世界社会と国民社会の区別


 ルーマンやボルツは、全体社会を国民社会ではなく、世界社会と考えているようである。全体社会とは、自給自足的で包括的な社会の単位である。この点、デュルケームやパソーンズなどと区別しておく必要がある。グローバリゼーションを考えるまでもなく、社会をコミュニケーションの総体として捉える立場からは、それは必然的な論理的帰結となる。
 また、ボルツが指摘するように、距離が離れているかどうかに関係なく、いつでも連絡さえつけばコミュニケーションは接続可能となる。世界社会を考えるポイントとして、(連絡可能/連絡不可能)という区別は大きい。
 確かに階層分化が優位な時代では、階層分化の範囲は国民社会や民族社会の範囲と重なり、国民社会が単位となると考えられるが、高度に機能分化した社会では国民社会の範囲を超えてくる。
 例えば、経済システムは、(支払う/支払わない)というコードで創発するコミュニケーションであるが、そのようなコミュニケーションは国民社会を越えている。市場は国民社会を越えている。
 
 しかし、近代化は、国民国家が誕生し、国民社会の内部で生ずるというのが常識である。機能分化も、国民社会の内部における分化から始まったはずである。法、政治、経済、教育、医療、福祉などの社会各部門がゲゼルシャフト組織によって合理的に機能遂行されるようになった。やはり国民社会や国民社会の代表機関である国家という単位がなければ、近代化は不可能であったと言わざるを得ない。小林よしのりがその点に敏感であり、国民社会及び国家とそれを支える神話を絶対化しようとしている。
 今、学者や知識人による格差社会論が流行っているが、これも日本社会という国民社会を対象として論じている。学問的に「社会」を論ずる場合、多くは国民社会のことを指している。例えば、湯浅氏の反貧困論についても、日本社会という国民社会単位での話であり、アジア・アフリカ諸国の貧困と比べられば、日本が貧困であるとは到底言えなくなる。湯浅氏の反貧困の盲点は、(国民社会である/国民社会でない)という区別である。これについては、以前、別のエントリーで取り上げた。小林よしのりから湯浅氏に至るまで、国民社会という単位に準拠し、自己の思想を形成しているのである。
 以上のように、社会とは、究極的には世界社会であるというルーマンの理論、思想は特異であり、微妙である。もとより、ルーマンが提示した各機能システムのコードには、(国民社会である/国民社会でない)を前提にするという縛りはない。議論する際に、我々が暗黙に前提にしているにすぎない。社会学を社会学する際に、その社会学者や思想家の理論や思想を(世界社会/国民社会) という区別で観察してみよう。議論のすれ違いを観察できるに違いない。

 参考
 ボルツのポストモダン社会論は、ポストモダン化が進むと、全体社会が国民社会から世界社会に移行するというふうに読み取れる。国民社会内部での機能分化した各システムが国民社会という枠をはみ出でくるということを意味していると考えられる。国民社会の消滅=ポストモダン社会という解釈は面白い。柄谷行人の帝国主義論や世界共和国論と対峙させたい。

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by merca | 2010-01-17 10:26 | 理論
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