県民性性格判断はニセ科学批判を越える。

 県民性性格判断が流行っている。県民性性格判断とは、異なる地域社会=県に育った人間は、異なる性格傾向や行動傾向を有するという仮説である。東京と大阪で育った人間が異なる文化を身につけ、異なる行動様式を身につけていることはよく指摘される。そもそも、言葉が違っており、思考形態が異なるのかもしれない。血液型性格判断はニセ科学かもしれないが、県民性性格判断は、社会学理論と実に適合的である。
 社会学では、人間は社会によって共通の価値観や規範を埋め込まれ、行為すると考える。パーソンズ社会学は、それを精緻に分析し、理論化している。また、ブルデューのハビトゥス論も育った社会によって人の趣味や嗜好が異なることを理論化している。いずれにしろ、社会学のこれまでの知識体系と、県民性性格判断は矛盾しない。県民性性格判断は、社会学で言うところの人間の社会化という事実に理論的根拠をもっている。育った社会が異なれば、異なる性格と行動になるというのは、社会学的には真理である。
 
 ただし、県民性がアイデンティティとして強く意識されると、異なる局面を迎える。例えば、大阪人は大阪人らしく何事に関しても笑いをとらなければならないということが規範化され、それを演じるように作用するようになるのである。本当は静かにしたい大阪人も、大阪人として振る舞うことを強いられ、東京人に対して無理に笑いをとろうとするようになる。このような大阪人をよく見かける。他県民の前で、自己の県民性を演じる義務を負うことになるのである。県民性が過度に誇張され、過剰役割意識となるのである。こうなると、社会化ではなく、物語化となる。大阪人はいつでも漫才師のように笑いをとるということが、育った環境というよりも、そのようなアイデンティティ物語を所有していることで、本当にそうなるのである。
 
 さて、ここで鋭い人ならもうお分かりだろう。所謂、社会学でいう予言の自己成就が起こっているのである。大阪人は笑いをとるという県民性性格判断そのものが、大阪人をして笑いを取るようにしむけ、本当になるのである。
 そうなると、もともとあった地域社会での社会化のせいで県民性ができたのか、それとも県民性性格判断が流行ったせいで県民性がつくられたのか、区別ができなくなるし、実際上は区別しても意味がなくなるのである。ウソ(対象と認識の不一致)が本当(対象と認識の一致)になり、ウソと本当の区別が無効になるのが、社会学上の真理であり、自然科学とは全く異なる原理で社会は観察されなければならないのである。当初、デタラメであった一部の県民性性格判断も、流行れば事実になるのである。
 
 これと全く同じで、脱社会性やニートという若者概念も、それが流行り、若者が自らのアイデンティティとして採用すると、本当にそうなるのである。宮台社会学における若者概念も、それが流布し、大人たちが若者に対して使用し始めると、両者の相互作用の結果、若者に内面化・規範化され、本当にそうなるのである。学習障害や人格障害やアドルトチルドレンなどの精神医学的あるいは心理学的レッテルも、流行って内面化されれば、本当にそうなるのである。単純な実証主義は社会には通用しない。実演主義のみが社会的真理を獲得するのである。
 
 ニセが本当になる社会科学の世界において、ニセ(社会)科学などは存在しないし、無意味である。その意味において、ニセ科学批判は自然科学のみに限定するというニセ科学批判者天羽氏の姿勢は極めて正しいのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
   
[PR]
by merca | 2010-07-13 00:04 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)
<< 思想化するニセ科学批判 社会変革福祉集団ほっとポットに... >>