合性が取れない論を述べ続けられるようであれば、論宅さんは論理的思考力が無いのか、または単に科学を否定したいだけでそのためには手段を選ばない人と判断せざるを得ませんので、そこから先の議論は止めます。


他にも言いたいことはたくさんあるのですが、とりあえず上記のコメントに対する返答をお待ちします。
次のコメントはがっかりさせないでくださいね。期待していますよ。
Commented by merca at 2010-02-07 08:44
論宅です。
 ちなみに、論理的整合性というのは、形式論理学における無矛盾性を意味します。その人の説に論理的整合性がない場合は偽となります。従って、門前の小僧さんも形式論理学的な思考を尊重していると考えます。

 私の科学に対する基本的スタンスですが、科学を絶対否定しません。科学の存在は、機能分化した現代社会では、それ自体が重要な社会的分野を形成しており、人々の幸福に寄与しているからです。私が否定するのは、社会の他の分野の文化を否定する科学絶対主義のみです。さらに、科学主義による文化侵略のために、ニセ科学批判が悪用されることを懸念しています。
 従って、科学を相対化することはあっても、否定することはありません。科学は、事実と認識の一致を目指す真理観のもとでは、優れた知識獲得の方法だと思います。
 科学的知識の精度がどれだけ高いかは、予測可能性も一つの重要なファクターですが、他にも使用可能性があります。つまり、任意の目的に対してその知識が実践的に応用できるかということです。
Commented by merca at 2010-02-07 13:00
続きです。 論宅です。
 例えば、調理人にとっては、「水は100度で蒸発する」という科学的知識は非常に実用的であり、湯沸かし器などにも適用されていると考えます。しかし、「月では動物がすめない」という科学的知識は、調理人にとって何の価値も持ちません。「月ではウサギが餅をついている」から、満月の日に月見団子を料理に出そうということのほうが有用性を持ちます。料理人にとっては、「月では動物がすめない」という知識よりも、「月ではウサギが餅をついている」という物語的知識のほうが利用価値が大きいわけです。
 「太陽が東から昇って西に沈む」というのは天動説であり、科学的には間違いですが、現代人もこの伝統的知識に基づいて日常生活を送り、支障はありませんし、有用です。科学的に違っている知識でも有用な場合があります。しかし、「地球が太陽の周りを回っている」という地動説は、環境問題や宇宙開発に携わる専門家たちには必要だと思います。このレベルになると、科学的知識は有用です。
Commented by merca at 2010-02-07 13:36
続きです。
 ちなみに、「太陽が東から昇って西に沈む」という天動説は、予測可能性もクリアーしています。明日太陽が昇ると予測すると、次の日も太陽が昇るからです。予測可能性だけでは、科学的知識として正しいかを区別する基準になるのかは議論がわかれます。
 ただ、私は個人的には、予測可能性は科学の公準にいれるべきだと考えています。しかし、科学足りうるためには、もっと複数の基準が必要だと思います。
 自己選択のためには、正しい予測が必要であり、予測可能性が高い科学的知識は必要かと思われます。山に登るのに山の高さや気候に関する正しい知識を得るのと同じです。
 超音波は、我々の耳には聞こえませんが、コウモリなどは聞こえます。それと、同じで、特殊な認識機能や感覚をもつ人たちがいたとしたら、人が見えないものを見ることになります。
 霊視は、科学的方法では認識不可能な世界を認識しているという可能性も否定できません。
 霊視よりも科学のほうが優れているというのは、やはり科学主義の基準からの判断にしかすぎないと思います。科学だけが他の知識体系よりも優れている根拠は何でしょうか? 
Commented by merca at 2010-02-07 22:33
続きです。
 例えば、疫病が村に流行って病人が多く出て、医学的治療を村人が受けたとしても、なぜたまたまこの村だけが疫病が流行って多くの人が死んだのかという村人の問いに答えたことになりません。医学はそれに答えてくれません。その問いに答えるのが宗教の役割です。神の祟りという物語は、その問いを処理してくれます。結果、村の神を祀ることで、その不条理な出来事に人々が耐えることができ、村の秩序が維持され、安心感をとりもどすと、宗教的真理だと言えます。医学も必要ですが、宗教も必要であり、そもそも対立させて考えてしまうのは、おかしいと思います。
 出来事に関しては、科学的因果関係での認識と、科学的因果関係それ自体の原因となるような世界の根源的偶然性に対する解釈があります。どちらも必要かと思いますし、レベルが異なるので矛盾するものではないと考えます。
 北朝鮮が誤った情報を流すのは科学的因果関係でのレベルであり、神の祟りであるというのは世界の根源的偶然性に関する解釈のレベルです。
 この点について、新たなエントリーを立てました。
Commented by 門前の小僧 at 2010-02-09 01:04 x
論宅さん

結局、残念な感じですね。論宅さんと議論するのは
1.論宅さんは論理的に主張を構成する能力が乏しい
2.論宅さんは話をすぐに拡散させるため、議論をしにくい。こちらの主張を間違って理解した上で、話を広げていくため、反論すべき事が雪だるま式に増えてく一方です。
 (これは間違った主張でも相手に論破させないためのテクニックでしょうか)
という理由により、労多くして得るものが無いと判断せざるをえません。
と言う訳で、誠実に相手するのが馬鹿らしくなったので、簡潔におかしな点の指摘&反論だけする事にしました。ほんと、2だけでも改善してほしいものです。
Commented by 門前の小僧 at 2010-02-09 01:05 x
・使用可能性について評価尺度がわかりません。使用可能であればOKという馬鹿な主張ですか?
・利用価値の大きさについて言及していますが、誰にとっての利用価値ですか?
・そう言えば、誰の目的かという質問にきちんと回答してください
・使用可能性があれば論理的に間違っていてもOKという主張だったらまだ主張に一貫性がありますが、それで良いですか?
・利用価値が尺度だと複数人で利害が相反する事が容易に想像できますが、その場合はどちらを正しいとするのですか?
・で、上記の様に問題のある使用可能性というのがなぜ正しい予測を提供できるかという尺度より優先されるのですか?
・いつ科学が宗教を否定したのですか?わら人形論法ですか?
・霊視が正しい可能性を科学は否定していませんよ。正しい事が示された事がないから正しくないとして扱った方が安全だと言っているだけです。やっぱり論宅さんは科学やニセ科学批判を正しく理解していないだけでは無いですか?
・ニセ科学批判としてスピリチュアルを批判するのは、予防を考えた上で批判をしています。その事も恐らく理解できていないですよね?
Commented by 門前の小僧 at 2010-02-09 02:09 x
・科学の本質はプロセスなんだけど、そこを理解している?
・論宅さんの言う科学的真理って何?科学を間違って理解していて、一般的な「科学的真理」と違うものを指しているんじゃないの?
Commented by merca at 2010-02-10 21:44
論宅です。
 門前の小僧さんは、科学をどのように理解されているのでしょうか?
科学の定義は誰が決めるのでしょうか?
 これが科学であるという唯一の正しい定義が存在しうるのでしょうか?
科学とは何かについては、科学哲学でもかなり論争されており、一筋縄ではいかないことは御存知でしょうか?
例えば、反証可能性だけでは科学は定義できず、複数の基準で考えないと科学と非科学の区別はつきません。
 門前の小僧さんの言われる予測可能性だけでは、科学と非科学を区別することは困難です。そもそもニセ科学批判者の教祖である菊池氏も、反証主義のみによる科学の定義では不十分であり、複数の基準を利用して区別することを提唱しています。科学の定義についての菊池さんのテキストをきちんと読まれましたか?
 私は科学の方法も定義も時代によって変化し、どんどんと変わっていくものであるし、人や社会によって捉え方のズレがあるのは当たり前だと思っています。一つの科学の定義は絶対化しているのでしょうか? そうなると、絶対主義に陥ってしまいますよ。
Commented by merca at 2010-02-10 22:05
論宅です。
 門前の小僧さんは、科学をどのように理解されているのでしょうか?
科学の定義は誰が決めるのでしょうか?
 これが科学であるという唯一の正しい定義が存在しうるのでしょうか?
科学とは何かについては、科学哲学でもかなり論争されており、一筋縄ではいかないことは御存知でしょうか?
例えば、反証可能性だけでは科学は定義できず、複数の基準で考えないと科学と非科学の区別はつきません。
 門前の小僧さんの言われる予測可能性だけでは、科学と非科学を区別することは困難です。そもそもニセ科学批判者の教祖である菊池氏も、反証主義のみによる科学の定義では不十分であり、複数の基準を利用して区別することを提唱しています。科学の定義についての菊池さんのテキストをきちんと読まれましたか?
 私は科学の方法も定義も時代によって変化し、どんどんと変わっていくものであるし、人や社会によって捉え方のズレがあるのは当たり前だと思っています。科学の定義は唯一であり、門前の小僧さんはそれを絶対化しているのでしょうか? そうなると、科学絶対主義の罠に陥ってしまいますよ。 

Commented by merca at 2010-02-10 22:07
続きです。
 従って、私の提唱している使用可能性も科学と非科学を区別する基準としては不十分です。使用可能性を絶対化しているわけではありません。
 それと、門前の小僧さんは、価値論と認識論を混同されています。目的の正当性は価値論の問題であり、人々の立場によって異なりますので、答えることはできません。今、議論しているのは、何を科学と見なすかという指標の話であり、目的の正当性という道徳的価値の問題とは区別されるべきです。議論の水準を理解されていないと思います。
 しかし。あえて答えるのなら、他者の自己選択を妨害しない範囲における個々の自己選択した目的ならどんな目的でも妥当であるくらいしか言えません。

 霊視をインチキと菊池さんは見なしていると考えますが、そうではないのでしょうか?  以下の菊池さんのエントリーの最初で霊視がインチキだと見なしているように私は理解しました。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1204070813#CID1216128624
 ニセ科学批判者である菊池さんが霊視をインチキではないと思っている根拠を示して下さい。
Commented by 門前の小僧 at 2010-02-10 22:51 x
・科学の定義について、完全に定まっていないことは同意。ただ、完全に定まっていないからと言って、定まっている部分が無いわけではない。01の話に持ち込む論宅さんは議論に誠実でないか理解力に乏しいかどちらかの可能性が高い。
・そもそも科学を霊視と同列に扱っている論宅さんが、今更科学の定義はさだまっていないと言うところが笑止。霊視と同一に扱うことができない科学を明示されたための詭弁ですね。
・予測可能性は、科学の方が霊視より優れている根拠として提示しただけで、それが科学の全てとは誰も言っていない。相変わらず理解力がなさすぎです。
・科学の本質はプロセスと言うことをやっぱり理解できていないでしょう。ホントはもっと丁寧に説明しようと思ったけど、論宅さんがすぐに話を発散させるので止めました。発散させないと言うのであれば改めて説明しますよ。
Commented by 門前の小僧 at 2010-02-10 22:52 x
・使用可能性は科学の定義でも何でも無い。論宅さんが科学に反論したいがために言い出した事でしょ?自分が言い出したことについてきちんと説明出来ないのは、論宅さんが論理を構成する能力に乏しいことの証だと考えますがいかが?
・そうでないと言うのであれば、きちんと、私の質問に回答してください。逃げないで・誤魔化さないおで。誤魔化し続ける限り、成長は望めませんよ。
・人の正当性は価値論の問題と言うのであれば、ニセ科学を批判する人を批判することも否定されますよ。もう少し論理的思考力を磨いてください。
・論宅さんが示したkikulogのエントリでは、「江原氏の霊視がインチキである」と言っているだけで、霊視全てがインチキとは言っていない。日本語の読解力もきちんと身につけてください。
Commented by merca at 2010-02-10 23:45
 論宅です。
 使用可能性は、物語でも科学でも重要です。別の言い方をすると、科学では、操作性の問題に関わってきます。認識対象を操作し、コントロールできるかどうかにかかわる問題です。遺伝子工学などは、遺伝子を操作し、研究者の意図にそった細胞をつくることができるわけです。そうすることが可能なことで、遺伝子にまつわる科学的知識が確かなものであるとわかる基準となります。簡単に言えば、知識を実践的に自由に応用できるかどうかということです。これは、テクノロジー、科学技術の問題に関わってきます。

 霊視の件ですが、江原の霊視と別の方の霊視はインチキではないと菊池さんが思っている根拠があれば、門前の小僧さんの説に同意しますが、菊池氏の「信じぬ者は救われる」やその他の文書を読んだ限りでは、インチキでない霊視が存在すると菊池さんが考えているという証拠は見つかりませんでした。どうして、菊池さんがインチキでない霊視があると信じているのがわかるのか教えて下さい。
Commented by 門前の小僧 at 2010-02-11 00:00 x
>簡単に言えば、知識を実践的に自由に応用できるかどうかということです。

・使用可能性の例として論宅さんが挙げた「雷を神の怒りと考える知識」の実践的応用例を示してください。また霊感商法がそのしの使用例には当てはまらない理由も示してください。屁理屈はいくらでも簡単に言えるのですよ。屁理屈でないと言うのであれば、トータルとしてちゃんと主張(論理)を成立させてください。

・「信じぬ者は救われる」は、私の言う「正しいと証明されていないものは、正しくないと扱った方が安全」と一緒の考え方であり、「正しいと証明されていないものは正しくない」とは異なります。江原氏の霊視は「正しくない」という証拠が色々ある例であり、霊視一般については「正しくないと扱った方が安全」と理解すれば良いと思います。
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