反社会学講座による読者コントロール

 反社会学講座による読者コントロールのトリックを暴きたい。

・自己の提示した統計の解釈イコール客観的的事実だと思わせ、常識・俗説を批判する。
しかし、社会調査法の専門家から見れば、粗雑で間違っている。自らは調査はせず、引用だけですましていることから明らかである。仮説を実証するためには、自らが定めた項目で調査する事項も出てくるがそれがない。
 最初に統計はこうだと主張し、最初の主張で常識・俗説を批判し、その流れから厳密な社会調査をせずに、自己の主張を通そうとする。最初が正しければ、後も正しいという人間心理における認知不協和の理論を巧みに使用した読者コントロールである。

・批判からの自己防衛のために、本当の社会学者からは批判されないという防波線をはる。批判してくるのは学者崩れであると主張する。
 このような予防線をはることにより、社会科学を研究する教授や大学院生が批判すると、自己の値打ちが下がると思わせ、本格的な学術的な批判を受けることから免れている。
 パオロ氏が自信を持って本当に正しいことを述べているのなら、このような卑屈な防破戦をはる必要はなく、議論することで真理に近づくという学問の道を閉ざす必要もない。やはり議論による批判を避けるという点において、はなから学問でない証拠であるし、学問的な真理を述べているわけではないことになる。

・常識・俗説を批判する意外性でひきつける。
 常識・俗説を批判することは痛快・意外であり、読者の関心を引くことになる。また、常識・俗説を批判するだけで、大勢に流されず、冷静に思考を重ねた結果であり、これは真理ではないかと人々は思ってしまうものである。特に、知的な人はこれにひっかかりやすい。俺は騙されないと思う知的な人間をひっかける高等戦術である。

・少し知的な人たちの大衆蔑視による知的優越感の充足
 社会学者を批判するとともに、同時に学説に騙されている大衆も蔑視するという構造がある。パオロ氏の言説に賛同することで、社会学者を侮蔑するとともに、大衆に対する知的優越感を得ることができるわけである。知的優越感の充足が読者の魅力となっている。お前ら大衆は学者に騙されているが、俺は真実を知っているという知的優越感が、反社会学講座の本質である。


 反社会学講座は、内容が正しく真実であるかどうかよりも、内容を正しく見せかけ、多くの読者を獲得することが目的なのである。要するに、読者コントロールによって引用した統計や資料を利用して自己の言説を社会科学的事実だと思い込ませるニセ社会科学なのである。本当に社会科学ならば批判に予防線をはるという卑屈な心理作戦はとらないのである。この点、ニセ科学批判されているが、批判にオープンな水伝よりもたちが悪いのである。
 
 ルーマン社会学からすると、学問のコードである(真/偽)で読者が観察してしまっているのである。本来、反社会学講座は、(真/偽)のコードで観察するのではなく、(面白い/面白くない)というエンターティメントとして観察すべきなのである。しかし、読者を(真/偽)のコードで観察させてしまう社会心理学的トリックを故意に使用することで、読者をコントロールしているのである。
 パオロ氏は、読者が(真/偽)のコードで反社会学講座を読んでいるということ自体を観察し、自身の知的優越感の充足を図っているものと考えられる。多くのブロガーよ!! あさましき自我の餌食になることなかれ!!

 結論
・反社会学講座を批判しない者は、反社会学講座の読者コントロールに洗脳されているのである。
・反社会学講座は、社会心理学者や広告心理学者からの攻撃に弱いと考えられる。しかし、このことを指摘した論客はあまりいない。


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by merca | 2010-01-11 12:12 | 社会分析 | Comments(21)
Commented by たけ at 2011-01-31 15:00 x
あのーまずバオロ氏は社会学を誤用し、むちゃくちゃな結論を導いてますと最初にいってます。だから、社会学の事を知らないという批判はあたらないし、この本は データとかを疑いましょうという事がいいたいのであって、予防線をはってる事に重きはおいてないでしょう。
あと、もしあなたがまともな頭脳があるならパオロ氏があげたトピックについて根拠と主張をのべなきゃダメでしょ。
内容じゃなくて、手法の批判ばかりしてんじゃん。
Commented by おかしなじゅけんせい at 2011-02-12 17:29 x
批判しかできないのですね。
根拠と主張を述べましょう。
Commented by merca at 2011-02-12 23:36
「反社会学講座の正体は、社会学に対する藁人形論法。」というエントリーを書きました。社会学理論を学んでいただければ、洗脳から解けると思います。
Commented by ttt at 2011-04-02 15:23 x
「反社会学」の功績は、科学や事実を標榜しつつ感情論に阿る
人士や論法に一矢を報いた事でしょ。それだけでこの社会に
肯定的貢献をしたと思う。
一番の反社会学批判は、彼以上に巧く、擬似論理を振り回して人を
操作しようとする輩に痛撃を加えることだと思う。そちらの方向で
実績を上げたら彼を容易に退場させられるでしょうから、乞う努力。
Commented by merca at 2011-04-02 19:40
 論宅です。
「科学や事実を標榜しつつ感情論に阿る人士や論法」について、反社会学講座には具体的事例がないのが、非科学的です。一体、日本のどの社会学者が批判の対象なのか、反社会学講座には具体的な実例・実名が全くでてきません。特定の学者の具体例と実例を示さないと、説得力がありません。
 実例を出さないということは、存在しないことと同じであり、パオロ氏の主張は全く嘘になります。また、具体的な日本の社会学者の実名を出したら、その学者から非難を受けるのが怖いのだと類推できます。パオロ君は逃げているわけです。
 ニセ科学批判者は実例・具体例をだせとうるさく責め立てますが、ニセ科学批判者からすると、反社会学講座は嘘になります。
Commented by 社会学のドクターの者です at 2012-02-13 00:07 x
どこから語るべきなのかわからないけど…
宮台、パオロ、大塚、大澤…。論宅さんは学部生向けの「ヒョーロン社会学」はさっさとやめて、査読つきの論文誌読むなり、大学院に行ってきちんと社会学の正当教育を受けるなりすべきだったと思う。
うちの院だとパオロの「一般向け啓蒙書」は評判いいなw
たまーに検索でヒットするから論宅さんのブログ見るけど、「ああ、大学院で教育受けてない人だ」ってすぐわかる。院生レベルならみんなもそう思っていると思う。
誰か指摘してあげるべきだったと思う。だって何年も論述のレベルが上がってないよ…。昔は「なかなか勉強熱心な学部生、あるいは高校生だな」って思ったけど、ずっとそのレベルにいるんだもん。具体的指摘じゃなくてごめんなさい。でもほっとけなくて。
Commented by 社会学のドクターの者です at 2012-02-13 14:46 x
やってることは入門的な社会学理論の切り貼り。で、決めゼリフは「社会学的に誤りである」…。実際には社会学に関するコンセンサスなんて社会学者の間でも存在しない。そんなことじかに社会学者と話せばわかること。
ミクロ、マクロ、実証系、ポストモダン、カルスタ、構築主義…いっぱいあんのくらいわかるでしょ。論宅さんに社会学を代表する資格なんてないよ。
宮台を読んで社会学に憧れたのはいろんな文から伝わってくるけど、「論文で」(評論じゃないよ?ちゃんとした学術的論述だよ)彼の文を引用するような現役社会学者なんて、ほとんどいないよ?盛山和夫先生が批判的に引用してたのは見たけど。宮台さんは80年代にまっとうなアカデミックな業績を蓄積したうえで今みたいな評論を始めたわけ。最初から「啓蒙家宮台」になろうとしても宮台は超えられないよ。
最近宮台批判もしてるみたいだけど、論宅さんが社会学を名乗って彼を超えるには、まず院でも入って、着実にアカデミックな基盤を手に入れるべきだと思うよ。そして修士課程さらに博士課程に入れば匿名じゃなく「社会学者」を名乗れる。
Commented by 社会学のドクターの者です at 2012-02-13 15:01 x
パオロの記述を批判しているけど、あれは一般向け啓蒙書だからあれでいいんだよ。あれを批判する前に、論宅さん、あなたのほうが色々間違えている。このブログの文章全てそうなんだけど、引用の仕方、リファレンスのあげ方、大学院で社会学教育を受けたものなら全員が知っている基本的な形式をあなたは無視して書いてるんだよ?そんな形式のあることも知らなかったでしょう。それで社会学の教育を受けた者からすればあなたが大学院で教育受けていないのは分かっちゃうの。
もちろん、院で教育を受けてなかったら社会学を語っちゃいけないなんて馬鹿なことはないよ。でもあなたは社会学の名を語って色んな書き込みを公共の場に乗せているわけでしょ?それならもうちょっとしっかりしなきゃ。
Commented by merca at 2012-02-13 21:15
論宅です。社会学を社会学するのが私の立場ですので、残念ながら、あなたの批判は全て的外れになっています。私の立場は、メタ社会学ですので、そもそもあなたが学んでいる一般の社会学とは区別される次元にあります。修士課程、博士課程そのものも社会的に構築された装置であり、一つのレッテルにしかすぎません。自らの社会的立場を相対化できない社会学者は、社会学者の素養を欠きます。
 残念ながら私は宮台社会学を社会思想として評価しているのであって、科学として評価しているわけではありません。一人の偉大な社会思想家として尊敬しています。私の観点からすると、あなたの言説も一つの思想や価値観を露にしたものにしか映りません。冷めた視点かもしれませんが、それが私の立場です。修士課程、博士課程だから本当の社会学者というぬるま湯の思想によって自我が支えられています。社会学以前に学問の何たるかを学ぶべきでしょう。
Commented by 社会学のドクターの者です at 2012-02-15 19:27 x
>修士課程、博士課程だから本当の社会学者というぬるま湯の思想

まずこれに対する回答です。抽象度の異なるいくつかのレベルで回答します。

①「大学院に行ってから言いなさい」。大学院の実態を知らないなら語らないで欲しい。ぬるま湯?どこ大学の何学科?教員は誰?どの学生?どこの情報?仮にそこがダメだとしたら、それを大学院全体の現象として敷衍できる根拠は?そもそもぬるま湯の意味するところはな何?所在も所属も不明の匿名掲示板は「ぬるま湯」ではないの?「ぬるま湯ではないもの」とはなに?若年人口の減少、求められる査読論文の数、競争社会…大学院を巡る状況は厳しくなっていますが。大学院を「ぬるま湯」などという侮蔑的な用語を使うのですから、十分な根拠があるんでしょうね?上記のことに「具体的に」お答えくださいね。

Commented by 社会学のドクターの者です at 2012-02-15 19:28 x
②「そもそも大学院に本当の社会学は、いくつかの留保付きで、『ある』」。
社会学の「偉大な巨人」たちが大学の中で厳密に「Sociology」を制度化してきたからこそ、あなたの憧れの宮台さんなんかが大学で博士課程を取得でき、さらには「社会学者」の名を語って評論活動をし、あなたの本棚にも届けることができたの。もちろん大学院で「真の知」や「真の社会学」が「必ずしも」行われているわけではないが、その歴史的事実はお忘れなく。「大学院の社会学はウソ!大学の外にこそ『知』が存在している」というならば、以後大学院で学位を得た「社会学者」の権威によりかかって、ブログタイトルに「社会学」の名を掲げる必要もない。「社会学」の名を使わず「論宅学」とでもすればよろしい。新しい方の日記で書いてた「富永健一のような正統派社会学」のような文章も、実在論的であり、遂行矛盾の権威主義に等しい。
「社会学を社会学する」程度のメタ性なら、ブルデュー以前から、歴史社会学は言わずもがな、大学院内の制度化された社会学のなかで十分みんなやってる、てか理論史の基礎中の基礎。
Commented by 社会学のドクターの者です at 2012-02-15 20:04 x
③行為に関する素朴な実存還元論
>ぬるま湯の思想によって自我が支えられ

素朴な実存還元論。行為の因果性を実存に結びつけるのであれば厳密な論証が必要。それができないならレッテル張りに過ぎない。

④素朴相対主義、素朴構築主義
>修士課程、博士課程そのものも社会的に構築された装置

そんなのは百も承知。制度が構築物だなんて、社会学の基礎中の基礎。そういった構築主義的認識論が「真」であることと、我々の生活世界が構築物に過ぎないはずの諸規範に拘束されていることは独立して存在する。
Commented by 社会学のドクターの者です at 2012-02-15 20:27 x
そもそも大学院にのみ社会学的な知が存在し、それのみが正しい知の様態であるなんて、一言も言っていません。ゆえに「自らの社会的立場を相対化できない社会学者は、社会学者の素養を欠きます」というのは妥当ではない。


論宅さんはずーーーっと相対主義、構築主義を推してますね。
あなたのリベラルなとこ、差別を憎むところ、機能主義的なクールな視線など、共感するところは多いのよ。だけど、それはポストモダン的相対主義と構築主義の濫用だけじゃ、貫いていけない。
だからこそ、イーグルトンのポストモダン批判、ソーカルの「知の欺瞞」、宮台さんもよく引用する社会哲学(ロールズ等)やローティ流のプラグマティズムなんていう再帰的な「近代主義っぽい思想群」が出て来たっていう、社会思想的な流れもあります。メタ社会学を僭称するのであればこういったことを「痛いくらいに」踏まえるべきです。宮台口調真似たり、ルーマン引用する前にやることはたくさんある。
Commented by merca at 2012-02-15 23:35
論宅です。なかなかありがたいコメントです。
①について
 大学院ではなく、根拠はあなたの思想の中にあります。大学院がぬるま湯ではなくて、あなたの考え方、つまり大学院を出たら無条件に本当の社会学を習得できるという依存的な思想が問題であり、大学院生が全てぬるま湯とは言っていません。そのように間違って受けとめるというのはかえって引け目があり認知が歪んでいるからです。そもそも私のようなとるに足らない者を大学院かんたらで批判すること事態がその心理を露呈しています。
②について
 専門知を生産する学システムが大学院制度によって支えられていることは否定しませんし、大学院は必要だと思います。しかし、ここでも認知行動療法的にいうと、あなたの思考に過度の一般化が認められます。全ての大学院には本当の社会学はないというふうに私の主張を誤解して受けとめてしまっています。
Commented by merca at 2012-02-15 23:35
③行為に関する素朴な実存還元論について
 残念ながら、大学院にこだわり、大学院の存在意義を否定されると思うと怒りだすあなたを見ると、あなたの自我観念と大学院への所属が連動していると推論さぜるを得ません。日本をバカにされたら、日本人が怒るのと同じです。所属集団と自我観念の連動は、社会学でも普通によく語られることです。そもそも、大学院に行っていないとあなたが思い込んでいる私が社会学を語ることが許せなかったからこそあなたはコメントしてきたわけです。
④素朴相対主義、素朴構築主義について
 構築主義的認識論が「真」であるが故に、構築物に拘束されると同時に、構築物を再構成する過程も同時に存在します。構築物は変動していきますので、固定的に捉えすぎると、自己疎外に陥ります。社会的に構築された大学院という装置がいつまでも権威をもつとは限りません。
Commented by merca at 2012-02-15 23:39
 ただ、私もしっかりせいよと励ましをいただいたことは期待されているのだと受けとめています。
 おそらく、あなたが考えている社会学と私のそれが似ている部分があると考えられます。
 相対主義だけでは駄目だという気持ちは理解できますが、実際のところ本当に相対主義を克服されたのなら、社会学にこだわらなくていいので、色々と教えていただきたいです。構造構成主義のように、相対主義を前提にしてしか人間科学は成り立たないと私は考えます。
Commented by 社会学のドクターの者です at 2012-02-16 02:25 x
その①
もちろん、(多分)年上ぶって申し訳ないのですが、すごくあなたの事を応援しています。勉強熱心だと、感心して刺激を受けるところもあります。もし私が大学院という制度の権威を振りかざしているように感じたら、それは申し訳ない。それは私の書き方に問題がありました。もちろん勝手に私の内面を推測して論を進めていることは気になりますが、大学院はパーフェクトなシステムではないことは確かなので、まあよしとします。他にも色々反論はありますが、省略します。

 私も相対主義を前提にして構わないと思います。しかし「ポストモダン保守」なんて言葉もあるように、「真実がない」というときに、「ならば排外主義的ナショナリズムにコミットしてもいいじゃーん」となります…少なくとも形式論理的にはね。
 これを力強く食い止めることができるのか?私たちは「真実のなさ」に酩酊し、ただたじろぐのみなのか?私は食い止めたい。多分論宅さんも食い止めたい。北田暁大さんの発言をご存知ですか?「『なぜ人を殺してはいけないのか』という問いに、社会学者は関係論でしか説明してこなかった」と。
Commented by 社会学のドクターの者です at 2012-02-16 02:54 x
その②
宮台さんも「人を殺してはいけないではなく、『殺せない』のだ」という主張をしていました。これは典型的な関係論で、構造主義好きの社会学者らしい、まっとうな答えです。
しかし北田さんは「いや、やっぱり人を殺してはいけない」と、燦然と言ってのけたいのだ。少なくともそういった実践の契機を希求している。「『人を殺すのはよくない』と認めることは、認識論的な退却である」。こういった危うい現代思想的エートスを乗り越えたいのだと思う。
カントっぽく言うなら実践理性でもって純粋理性を乗り越えられるかってことになりますね。これは誰も解けない(笑)
近代を作り上げた人たちって、すくなくともエリート層は意外と自らの価値の虚構性に自覚的で、「あえて」それにコミットしているアイロニカルなタイプが多い。この強度、力強さを認識するのが大切かと。そしてポモも踏まえたうえで、カルスタのことも瑣末な文化論と疎外論に終始し、現実の差別構造を温存する役立たずの「文化左翼」として批判し、バリバリの「組合左翼」のほうがましと主張したローティなんかも参照になると思います。なーんて考えてみると近年の正義論ブームまでたどり着きましたね。
Commented by 社会学のドクターの者です at 2012-02-16 03:10 x
その③
私も私の考え方も論宅さんと似ている部分があるというか、共闘が可能だとも考えています。

最後に繰り返すと、「実践(理性)」や「正義」について、つきつめつきつめ考えてみること…これが論宅さんには重要かと思われます。自戒をこめてですが。
色々私もきついことも言ったけど、論宅さんはしぶとそうなので(笑)、それは才能があるということだと思います。応援しています。申し遅れましたが、回答してくれたことに感謝します。それではまた。
Commented by merca at 2012-02-18 22:01
論宅です。コメントありがとうございます。
 宮台氏が「人を殺してはいけないではなく、『殺せない』のだ」というふうに問題を別視点に切り替えた手法は、別の区別による再参入という相対化技法です。「人をなぜ殺していけないか」という設問そのものが原理的に回答不可能だという考えに基づいています。
 しかし、宮台氏のこの回答には一つの前提条件があります。「殺せない」ことが道徳意識(善悪)ではなく生理的反応(好悪)によるという暗黙の前提です。もし殺さないことが道徳意識からくるのなら瓦解する論理となります。道徳意識(特に西洋)はその正当性の根拠を必要とするからです。論理的には、殺せないのは、殺してはいけないと思うからという具合に、循環してしまいます。
 「人をなぜ殺していけないか」という設問つまり道徳に根拠をもとめる思考そのものが西洋社会(近代社会)の特有の道徳意識かと考えています。東洋社会では、道徳は実践されるもので、論理的に根拠づけられるものではないです。「人をなぜ殺していけないか」という疑問を人々がもつこと自体が近代化・西洋化している証拠だと思います。
Commented by merca at 2012-02-18 23:02
 ここで、私はレヴィナスの他者性倫理学に準拠して考えることにしています。レヴィナスによれば、他者の顔(他者性)と対峙することで「汝殺すことなかれ」という戒律が出現します。顔は殺すことができず、直ちに汝殺す事なかれと命じます。どこの社会でも、確かに殺人は起きています。しかし、殺人禁止の道徳規範が殺人を防止するというよりかは、他者と対峙して、殺人を思いとどまるのは、他者の顔から発せられる懇願です。顔との関係は倫理的関係であり、顔は殺すことができないものであり、「汝殺すことなかれ」というメッセージを発します。
 しばしば戦場で他国の人を殺せなかった兵士たちがいますが、顔と対峙したからではないでしょうか? 他者の顔(他者性)との関係性が殺人を戒め、不可能にします。殺人がいけいなという根拠を教えるよりも、ボランティアなどの実践を通じて、他者への倫理的な接し方を教えることが大切だと思います。
 また、事実として、「戦争における「人殺し」の心理学」なども参考となります。
http://www.geocities.jp/tillich1965/bookreview.grossman.html
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