コミュニケーション弱者の受皿としての宗教の機能

 成熟社会においては、経済的資本や文化的資本をいくら所有していても、人間は幸福になれない仕組みになっている。この社会では、社会関係資本(人脈・友人関係など)こそが決定的な幸福格差をつくる。社会関係資本の産出・使用には、コミュニケーション能力が必要となる。
 コミュニケーション能力とは、場の空気(状況)を読み、他者を理解し、正確に自身の意思を伝え、他者を動かすことで、コミュニケーションを連接させていく能力のことを指す。このような能力に長けたものが、いつでも頼ることができる人間関係を構築し、成熟社会の勝者となる。
 残念ながらコミュニケーション能力の差によって排除されることは社会責任にすることはできない。例えば、結婚できないことや恋人ができないことは、自己責任だと思われている。社会が悪いから俺は恋人ができないという言葉に共感する者はほとんどいないだろう。それと同じで、俺を雇ってくれないのは社会のせいだというのも、おかしいことがわかる。成熟社会では、恋愛・結婚と同じく、失業・就職も自己責任として処理される。共同体的呪縛から解放された成熟社会では、むき出しの個と個の関係が中心となり、あらゆる行為は社会的に自己選択・自己責任として処理される。

 また、コミュニケーション弱者は、様々な社会的排除の対象となる。コミュニケーション能力の欠如は、自己責任であり、セフティネットがなく、社会的に排除され続ける。

(職業社会からの排除)
 組織労働における対人関係に適応できずに、失業する。また、コミュニケーション能力を重視する企業から面接で落とされる。
(家族関係からの排除)
親を説得する話術がないために、良好な家族関係を保てず、家を追い出される。
(結婚・恋愛・性からの排除)
コミュニケーション能力が低いために、不器用で異性の気持ちを理解できず、恋愛ができず、見合いをしても断られ、結婚できない。自ずと、性的関係まで至らず、性欲もセックスで満たすことができない。
(学校社会からの排除)
コミュニケーション弱者は、スクールカーストの身分は下層となり、学校の学業に適応できても、友人関係やクラス内のグループに参加できず、孤立化する。いじめの標的となり、不登校となり、排除される。
(友人関係からの排除)
コミュニケーション能力が低いために会話に面白みがなく、友達ができない。
(自身からの排除)
 人は他者から褒められるなど、コミュニケーションを通して自己肯定感をえるものであるが、それがないために否定的な自己イメージしかもてず、自己肯定感が低い。

 上記のようなコミュニケーション能力のなさによる社会的領域からの排除がコミュニケーション弱者の経済的貧困・ホームレス化をもたらすわけであり、景気や経済的貧困によって社会的に排除されるわけではない。湯浅氏は、この部分の因果関係を見誤っている。

 しかし、どんなコミュニケーション弱者も唯一受容してくれるものがある。それが宗教である。宗教は、コミュニケーションができるかどうかで人を評価しないからである。これからは、コミュニケーション弱者を取り込む新興宗教が益々大きくなる可能性がある。
 宗教によって自身を肯定されたコミュニケーション弱者は、宗教に認められたことを足がかりに一気に積極的なコミュニケーションをとりだし、熱く人に布教するであろう。これは、よくあることである。
 もし宗教による受容が怪しくて嫌なら、ボランティアや福祉サークルへの参加によって、無宗教的に自己肯定感を高める処方箋もある。ボランティアや福祉の世界も、コミュニケーション能力によって人を評価せず、人権ということだけで受け入れてくれる仕組みになっているからである。ボランティや福祉は、コミュニケーション弱者がカルト新興宗教に吸収されないようにする防波堤として機能しているのである。

 システム論社会学の立場からすると、コミュニケーション弱者救済のシステムをつくりだすことが急務である。反貧困論やマルクス主義のような浅薄な社会責任論・社会原因論ではなく、社会システム論を前提とした高度に再帰性な自己選択論・自己責任論に立脚したシステム構築が必要なのである。社会科学を専攻する者ですら、古典的な社会観にとらわれており、この点を理解できる者は極めて少ないのである。

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by merca | 2010-11-23 11:16 | 社会分析
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