いじめの処方箋としての相対主義

 何か全体=関係がまず一次的に存在しており、その後から要素としての各項が二次的に存在するという考え方がある。これを関係主義、あるいは関係の第一次性と呼ぶ。
 関係主義的社会観においては、行為あるいはコミュニケーションはあらかじめ全体的関係の中で規定されており、選択の自由はないものとなり、社会病理に至る。社会学者内藤朝雄のいじめ理論は、この立場から分析している。
 
 いじめは、仲間集団のノリという全体的な場の雰囲気から逸脱しないために創発されたコミュニケーションシステムであり、場に参加する個々の成員の独自の自己選択性は、逸脱による制裁を恐れて、大きな制限を受けることになる。そのために、個々の参加者にいじめの自己責任感覚はない。
 制裁を予期し参加者の自由な自己選択性を制限することで、(いじめる/いじめない)というコードに準拠したコミュニケーションしか連接させないわけである。そこで、自由な自己選択性を制限するシステム作動条件の粉砕こそがいじめの問題への対応策となる。なので、内藤氏は、いじめシステムの作動条件である、中間集団全体主義というマクロ社会環境にメスを入れる。
 
 何が言いたかったというと、自己選択性を制限する要因=システム作動条件として、他者一般(仲間)からの制裁と報酬の予期が各個人の価値観とは関係なく、機能することで、集団秩序が発生するということである。パーソンズなどは、各個人が所有する共通の価値規範によって、秩序が発生すると考えたが、それがなくても秩序は発生するのである。
 いじめ集団に参加する個々人は、いじめ反対の価値観=「人をいじめるのは嫌だ」をもっていても、集合的制裁を恐れて、いじめ集団に加担するわけであり、集団秩序発生は個々人の価値観とは全く関係ないことになる。つまり、異なる価値規範を所有している人間どうしでも、共通の制裁と報酬の予期構造を共有することで、秩序は発生する。言い換えれば、個々人の実現可能な選択肢が、制裁と報酬の予期構造によって制限されることで、集団秩序が発生するのである。少なくとも、これは、理論社会学的には論証できなくても、臨床社会学的には、実証できる事実である。
 
 価値規範の共有ではなく、予期の構造の共有こそが、システム維持=秩序発生の源ではないかと考えるわけである。従って、人権道徳教育で個々人の価値規範を変革しても、いじめはなくならない。なぜなら、いじめは、個々人の内面化している価値観や道徳観念とは別次元で生ずる集団社会現象であるからである。
 
 いじめ集団特有の「制裁と報酬の予期構造」を破壊することで、いじめ秩序は崩壊するのである。いじめ撲滅は、集団破壊と同じなのである。

 確かに、仏教的にいうと、一切の存在は関係の中にあり、関係なしにはあり得ない。しかし、一つの限定された関係に閉じ込められ、異なる他の関係を選択できないところ問題がある。仏教の無常の公理からは、関係それ自体も無常であり、変化していくはずである。
 関係の制限性=関係の実体化を否定する関係の自己選択性こそがキーワードになるであろう。関係そのものも空なのであり、関係項を離れて実体化できる絶対的関係=全体者はない。一つの関係(社会観)を絶対化、実体化、固定化することで、社会病理現象は発生する。
 
 子供とっては、仲間集団が世界の全てとなり、絶対化、全体化してしまっているのである。もっと他の世界を生きることができることを示し、関係を相対化することが必要なのである。相対主義はいじめの処方箋になるのである。

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by merca | 2010-05-15 09:53 | 理論
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