厳罰化による犯罪者保護

 刑罰は、治安維持のためにあるだけではなく、犯罪者の人権を保護するためにも必要である。犯罪に対する罰則は、国家による刑罰によって定められ、それ以外の制裁は不当だと見なされ、犯罪者が余分な人権侵害を受けずに済むことになる。
 犯罪者に対して、人々は、道徳的怒りから、非難・罵倒し、時には石を投げつける等、制裁を加えるおそれがある。また、企業が就職差別をしたり、福祉が生活保護を受けさせなかったりと、犯罪者差別を行い、社会的制裁を加えるおそれがある。さらに、被害者から無制限の報復を受けることも考えられる。
 
 刑罰制度は、そのような無制限の社会的制裁を禁止し、刑罰を終えたら、犯罪者でなくなり、基本的に一般人として扱うというシステムなのである。法治国家では、刑罰を終えた人間に対して犯罪者として制裁を加えることは、いかなる場合においても許されないし、たとえ受刑中でも私的制裁は許されない。
 刑罰やそれにともなう資格制限制度によって、犯罪を犯した人間が犯罪者である期間が定まり、刑期が満了すると、一般人として社会に甦ることになるのである。刑を終えた刑務所出所者に対して、「あいつは犯罪者だから気をつけろ」という発言は、実は人権侵害の差別発言なのである。

 厳罰化すればするほど、犯罪者は罪を償う時間が多くなり、その分、世間からの非公式の社会的非難や差別を受ける機会や理由はなくなるのである。厳罰化は、人々の道徳的暴力や社会的差別から犯罪者を保護する装置なのである。

 刑罰が犯罪者を保護するという機能を無視し、厳罰化イコール被害者の立場と思考するのは短絡的なのである。厳罰化することで利益を得るのは、むしろ犯罪者のほうなのである。

  補足説明
 厳罰化の意味は、自由刑の期間延長化だけでなく、罰金の増額、執行猶予期間の延長化なども含んでいる。つまり、自由刑以外の刑罰の厳罰化も意味している。例えば、執行猶予に社会奉仕命令を付ける等して厳罰化すれば、犯罪者が社会に貢献することで人々の非公式の社会的制裁を緩和する機能を持つことになる。刑罰による保護が自由刑=ムショに入ることだけと取り違える人がいるで釘を刺しておく。
 確かに、刑務所勤務体験のある犯罪学者・浜井浩一氏が指摘するように、ホームレス化した高齢犯罪者が自己の生存権(衣食住)を確保するために好んで刑務所に入るという事実は多く認められるようである。いわゆる、刑務所太郎である。実刑という刑罰は、福祉から差別的に排除されている累犯高齢受刑者を保護する機能はあると言えよう。犯罪者自身が刑罰が自己の利益になると認識して再犯して服役することはあるのである。
 
 ところで、刑罰を受け終えた後の社会的制裁とは、資格制限を除けば、全てインフォーマルなものであり、法システムの外にある。言わば、コミュニケーションシステムの次元において差別を受けることで、犯罪者は雇用システム、福祉システム、親族システム等の各種システムから差別・排除という制裁を受けるのである。例えば、結婚する際に犯罪者だとわかれば、相手の親が結婚を反対することがよくある。これは、親族システムからの差別・排除であり、一種の社会的制裁である。理論的に言うと、近代化により法と道徳が分化し、法はフォーマルな世界に属し、道徳はインフォーマルな世界に属するようになった。道徳的には悪であっても、法律に触れない限り、フォーマルな制裁はできないのである。システム論的には、法と道徳は互いに閉じているのである。
 従って、法と道徳が分化した近代社会では、このような非公式の社会的制裁に対して、法システムは無力である。非公式の社会的制裁はインフォーマルな私的領域の出来事として処理され、フォーマルな公的領域を扱う法の介入はできないからである。犯罪者を雇用しないこと、犯罪者と結婚しないこと、犯罪者と友達にならないことは、組織や個人の私的な自由であり、法的に介入できないからである。法システムに訴えることができないから困るのである。
 犯罪者の非公式の社会的制裁のメタコードは、善悪という道徳コードである。社会学者・北田暁大が指摘するように、道徳コードは、どのような種類のシステムに対しても関わることができる特殊なコードなのである。非公式の社会的制裁は、犯罪者を善悪で判断し、その人格を侮蔑することで、各種システムから差別・排除することになる。
 確かに、非公式の社会的制裁を受けても、善悪以外の別の区別でコミュニケーションを接続させ、非公式の社会的制裁を免れることも可能である。しかし、他者がどのような区別でコミュニケーションをしかけてくるかは他者の自由・偶然であり、いくら犯罪者自身が別の区別でコミュニケーションをしようとしても、無駄なのである。
 社会は究極的に実体なき、創発されたものであるが、みんなが同じ区別でコミュニケーションをしかけてきたら、本当になるのである。つまり、多くの人たち=みんなが善悪の区別に準拠して道徳コミュニケーションを犯罪者にしかけてくることで、犯罪者の人格に悪という性質が内在するかのように実体化してしまうのである。これを物象化という。貨幣に価値が宿るという原理と同じである。
 一人の人間が自由な意思に基づいて好きな区別を選択し、コミュニケーションをしても、多くの人間が共有する区別に圧迫されてしまうのである。それは、自分だけでなく、他者=みんながあってのコミュニケーションだからである。社会学の超人である宮台真司が権力の予期理論を念頭におき、社会学は「みんな」を考える学問であると豪語したことは正しいのである。「みんな」ほど怖いものはないのである。存在論的社会観の根源は、この「みんな」なのである!!
種明かしすると、いわゆる「社会」創発の究極のメタコードは、(みんな/みんなでない)というメタ区別である。
 
 多くの場合、個人の夢=幻想は、共同幻想に負けるのである。個人の夢=幻想を絶対化すると、狂人と化すのである。(実は、そういう立派な方もおられるのである。このエントリーの補足を書くきっかけとなったその方だけは例外であり、崇拝対象となるのである。偉大である。)

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by merca | 2009-11-08 15:13 | 社会分析 | Comments(0)
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