社会学玄論講義 相対化作法の類型5

 (別の区別の再参入)
 自己言及のパラドックスは、相手の言説が準拠する(相対/絶対)、(原因/結果)、(目的/手段)、(真/偽)、(善/悪)などの区別を暴露し、同じ区別を自己適用させることで、決定不可能な自己矛盾を指摘し、否定に追い込む方法であったが、それとは逆に、相手の言説が準拠する区別とは全く異なる区別を投入することで、相手の言説を相対化するとともに、コミュニケーションの契機として取り入れていく手法がある。それが、別の区別の再参入である。つまり、相手の言説を別の区別に準拠する観察点から観察し、コミュニケーションを連接さていくということである。相手の言説は別の意味に変容されることで相対化されるものの、コミュニケーションの中に別のかたちで生かされていくのである。
 これは、自己言及のパラドックスに陥り、コミュニケーションが行き詰まった時に、脱パラドックス化の手段として使用することもできる。
 
 宮台真司が、殺人がなぜ悪いかという哲学的難題について、別の区別の再参入によって脱パラドックス化を図ったのは有名である。殺人が悪であることは、哲学的議論として論証することはできない。なぜなら、善悪の基準を正当化するためには、その基準が正しいかどうかを判定するそのまた基準が必要になり、結局、基準の基準を無限遡及することになってしまうからである。善悪の絶対的な基準があってもなくても、道徳システムは成立しないのである。
 宮台氏は、このような道徳システムのパラドックス化を社会学の観点から救い上げたのである。道徳システムを(意味/強度)という別の区別に準拠して観察すると、善悪の絶対的な基準を論証しようとする態度は意味(理性)の立場に立っており、強度=好嫌や快苦の立場に立っていないことが暴露されることになる。さらに、社会学的に説明すると、社会は、仲間を殺すことはできないように人間を社会化しているのであり、社会化された普通の人間は殺人を生理的に嫌い殺人ができないようにプログラムされているのである。
 そこで、殺人がなぜ悪いかという問い自体は、いかにして社会が殺人を好むような人間をつくらないかという課題に変換され、コミュニケーションされていき、有意義化されるのである。善悪の究極的基準によって殺人禁止の道徳的根拠を見いだすという不毛な哲学論争は、社会学的観点から見事に相対化され、別のコミュニケーションへと変換され、有意義に連接していくことになるのである。

 科学は、認識と対象の一致という真理観を採用しているが、そのために認識と対象の一致を判断する基準そのものが正しいかどうか判断するそのまた基準が必要になり、最終的に対象と認識が一致しているという絶対的根拠を示すことができなくなる。(対象/認識)の区別に(対象/認識)を自己適用すると、パラドックスに陥る。かくして、対象と認識の一致として真理を捉える科学観は行き詰まることになる。そこで、構造構成主義などは、(対象/言葉)という別の区別から観察し、言葉(の使用法)の同一性から科学を根拠づけることで、客観性を担保しようとする。
 また、科学的真理の正しさは、事実についての認識の正しさという観点ではなく、利用可能性や説明可能性の観点から判断するということも可能である。すなわち、科学的真理が、事実についての絶対的に正しい認識であるかどうかが最終的に判断できないのなら、(利用可能/利用不可能)あるいは(説明可能/説明不可能)という別の区別から判断して正しさとすることもできるわけである。
 利用可能性とは、科学的真理が様々な目的のために利用価値があるかどうかである。現代人の生活は科学的知識を利用することで成立っている側面が多く、その意味では科学は真理として見なすことができる。また、あらゆる現象を説明する能力も科学は高いのであり、説明可能性からしても真理として見なすことができる。
 科学は、事実についての認識の正しさ、つまり対象と認識の一致という真理観を採用しなくても、現代社会では、利用可能性、説明可能性という観点から真理として正当化できるのである。対象と認識の一致という古い科学観に拘り続け、事実は一つしかないという観点から、他説をニセ科学として否定するニセ科学批判者の科学観は素朴で古すぎるのである。対象と認識の一致という真理観を採用する古典的科学主義こそがニセ科学批判者の科学観の本質である。真理の効用説=科学の利用可能性や真理の整合説=科学による説明可能性に基づいた新しい科学観からしたら、ニセ科学批判はナンセンスなのである。
 
 とにかく、別の区別の再参入は、相手が準拠する区別とは、別の区別から相手の区別を観察し、相手の区別それ自体を自己の区別の片方の項に入れ込むことで相対化し、コミュニケーションを連接していくわけである。重要な点は、相手の区別それ自体をうまく自己の区別の片方の項に入れ込む作業であり、入れ込みがうまくいかないと、コミュニケーションは連接していかないことになるので注意しないといけない。闇雲に、どんな区別からでも相手の区別を観察できるわけではなく、何でもありの相対主義にはならないことを釘をさしておこう。一つの目的によってなんでも他者の区別を手段化する方法とは一線を画するのである。
 斜めから別の区別を投入する技は、極めて社会学的センスが求められ、宮台レベルのコミュケーションの達人論客にしか使えない技と知るべきである。

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by merca | 2010-09-20 12:47 | 理論
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