知性発展段階説

 相対主義の問題については、実はかなり前から以下の説=知性発展段階説のように私は捉えている。あまりにも難解なことなので、あえて単純な相対主義の立場をとっていたし、現状ではそれが適切だと判断していたのである。
 情報学ブログさんが色々と誤解している節がある。(意図的に誤解していただき、議論を発展させたいのだと思うことに期待) しかし、なかなかおもろしい議論なのでのってみよう。単純な相対主義とそうでない相対主義の区別を明確化しておく必要があるからである。天台仏教にアイディアがあるが、人間の知性は次のような段階で発展すると私は考えている。

1 有見=素朴実在論
 認識できる現象には全て実体があり、存在するものの根拠=底があるという考え方。素朴実在論がそれにあたる。我々の日常的思考である。日常生活を円滑におくる上で、必要な思考である。真理の対応説をとる。科学も基本的には、この立場であると考えられる。
 しかし、このものの見方にこだわり、相対的な現象を永遠不変な実体であると思い込み、それに執着すると、我着となり。苦が生ずる。
 
2 空観=単純相対主義
 一切の事物は、つくれたものであり、無常であり、固定的な実体がなく、相対的であると悟るものの見方である。仏教では空の思想と呼ばれる。現代風にいうと、底が抜けているということである。真理や道徳に絶対的で固定的な基準自体などなく、底が抜けていると考えるわけである。所謂、相対主義である。老荘思想や社会構成主義などがこの立場に入る。
 ただし、空観も、これを絶対化すると、一切が無意味だというニヒリズムに陥る。世界にある全ての思想を絶対的でなく、相対化して否定するだけであり、何も現実に選択できなくなるからである。生きるとは価値判断の連続であり、何かを選択することなしには生きていくことができないのである。仏教でも、空観=単純相対主義が悪しき場合には、無見と呼ばれることになる。私がこの立場に陥っていると情報学さんは思っている。
  
3 仮観=相対主義の相対化
 一切の現象には固定的な実体がなく、構成されたものであるが、その都度、現実に差別相をもって現象は立ち現れており、全くの無ではない。従って、やみくもに事物を相対化して否定するのではなく、状況に応じて選択していくことが求められる。仮観とは、固定的なものの見方をせず、その都度、適切なことを判断していく立場である。胃が悪い人には胃薬を、目が悪い人には目薬を与えるわけである。胃薬も目薬も同じであると相対化し、胃の悪い人に目薬を与えては間違いとなる。現実の差別相を観察し、目的に応じた適切な選択をとるのである。
 この立場は、相対主義の相対化と呼ばれるものである。例えば、現代社会においては、民主主義には絶対的な正しさはないと悟りつつも、あえて民主主義を採用しているわけである。宮台真司が、「民主主義の不可避性と不可能性」」という主張をしているがそれにあたる。ポストモダン社会においては、絶対的なものはないと知りつつも、あえて現実を生きるために仮に民主主義のような相対的なものであっても、目的に応じて選択していくことが求められるというのである。
ちなみに構造構成主義は、相対主義そのものを前提として、全ての科学の統合を目指そうとしているわけであり、この段階の思想である。
 宮台流の「あえて主義」については、このブログでも何度も論じて来た。情報学ブログさんも、この段階の思想であり、自らは相対主義ではないと言っているのである。そして、情報学ブログさんは、おそらく私の思想を空観の相対主義だと見なし、自己とは異なると考えている。
 情報学ブログさんが悪しき相対主義に陥らず、科学を肯定的に捉えようとする態度に表れている。ただし、科学を仮に肯定する究極目的は明かしていないように思われる。時と場合によっては、科学を批判し、ニセ科学を肯定するおそれがあるので、ニセ科学批判者が気味悪がっているのだと思う。
 ニーチェの積極的ニヒリズムもこの段階の思想かと思われるが、肯定するための目的が不明確であるため、結果として、悪しき相対主義と変わらない。
 仏教では、この立場が悪しきものになると、亦有亦無見と呼ばれることになる。

4 中道第一義観=関係主義 
 これは、全てのものには、実体がなく、底が抜けているというものの見方=空観(相対主義)と、それでもあえて状況に応じて現実に選択していくことが必要であるというものの見方=仮観(相対主義の相対化)が、互いに依存しあっているとするものの見方である。
 仮観だけならば、現実を選択肯定するだけで終わってしまう。しかし、選択においては何かを肯定することが常に別の何かを否定することをともなっていることを悟る必要がある。あえて何かを選択することは、あえて別の何かを否定することを伴う。肯定することだけに目が奪われ、この否定の側面=相対化の側面が見落とされると、不十分となる。あえて民主主義や科学を選択することは、それ以外のものの仮の相対化を伴う。
 いずれにしろ、これまで述べてきた全ての知性の段階は、バラバラに存在するのではなく、つながっており、関係し合っている。その関係性を深く認識し、なぜ人がそのようなものの見方に陥るのか観察していくことが求められるのである。

 平和のためには、単純な相対主義をあえて選択したほうがいいというのが、私の立場である。
 また、私は、ニセ科学批判者や科学主義者などの原理主義者にはあえて単純な相対主義で対応しておいた方が適切であると選択している。その理由は、原理主義者は自己の主張を究極のところで絶対化しているからである。この我着=絶対主義を否定しておかなくては、次の段階の思想に進めないのである。徹底的な相対化を経ないと、知性は後退したままになるのである。相対主義も方便であり、人を見て法を説けということである。

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by merca | 2010-09-05 03:37 | 理論
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