宗教が処理する領域=世界の根源的偶然性

 宗教は、物理世界や社会世界を対象とするのてばなく、世界の根源的偶然性を対象とする。この領域は決して科学の対象にはならない。

当ブログ「科学で扱えない領域について」より抜粋 
 「社会学では、世界の根源的偶然性については、科学の対象外であり、宗教のみが処理することが可能だと考える。世界の根源的偶然性とは、例えばこういうことである。交通事故にあってある人間が死んだとする。死亡の原因は科学的(医学的)には説明がつく。しかし、なぜこの人だけがたまたま交通事故にあって死なないといけないのかという原因はなく、偶然だとしかいいようがない。
 また、なぜ私は奴隷の身分で生まれてきたのだろうかと思う人がいたとする。しかし、その原因はなく、偶然としか言いようがない。この偶然性は、反証不可能であり、科学の扱うべき対象ではない。
 また、熱量の法則や質量保存の法則など、自然科学が発見した法則があるが、その法則自体が存在すること自体は原因がなく、偶然である。
 社会や人間は、このような世界の偶然性を未処理のままにしておくことができず、何らかの解釈や物語をつくりだす。それが宗教である。輪廻転生や神の存在である。

 スピリチュアルも占いも、この世界の根源的偶然性を処理するために物語をつくることが役目となる。世界の根源的偶然性を処理する社会的装置を宗教(スピリチュアル、占いも含む)と呼ぶのなら、宗教はなくならない。病気の科学的(医学的)説明の他に、人はたまたまなぜ私だけが病気になったのかという説明を求める。宗教が提供する物語(神が与えた宿命、自己の前世の因縁等)によって処理し、無害化する。
 
 ポイントは、この場合、科学的説明と宗教的説明は、なんら矛盾しないことである。というのも、一つの出来事に対する別の側面を対象としているからである。科学は「いかにして」という説明に答え、宗教は「なぜ」という説明に答えているからである。病気になった人は、医学的治療を受け続けつつも、宗教によって提供された物語で癒されるのである。問題は、この二つの真理を対立的に捉えたり、一方を優れているとする未熟な思考である。
 
 おそらく、スピリチュアルを批判するニセ科学批判者は、一つの出来事に二つの問い方があることを理解できず、スピリチュアルの真理をインチキ=嘘と呼んでいるのである。スピリチュアルが世界の根源的偶然性を適切に処理し、癒しをもたらす限り、有害にはならないのである。何度もいうが、世界の根源的偶然性については真偽のコードからは観察不可能なのであり、そもそもインチキだと見なすのは、カテゴリーの混同である。
 もし有害だとしたら、宗教の領域を科学的に判断する場合と、科学の領域を宗教的に判断する場合である。江原氏の発言を見る限り、科学を否定していないどころか、病気治療には医学が必要であるというなど、科学を肯定している。非常に寛容であり、すみ分けができており、成熟した思考である。
 
 むしろ宗教の領域を科学的に判断して真偽の区別をつけようとするニセ科学批判者の方が有害かもしれないのである。医学的治療も受けつつも、神仏に祈っている不治の病の人に対して、祈りで病気が治るというのは科学的事実でないからやめろと言うのと同じである。あるいは、不治の病になった人に病気が治るように祈願して与えたお守りを踏みつけるのと同じ行為である。祈ることが励みとなり、治療意欲が湧いている患者に対して、マイナスの効果になるのである。

    参考
 自然科学はいかにしてを説明するが、なぜを説明することはできないのである。ちなみに、人間の行為については、「なぜ」=「動機」から説明することは可能である。社会学は社会的行為を扱うために、なぜについては目的-手段で解釈し、社会を解明する。外からではなく、対象に動機を直接問うことができる社会学は自然科学よりも、真理到達については優遇されているのである。ある意味、はなから対象と認識が一体となった状態からスタートできるからである。

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by merca | 2010-02-07 22:07 | ニセ科学批判批判
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