貧困の自己責任説の根拠=ハビトゥス


 貧困の自己責任説は、ブルデューのハビトゥス論から説明がつく。ハビトゥスとは、社会階級ごとに人々に身体感覚として埋め込まれた習慣=心的傾向性であり、個人の自己選択の前提=選択肢の範囲を形成する機能を持つ。例えば、上流階級の子息は、音楽についてはロックよりもクラシックを選択する。下層階級で育った若者は、医者や弁護士になろうとは思わず、工員や土木作業員になろうとする。自分が希望する物事が、社会階級ごとに家族を通して植え付けられた文化的遺伝子たるハビトゥスによって無意識に決定されているというのである。
 
 しかし、だからといって、個々人は社会からの拘束や強制を感じているわけではない。当事者たちにとっては、それが自身の本当の希望であり、自己選択だと感じているのである。希望格差社会論を唱える学者がいるが、実はハビトゥスによって希望格差が生じているのである。人の社会的行為の規則性や秩序も、社会的賞罰があるからではなく、ハビトゥスによる習慣的行動の結果なのである。
 重要な点は、ハビトゥスは個人の内部に内面化した性質であり、個人の外部にある国民社会や国家ではないということである。従って、論理的かつ法的には、ハビトゥスが自己選択に作用しているとしても、それは自己責任であり、社会や国家の責任ではない。ハビトゥスは個人が所有する文化的遺伝子であり、個人の一部なのである。
 例えば、ハビトゥスの作用で結婚相手も無意識に所属階級が同一の異性から選択するわけであるが、結婚した当人にあなたの自由意志で結婚したのではないと言い放つと違和感をもたれるであろう。誰もが結婚相手は自由意志で選択した思っているわけである。当事者的には自由意志で行為したと思っているわけであるし、実際、ハビトゥスは個人に内面化したものであり、事実的には個人に原因がある。溜めのない貧困な下層階級の家庭を再生産してしまうのも、配偶者選択の原理がハビトゥスにおける自己選択が働いているからである。
 逆説的であるが、貧富の差を生み出すのは、ハビトゥスに限定された個々人の自己選択の結果なのである。
 
 高度経済成長期の日本社会では、「いい学校、いい会社、いい人生」という文化的目標をハビトゥスに抗して、異なる全ての社会階級に共通に強制された時代があった。その結果、農村から都市への大移動があり、経済が発展した。多くの人たちが、自己の所有するハビトゥスと異なる価値規範を強制され、受験戦争を強いられた。なぜ勉強しないといけないのだと疑問を抱いた若者が多く出て来た。社会が個人を束縛するものとして若者に映った時代である。近代化の過程で必ず起こる意識である。
 皮肉なことに、ハビトゥスではなく、ハビトゥスを否定する価値規範こそが個人に社会的束縛感をもたらすのである。自己を束縛する社会的事実=学歴社会こそが、本来の意味で自己を社会的宿業から解放するものであることに気づいていた若者はいたであろうか?
 いずれにしろ、どんな社会階級の家族のもとに生まれるかは自己決定の外であり、本人の原因ではない。また、社会の原因でもない。この不平等は単なる偶然である。
 
 しかし、少なくとも、事実的かつ実体的には、貧富の差の原因と責任は、社会にあるのではなく、個人が内面化したハビトゥスを前提にした自己選択にあるのである。ハビトゥスによって、湯浅氏のいう溜の量も規定されるのである。社会からの解放ではなく、自己の社会的宿業からの解放こそが、貧困からの解脱につながるのである。

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by merca | 2010-06-13 11:31 | 社会分析
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