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資本の運用が貧富の差をつくる。

 資本は、収入や財産などの経済資本、学歴や資格や教養などの文化資本、人脈や社会的信頼などの社会(関係)資本の三種類に分けることができる。一般に、これらの資本が多いほど、豊かな社会生活を送ることができる。経済資本、文化資本、社会資本は、それぞれ互いに変換性をもつ。お金があれば、塾に通うことができ、高学歴という文化資本に変換できる。また、高学歴で医者や弁護士などに就職すると、高収入という経済資本を得ることができる。また、社会資本が多ければ、商売でも人脈を使用し、顧客を得ることができ、儲かることになり、経済資本を蓄積できる。
 
 これらの資本は、社会階層ごとに不平等に分配されており、下層ほど資本が少ないということになる。例えば、病気で失業しても、資本を多く所有する上層の人たちは、失業期間は貯蓄でまかない、最新の治療を受けて病気を治し、人脈と学歴を使用してすぐに就職ができ、豊かな生活を送ることができる。
 ところが、資本が少ない下層の人たちは、病気で失業すると、失業期間中でも食べることに困り、求職しても低学歴のために見つからず、そのうち家賃も支払えず、さらに生活保護受給の窓口と手続の知識も知らないためにホームレス化する。湯浅氏のいう溜めとは、ここでいう資本のことである。そして、資本を不平等に分配する格差社会を批判する。
 
 ところで、当たり前のことであるが、資本は所有するだけでは機能しない。所有しているだけでは、宝の持ち腐れである。お金をもっていても、使用しなければ、飢え死にする。人脈も学歴も使用しなくては、意味がない。資本の使用権限は、誰にあるのか? もちろん、使用権限は、その所有者である個人にある。個人が自己の所有する資本を使用する場面を自己選択するわけである。
 どんな社会的状況でも、資本の使用が有効であるわけではない。外国に行くと、自国の文化資本や社会資本はあまり役に立たない。経済資本が役に立つのである。資本といっても、特定の国民社会の中でのみ、資本たり得るわけであり、有効である。
 (使用する/使用しない)という区別に準拠して観察すると、資本は使用されている時のみ、社会的機能を発揮するのである。究極的に資本を使用するかしないかは、個人の自己選択に帰着することになる。極端な話し、自己の所有する資本=お金を使用しないのなら、いくら金持ちでも、失業すると、ホームレスになるのである。
 どのような社会的場面で、どのようなかたちで資本を使用するのが適切なのか判断する知恵=社会学的啓蒙があって、はじめて資本は適切に機能する。ブルーワーカーの職業では学歴はあまり役に立たない。高学歴なのに、組織労働の伴う事務労働を嫌い、単純な肉体労働を選択し、その結果、重労働で体を壊して失業し、貧困化したら、これは自己責任である。また、低学歴なのに、選り好みして、公務員や事務労働ばかりを希望し、就職できないままいるひきこもり系ニートが貧困化した場合も、自己の資本の見積もりを間違って使用しているので、自己責任である。

 このように自己の所有する資本を適切に使用できない責任は、社会ではなく、個人にあるのである。社会を変えるよりも、貧困化している若者に対しては、所有資本の正確な見積もりと、その使用の仕方について、教えていくことが必要である。資本が乏しいと嘆く前に、資本の認識と使用方法について吟味し、資本を増やすことを心がけてはと思う次第である。資本の自己管理と適切な使用、それに資本の増加について、努力していない若者が貧困になっていることはないであろうか?
資本が少ない貧困な家庭からも、資産家になった人たちはいくらでもいるのである。これらの成功者は、資本の運用について優れているのである。
 資本の運用こそが貧富の差をつくる原因であり、それは個人の自己選択の結果によるのである。社会を変える前に、溜め=資本の運用についての知識=社会学的啓蒙を学ぶべきである。

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by merca | 2010-06-13 23:50 | 社会分析
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