耳かき殺人事件・・・善良な市民=裁判員は人を殺せない?

 報道によると、耳かき殺人事件の裁判員裁判による判決が、被害者の意に反して、死刑ではなく、無期懲役になった。裁判員は、自己の感情・価値観に忠実に従ったと言われている。そのことは次の事実を証明している。 
 人間は、もともと人を殺すことができないようにつくられている。これを社会化という。特に、近代化した社会では、自国の人間だけではなく、全ての人間を殺してはいけないという感性が人々に埋め込まれているのである。これは、理念的な価値規範だけではなく、好悪のレベル=生理的レベルにおいてもそうである。まともに社会化された人間は、殺人は悪であり、また殺人をするのは生理的に嫌であると感じるのである。
 要するに、推測するに、耳かき殺人事件の裁判員は、自身が社会から埋め込まれた感情・価値観によって、殺人ができなかったのである。殺人にすべき事案であっても、社会から殺人ができない価値規範と感情・感性をもともと埋め込まれている善良な市民なので、死刑を避けることは、当然の社会科学的帰結である。

 特殊な状況において、職務として、人を殺さなければならない職業がある。つまり、合法的殺人をしなければならない職業である。例えば、軍人、警察官、裁判官、刑務官、医者、大臣である。軍人は、敵国の兵士を殺害し、自国を守る義務がある。警察官は、時と場合によっては、市民を守るために発砲することがある。裁判官は死刑の宣告、刑務官は執行をする。医者は妊娠中絶をする。大臣は、大臣として、戦争の決断、死刑の執行にかかわる。
 職務として殺人をしなければならないわけであるが、これらの殺人の正当性は、国を守るため、人命を守るため、保安のためとか正当化されている。人を殺すことが可能なために専門的訓練を受けているのではないかと思われる。
 
 裁判員に相応しい善良な市民ほど、殺人禁止という社会的価値観が強く埋め込まれており、殺人はできないのである。裁判員が死刑制度に賛成であったとしても、それは理屈の上での話であり、実際には殺人はしたくないのである。裁判員にとって、被告人は自分とは直接関係のない人物であり、恨みもないので、殺す理由はない。善良な市民は、自分に危害を加えていない人物を殺すことができない。
 一般市民である裁判員には、殺人ができるような職業的訓練が施されていないのである。そのために、心的外傷を受けるおそれがあるのである。

 裁判官から見たら法律的には死刑の事案であっても、裁判員が殺人ができないという社会の価値規範・感情・感性を身につけているために、正当な法律の適用が妨げられることになるのである。かくして、裁判員裁判における法律の適切な適用は困難になるのである。

 裁判員制度は、社会学者による「人は人を殺さないようにできている」という社会科学的事実を無視した制度なのである。確かに、徴兵制がある国では、合法的殺人に対する敷居が低く、市民が訓練を受けており、合法的殺人に躊躇はないが、日本のような徴兵制のない国では、合法的殺人に躊躇するのである。

 制度設計の際に、法曹関係の専門家は社会学の真理を無視したために、適切な法律の適用ができなくなったのである。もし裁判員制度を可能にしたいのなら、全ての市民に合法的殺人ができるように訓練しないといけないことになる。あるいは、死刑制度を廃止するかである。
 裁判員制度を存続したいのなら、国家が合法的殺人に躊躇しないという価値規範・感性を国民に教育するか、それとも死刑を廃止するのか選択する必要がある。

 テレビの前に座り、報道される凶悪犯罪の容疑者に「世の中は犯罪者に甘い。そんなやつは、すぐに死刑にすべきだ!」と豪語している小市民的道徳オヤジほど、実際には自分が直接合法的殺人をする勇気はないのである。ただ、そのような小市民的道徳オヤジの公憤が厳罰化の国民の声として、裁判員制度ができたのは皮肉である。無責任発言の代償として、自分で手を汚してもらうことになるのである。一連の厳罰化の流れが、事件や裁判などの刑事司法的現実を自分の世界の出来事ではなく、テレビの中の出来事だと妄想し、無責任発言を連発している小市民的道徳オヤジであることはもう許されないのである。
 刑事政策は国家の犯罪に対する戦争である。この戦争のために職業専門家ではなく、国民が裁判員として徴兵されているのである。裁判員制度は、全国民が合法的殺人をしなければならない司法的徴兵制なのである。

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by merca | 2010-11-03 10:31 | 社会分析 | Comments(0)
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