ニセ科学批判者(通俗道徳主義者)はマイケル・サンデルの正義を学ぶべし

 ニセ科学批判者がニセ科学批判する正当性の根拠は、科学的事実にあるのではなく、最近、世間の通俗道徳にあることがわかってきた。これは、ニセ科学批判批判派の一部のブロガーのうちでは常識となっている。
 つまり、「ウソをついてはいけない」「人を騙すのはよくない」「人を殺すのはよくない」「他人に迷惑をかけてはいけない」と言った通俗道徳に最終的な自説の正当性の根拠があるようである。このような通俗道徳に準拠して世間の集合的非難と公憤を動員する方法は、週刊誌やスポーツ新聞と同じである。一種のポビュリズムである。
 
 しかし、これらの道徳律は確かに世間の道徳規範として流布しているが、よくよく道徳や正義について深く考えていくと、そんなに道徳判断は単純でないことがわかる。

 「ウソをついてはいけない」「人を騙すのはよくない」 
 例えば、殺人犯に追われている女性が自分の家に逃げ込み、殺人犯が探しに来たら、「私の家にはいません」というのは、道徳的に悪なのだろうか?

 「人を殺していはいけない」
 例えば、秋葉原無差別殺人事件のような殺人鬼が路上で暴れ、通行人に刃物で襲いかかっているのを目の前にして、他に止める手段がなくて、警察官が発砲して殺人鬼を射殺することは道徳的に悪であろうか?

 「他人に迷惑をかけてはいけない」
 例えば、車両の故障が発覚し整備のために電車をとめ、多くの通勤客に迷惑がかかったとする。安全確保のために車両整備で通勤客に迷惑をかけたことは道徳的に悪なのだろうか?  

 「ウソをついてはいけない」「人を騙すのはよくない」「人を殺すのはよくない」「他人に迷惑をかけてはいけない」などの通俗道徳を単純に適用するだけでは、現実の道徳判断はできない。行為のおかれた状況やその他の条件を加味し、議論し、合意をえることでしか、道徳的判断はできない。
 マイケル・サンデルが正義に関する議論で主張しているのは、このような道徳の複雑性である。通俗道徳を単純に振り回すだけでは、道徳判断できないということに尽きる。
 道徳的議論は重要である。ちなみに、社会学でいうと、ハーバーマスが主張する理想的発話状況による対話的理性こそが、道徳的議論で求められるコミュニケーション・システムである。

 しかるに、ニセ科学批判者は、通俗道徳を振りかざし、複雑な道徳に関する民主的議論をすっ飛ばし、したり顔でニセ科学というレッテルを付与した知識、技術、商品などを否定しまくる。科学的事実や通俗道徳という正論で単純に他者を否定する。正論だからという意識に甘えて、他者との正当な議論を経ずに、自説を押し付けて他者を否定する。
 
 ホメオパシーに対しても「人に迷惑がかかるから悪い」「効果がないのに効果があるとウソをついているから悪い」「人が死ぬから悪い」という単純な通俗道徳から批判する。
 水伝においても、思想の自由(人権)という道徳要因を無視して、「科学的事実ではないウソだから悪い」という単純な通俗道徳から批判する。

 安易な通俗道徳に基づく価値判断に正当性の根拠を求めず、科学のアイデンティティを穢すから科学的に中途半端な知識を批判するという純粋な科学原理主義に立脚したニセ科学批判者のほうがまだ筋が通っているのである。そういう正当派をみかけなくなった。大槻教授くらいである。菊池氏は通俗道徳主義者である。

 多くのニセ科学批判者は、通俗道徳に流されず、マイケル・サンデルの正義に関する議論を学ぶべきである。

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by merca | 2010-11-14 11:35 | ニセ科学批判批判
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