「2円で刑務所、5億で執行猶予」書評


 治安悪化神話批判者かつ刑罰信仰批判者の犯罪学者・浜井浩一氏が、新書で面白い本を出した。
 それが、このほど刊行された「2円で刑務所、5億で執行猶予」(光文社新書)である。
 端的に言うと、これはすでに治安悪化神話批判を越えて、司法官僚(裁判官・検察官)及びその思考形態である法学批判である。同氏の人間科学の立場から、法学を非科学的であると批判している。科学を盾にした検察官・裁判官・弁護士という司法エリートに対する技官(人間科学を専攻する官僚)の反乱であるだと思った。
 論理は一貫している。科学の立場から事実判断=科学的事実を重視し、法学の立場である価値判断の世界を嘘だとして批判するという方法である。この事実主義は、ニセ科学批判者や俗流若者論批判者と同一の思考形態をもつ。
 そこで、浜井氏の主張する二つのトピックを取り上げてみたい。

・心から悔い改めさせれば再犯は防げるのか?
キャンベル共同計画(犯罪者処遇の効果を実証的に検証する科学的プロジェクト)では、犯罪被害者の心情を理解することは犯罪者の再犯防止ではなく、再犯促進に向かう可能性があるという。浜井氏の解釈では、犯罪被害者の心情を知ることで犯罪者は自尊心を低下させ、社会適応が阻害されるというのである。
 人間科学によるこの結論は、道徳主義に準拠する法学的思考と真っ向から対立する。検察官や裁判官の道徳的思考からすると、裁判時に加害者は犯罪被害者の心情を理解し、その上で反省心や悔悟心をもつことが求められ、そのことで更生が期待され、量刑が軽くなると考える。ところが、人間科学の立場からは、被害者の心情を理解すること、相手の気持ちを考えること、これらが更生ではなく、再犯促進につながる可能性もあるというのである。
 司法官僚、国民、犯罪被害者は、犯罪者に対しては被害者の気持ちと痛みを理解し、罪悪感をもつべきだと考えるが、それが再犯につながるおそれが科学的事実としてあるのなら、どうすればよいのか迷ってしまうのである。
 人間科学の正しい知識を選択するのか、司法官僚たちの信仰を選択するのか、はたまた国民の価値判断に委ねるのか、それを突きつける議論である。
 道徳的に正しいことが非道徳的な結果を招くというパラドックスが見て取れる。

・刑罰信仰
 このトピックは本書の眼目である。浜井氏は、死刑の犯罪抑止効果を例に出して、刑罰の犯罪抑止効果を否定している。端的にいうと、刑罰の犯罪抑止効果は信仰にしかすぎず、非科学的であるというのである。要するに、刑罰には、治安を維持する効果はないというのである。法学の根幹である罪刑法定主義の否定を意味する。
 もし浜井氏のいうように、刑罰が治安維持に関して無効だというのなら、刑罰のない社会、警察のいない社会、刑務所のない社会を想像してみてはどうだろうか? 果たして安心して国民は暮らせるだろうか?
 浜井氏は、 刑罰の社会的機能の多くを捨象して議論しているため、刑罰無用論に聞こえてしまう。社会学的には、刑罰の社会的機能としては、犯罪抑止機能(一般予防、特別予防)の他にも、紛争処理機能(加害責任の所在を明確化する)、犯罪無効化機能(犯罪者の隔離収容)、応報感情の充足化機能(被害者による報復を禁じる)、社会正義の実現機能などがある。
 科学の立場からは刑罰の犯罪抑止効果は事実ではなく信仰にすぎないとしても、刑罰を廃止すると、やっかいなことになるのである。
 ただ、未成年には原則的に刑罰は適用されず、刑罰に代わるものとして保護処分が科せられる。保護観察と少年院である。未成年は刑罰のない世界に置かれている。しかし、少年にとっては、保護観察と少年院は刑罰と同じ意識で受けとめられているのである。悪いことをしたら少年院に行くという意識と、悪いことをしたら刑務所に入るというのは身柄拘束を伴う罰則としては同じである。保護処分の機能は、刑罰と同じであると考えられる。少年院に入りたくないからこれ以上悪いことをしないという非行少年はいるであろう。
 
 ともあれ、同著は、べき論としての司法の領域に科学が侵入している事例である。べき論たる道徳判断の司法の世界は、科学の対象外であり、科学的根拠で持って司法の正当性を判断することは本来カテゴリーの混同である。科学の対象外の領域について科学の立場からその正当性を判断しようとする浜井氏の犯罪学は、このままではニセ科学化するおそれがたかいのである。

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by merca | 2009-11-08 10:32 | 社会分析
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