社会学玄論講義 相対化作法の類型1

相対化作法の類型1
 
 他者の説を相対化する作法を相対主義と定義するのなら、相対主義は色々な種類が存在する。それについて説明していきたい。
 さて、黒木玄さんの相対主義に関する見解が掲載されている以下のHPがある。
  http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html#absolutism
 しかし、実はこれはかなり古すぎる考えであり、相対主義についての見解として単純・凡庸すぎる。認識と価値に区別して相対主義を分類する方法は、単純すぎる。他にも、別の区別に準拠して相対主義を考える必要がある。多くのニセ科学批判者は、相対主義の種類が単に認識論的相対主義と価値論的相対主義の二つしかないと考えており、相対主義について深く思索してきた人文系の研究者にとっては、全く話にならないのである。
 
(認識論的相対主義)
 まず、認識論的相対主義の基本を押さえておこう。このタイプの相対主義は、事実(真理)は一つという考え方は間違っており、認識方法が異なると対象は異なって認識されるので事実は複数存在しており、一つの認識方法に基づいた知識のみが正しいと考えるのは、間違いであるとして、他説を相対化する。例えば、同一対象についての科学的認識も宗教的認識も、どちらか一方のみが正しいのではなく、どちらも正しく、平等であると相対化する。進化論も創造論も同等の正しさがあると考えるわけである。同一の対象に矛盾した認識があっても、どちらも正しいとして肯定する。認識論的相対主義者という視点から観察すると、自己の認識のみが正しく他説は正しくないと否定する科学主義者やニセ科学批判者は、自説を他と比べて特別化・絶対化しているので、絶対主義者として観察されてしまう。言い換えると、事実は一つであり、他説は間違っていると堂々と批判するニセ科学批判者は、認識論的絶対主義ということになる。認識論的絶対主義の否定が認識論的相対主義である。
まとめると、次のようになる。

認識論的絶対主義・・・一つの対象についての事実は一つであり、正しい認識方法は一つしかない。暗黙に、対象が単相的・全体的であることを前提としている。
 
認識論的相対主義・・・一つの対象についての事実は複数であり、複数の異なる認識方法のどれも正しい。暗黙に、対象が複相的・部分的であるとことを前提としている。異なる認識方法は、対象の異なる部分を観察していると考えているのである。

 認識論的絶対主義も認識論的相対主義も、別の区別から観察すると、同一の観念であると観察できる。それは、いずれも真理の対応説に準拠しているからである。どちらの主義も、真理は対象と認識の一致という考えを採用している。この前提を共有していることについて、両者は盲目である。

(機能的等価主義)
 これは、ある目的(あるいは意味)から観察すると、異なる知識や思想であっても、手段=機能として同一であるとし、相対化する方法である。例えば、仏教もキリスト教も、人々に死生観を与えて生きる意味を提供するという点においては、同一の機能を有することになる。教義内容は全く異なるが、生きる意味の提供という目的からすると、同一であり、どちらも正しく、互いに否定しあう必要もなく、対等である。信教の自由なので個人の選択まかせればよい。
 また、人々に科学こそが現代社会においてもっとも信頼できる正しい知識であると流布する目的(科学のイデオロギー化という目的)から観察すると、ニセ科学もニセ科学批判も、機能的等価である。この観点からすると、ニセ科学もニセ科学批判も目くそ鼻くそを笑う関係であり、ともに科学主義として観察されることになる。
 この観察点から最初に記事を書いたので、目くじらを立てて、菊池氏や天羽氏が私のブログに殴り込みに来た。つまり、科学こそが現代社会においてもっとも信頼できる正しい知識とその獲得方法であるという前提をニセ科学もニセ科学批判も共有していることに、盲目であることを指摘したら、怒って来たのである。ちなみに、ニセ科学とニセ科学批判が機能的に等価であるという視点は他にも多くある。(思想としての機能とか・・・)
 とにかく、あくまで特定の視点に立ったら、ニセ科学とニセ科学批判が相対化されてしまうことを理解できなかったようである。もちろん、他の視点から観察をすると、ニセ科学とニセ科学批判は差別化されると思われる。私は社会学の立場にたち、社会学的の視点(イデオロギー論的視点、知識社会学的視点)を選択化しているだけであり、絶対化しているわけではないのに、絶対化していると菊池氏は勘違いな反応をしてきたが、ナンセンスなので、あえて答えなかったを覚えている。
 このように機能的等価主義とは、特定の視点や目的から観察することで、異なるものを同一視して相対化する手法なのである。ただ、これと反対の作法である機能的不等価主義もあり、異なるものの中から一つのだけを絶対化する作法も理念としては考えられる。例えば、科学の公準などに含まれる実証性という点からは、科学は他の知識体系よりも優れており、絶対化されることになる。しかし、これも一つの観点にすぎないのに、ニセ科学批判者は他者に押し付けることで絶対化している。ニセ科学批判者は一つの観点を固定化し、それを他者にも共有することを強制し、相手を説得にかかる傾向にあるので、要注意である。
 正しい視点はあり得ないが、仮に同一の視点を共有することで、議論の正否は確定できるという穏健な態度を理解できていないので、ニセ科学批判者はコミュニケーションで摩擦が起きているのである。
やはり、コミュニケーション形式を観察すると、全てのニセ科学批判者は、自己の視点のみを他者に押し付けて正当化する原理主義者である。
 究極のメタな視点=神の視点が存在しなく、基本的には異なる全ての視点が平等であるという相対主義を機能的等価主義は前提としている。

     続く

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by merca | 2010-09-11 12:25 | 理論
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