反貧困思想は、努力主義を否定する。

 貧困の原因は社会にあると考える反貧困思想からすると、当然のごとく、富裕の原因も社会にあることになる。つまり、貧富格差は、社会に原因があり、貧困も富裕も、自己責任ではないというのである。
 一流企業の役員、医者、高級官僚たち、タレント、スポーツ選手など、これらの高給の人々は、みんな自己の努力の結果ではなく、たまたま社会の恩恵にあずかって裕福な生活をしているだけということになる。自己選択に基づく自己の努力の結果によって裕福になったわけではないことになる。反貧困思想からすると、必死に勉強して東大に入り裁判官や医者になった青年も、下積み生活を忍しんで成功した漫才師も、日々の激しい練習に耐えて技術を磨いてきたプロ野球選手も、みんな本人の努力の結果で、裕福になったわけではないことになる。
 
 貧困の社会的原因のみならず、裕福の社会的原因も分析して、はじめて貧富格差の社会原因説は完成する。反貧困思想が、社会科学的に富裕の社会的原因を精緻に分析しているとは思えない。
 それはともかく、貧富格差を、自己責任ではなく、社会責任に求める理論は、全て努力主義的価値観と衝突する。自分の為した行為の結果が自分の社会的地位を決定するということがないのなら(要するに努力しても社会的に報われないのなら)、努力は不必要となるからである。

 個人の才能、勤勉、努力と貧富格差が無関係であるという説は、次のような社会哲学的前提に基礎付けられている。それは、たまたま生まれ落ちた社会がある特定の才能、勤勉、努力が生み出す成果を高く評価する社会であるからだという考えである。例えば、野球のない社会では、野球が出来ても裕福にはなれないわけだから、ブロ野球選手は単に野球のある社会の恩恵によって裕福になっているだけの話なのである。また、未開社会に生まれたら、いくら頭がよくても腕力がないと獲物をとることができず餓死するわけであり、腕力のない学者が高給を得ることができるのは、現代社会のシステムの恩恵に授かっているだけである。
 このように、生まれ落ちた社会の価値基準によって、貧富格差が決定されるわけである。つまり、人間は生まれてくる社会を自己選択できないという意味において、個々人の貧富格差(社会的資源の差別的分配)は自己責任ではないというのである。これを社会的生の根源的偶然性と呼ぼう。
 そして、社会的生の根源的偶然性=所属社会の自己選択不可能性は、人々に一定の不条理観を与えることになる。その結果、社会を悪とし、社会を変革しなければならないと考えだす。それが社会思想である。マルクス主義や反貧困思想もその一つにしかすぎない。社会思想は、社会的生の根源的偶然性が生み出す不条理を解消する社会変革計画を打ち出すことで、不条理を強いられる人々を解放しようとする。

 確かに、貧富の格差は、社会哲学的には根源的に偶然であり、自己選択性や自己責任とは無関係であるように見えるが、社会学的には自己選択性や自己責任として観察するほうが科学的であることを次の記事で述べたいと思う。
 つまり、貧富格差の社会原因説をとるよりも、貧富の差の自己原因説をとるほうが、明らかに社会学的、科学的であることを論証したい。
 浅学のブロガーたちは、貧富格差の社会原因の探求こそが社会学の役割だと勘違いしているようである。実は、事態は全く逆であり、貧富格差の自己責任論・自己原因論こそが社会学の立場であることを明かそうと思う。

 ひとまず、ここでは、反貧困思想が努力主義を否定する思想であることを確認しておくこととする。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2010-05-29 22:25 | 社会分析
<< 貧富格差の自己責任説=自業自得... いじめの処方箋としての相対主義 >>