東浩紀・宮台真司著「父として考える」書評

 東浩紀・宮台真司著「父として考える」という新書が出ている。これは、デリダのポストモダン思想を受け継いだ郵便的脱構築で有名な東浩紀と、ルーマン社会学を受け継いだ社会学の巨人・宮台真司の対談である。
 
 二人と言えば、俗流若者論批判者である後藤和智から批判されているのは周知のとおりである。思想地図においては、今や事実やエビデンスを絶対化する後藤氏らの事実主義思想の登場によって、観念的なポストモダンの論客は時代遅れとして否定されつつある。事実に基づかない反自然科学的な知識体系として、東浩紀や宮台真司らの思想は、駆逐すべきであるというわけである。
 今後、ニセ科学批判運動と同じく、学問の世界において、反自然科学的な知識体系が魔女狩りされていく傾向は強まっていくと考えられる。ルーマン社会学の観点からは、これは、ある意味、科学が自律性のあるシステムとして分出している現代社会では、仕方のないことである。(理論)社会学に残されている道は、社会思想として社会統合と自我統合を担うことに特化されていくことしかないかもしれない。

 さて、そのような思想地図で起こっている戦争状態を踏まえた上で、本書で面白いことが書かれていたので指摘しておきたい。本書は、父として考えるという表題であるが、基本的には社会を語っている社会評論=社会解釈である。
 
 宮台氏は、自らがラディカル構築主義者であるにもかかわらず、鋭く社会構成主義を批判する。
 全てはつくられたもの、つまり構成されたものであるとしても、視座によっては構成されたものは構成されざる無為のものとして観察され、虚構ではなく、真理=事実として認識されるという。詳しく言うと、共同体に所属している内的視座から観察すると、共同体を支える価値規範や知識体系は、根拠のない物語ではなく、真実であるということである。例えば、雷を神様が怒っていると考える共同体があるとすると、その知識体系は共同体に所属する人々にとっては真理であると受け取られるということである。もちろん、共同体の外にいる者の外的視座から観察すると、根拠レスの虚構とうつるわけである。雷は神様の怒りという知識体系があることで、回っている共同体では、それは違和感なく人々に受け取られ、真理として機能するのである。
 とにかく、宮台氏の主張を私なりに解釈すると、一つの共同体を支える価値規範や知識体系は、共同体の外から観察した時には虚構であり、根拠レスにうつるだけであるので、社会構成主義のようにやみくもに全ての共同体の価値規範を全て根拠レスと見なし否定するのはおかしいと指摘しているのである。言い換えれば、社会構成主義者の視座は、一切の共同体から超越した常に外的視座からの観察であり、外的視座を絶対化しているわけである。外的視座のみが正しいわけでなく、内的視座によって相対化されなければならない。社会構成主義者が全ての共同体の価値規範や知識体系は根拠レスであり真実ではないという時、自らを絶対化しているのである。これは、悪しき相対主義である。悪しき相対主義は、内的視座から観察すると、共同体の価値規範が真実であるという事実を虚偽とみなす誤謬を犯しているのである。

 このように(内/外)という別の区別を再参入することで、社会構成主義=相対主義の盲点を見抜き、相対化した宮台は、やはり哲学においても一流と言わざるを得ない。
 ただ、内外の区別は流動的であり、内的視座からの観察と外的視座からの観察が弁証法的な関係に有り、他なくしては自己もない縁起関係にあることも踏まえなければならない。内的視座からは事実であり、外的視座からは物語となるが、事実と物語が相まって共同体と外部は可能になるのである。これはレヴィナス級の哲人である柄谷行人の論理でもある。
 とにかく、一つの知識体系は、ある視座からは真理となり、別の視座からは虚偽となるのである。絶対的な視座たる神の視点は存在し得ず、視座の差異によって、真理値がコロコロと変わるのである。このように考えると、科学はどんな場合でも、真理であるとする科学主義者の観念は誤謬であることがわかる。科学が真理だと思うのは、科学が真理だと信じられている現代社会に属している内的視座から観察しているからである。このことに関してニセ科学批判者は盲目である。
 
 宮台氏は、後藤氏に対してエビデンス厨というレッテルを貼っているが、後藤氏は、自然科学的手続きを経た知識のみが根拠があり事実だと見なしましょうという現代社会の約束事に忠実なだけなのである。つまり、後藤氏は、現代社会の価値規範に過剰適応してしまっているのである。ニセ科学批判者の菊池氏も同様である。後藤氏も菊池氏も、科学的手続きを真理の根拠とみなす社会でたまたま教育されただけの話なのである。ただ、そのような社会学的見解を彼らに言うと、相対主義だと我々は見なされるのである。端的に言うと、彼らは、自己の視座を再帰的に認識できず、相対主義者よりも、視野が狭いということになる。それだけの話である。
 
 何を知識の正しさの根拠と見なすかは、社会によって異なり、その差異を観察するのが社会学の役目である。

 参考
 記憶が定かではないが、確か社会学者芹沢一也が脱社会性という言葉によって少年を怪物化し治安悪化神話の片棒を担いだと宮台氏を批判していたが、それに対して何かの書物で宮台氏が視座と視点の混同であると反論していたことがあったと思う。これが何を意味していたのかわからなかったが、もしかしたら、宮台氏は、体感治安という人々の内的視座による観察を一方的に非真実として棄却し、犯罪統計という外的視座のみを真理として絶対化する治安悪化神話論批判者の在り方を批判したのかもしれない。

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by merca | 2010-10-24 08:31 | Comments(0)
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