「「正義」について論じます」書評 宮台対大澤!!

 宮台よりも観念的な社会学が存在する。それが大澤真幸の社会学である。大澤氏の著作はかなり読んできたが、あまり当ブログで取り上げることはなかった。大澤氏の第三者の審級論は、社会の根本原理を定式化したものとして名高い。
 また、大澤氏は、柄谷行人との親和性もあり、浅田彰、東浩紀などのポストモダンの論客たちと、最高度の文化的かつ知的な日本の思想界を形成してきたのである。
 そんな大澤氏が社会学の鉄人である宮台氏と対談し出版されたものが「「正義」について論じます」である。日本思想界における最高度の観念論的知性がぶつかりあう姿は興味をひいた。数ページ開くと、二人の顔のアップが突然出てくる。すでに、二人とも、学者ではなく、思想家の顔であった。
 大澤氏はいく分普通に見えたが、やはり宮台氏の顔はどこか違っていた。それは、単なる思想家ではなく、社会変革者の顔なのである。私は直感的・霊的にそれを察知できた。
 もうすでに、宮台思想は、ニーチェのごとき陳腐な西洋哲学を越えているのである。日本の学者や思想家は遅れていると思っている西洋かぶれした大学院生たちは多いが、実は、宮台氏に限っていうと、世界レベルの哲学的知性なのである。

 さて、本題の書評の内容に入りたい。三つの話題に絞りたい。三つの話題とは、私なりに整理すると、「正義の唯一性と善の多様性」「利他性への感染(ミメーシス)」「社会的包摂における中間集団の必要性」ということになる。

・「正義の唯一性と善の多様性」について
 正義の唯一性と善の多様性について議論されていた。これは、文化相対主義の問題である。正義とは、各々の文化共同体を越えて人類が従うべき一つの正義=道徳規範を意味する。一方、善とは、各々の文化共同体が所有する個別の道徳規範であり、現実的には共同体の数だけ多様である。
 この二つの区別の重要性が説かれ、さらに正義の唯一性という観念は現実には不可能であるが、必要不可欠であるという議論に収斂していくことになる。この議論は、共同体を越えた外部を思考することと同じであり、他者性の認識不可能性=超越性と哲学的には同義である。
 残念ながら、柄谷行人の名著「探求Ⅰ」「探求Ⅱ」において、この種の議論は結論が出ており、そちらを読むことをすすめたい。ちなみに、柄谷行人の言葉では、正義が倫理に対応し、善が道徳に対応することになる。
 
 宮台と大澤の対談では正義の結論はでなかったが、ここで、正義の唯一性と善の多様性の問題解決についての回答を言っておきたい。
 正義の唯一性は人類社会という無限世界を前提としており、超越的であり、具体的な内容としては認識できず、到達不可能であるが、超越的である故に、かえって善の多様性の前提を形成することになる。唯一の正義は、神のごとく、自身は具体的・個別的な姿を現さず、内容のレベルでは認識不可能であるが、具体的な善の多様性の前提を形成するというかたちで作用しているのである。
 このように正義の問題は、否定神学的弁証法のみが解決してくれることになる。これは、相対主義と絶対主義が対立的に依存関係にあるという論理と同じてある。わかりにくければ、ベタであるが、善の多様性も正義の唯一性の範囲内で許容されるとでも言っておきたい。これが回答である。

・「利他性への感染(ミメーシス)」について
 次に、利他性のある人物への感染についてテーマになっている。人は利己的な人物をモデルにするのではなく、利他性のある人物に魅力を感じ、その価値観に感染するようになるという。これは、宮台氏の考えであるが、非常に現実的である。確かに、そのように私も感じる。
 例えば、薬物依存やリストカットや虐待で悩む多くの若者を救ってきた夜回り先生という人は有名であり、多くの若者たちが夜回り先生という高度な利他性を所有する人格に感染し、自分も他者を助けたいと思うようになっている。
 さて、本当の利他性とは何かと考えていくと、共同体の外の他者への利他性ということになる。自己の所属する共同体に属する仲間のためだけではなく、自己の外にいる他者を救う者が一番感染性がある。大澤氏は聖書の「善きサマリア人の喩え」の例を引き、弱者への感染の可能性を述べていたが、本質は弱者への感染ではない。弱者という他者ではなく、共同体の外の他者を救った高度な利他性への感染こそが、この説話の本質なのである。
 共同体の内外に関係なく、他者を救う者こそが本当の利他性をもっており、そのような利他性に人は感染し、その感染の連鎖こそが、文化相対主義を越え、人類社会の正義の唯一性へとつながっているのである。このような思考回路を論理的に開いたのは、柄谷行人であるが、「利他性への感染」という事実に立脚して、正義の唯一性という到達不可能な倫理の存在の作用を例示した宮台の観察眼はやはり一流である。

・「社会的包摂における中間集団の必要性」について
 中間集団の重要性が議論されていた。中間集団の存在を無視したリベラリズムもコミュ二タリアリズムも、成立たないということが議論されていた。これは極めて社会学的な立場からの議論であり、個人と全体社会の二元論に基づく観念的な政治哲学と一線を画する。
 
 日本では、成熟社会に入り、家族・親族・企業・労働組合・新興宗教などの、全体社会(国民社会=国家と市場)と個人の間に存在する中間集団の凝集性が弱まり、その恩恵にあずかることが困難になってきたという。そのために、国民社会の代表機関である国家が個人をサポートしなければならないという発想が出て来た。中間集団から排除された個人を国家がサポートすべきというわけである。
 この考えの典型が、貧困は社会責任=国家責任とする湯浅氏の反貧困思想である。国家が排除された個人のセフティーネットを構築し、最低限の生活保障をしてやるというわけである。
 しかし、このような考え方は、すでにヨーロッパでは古いという。むしろ、国家と個人の間に存在する中間集団の自立性が焦点となっているらしい。つまり、自立的な中間集団が個人を包摂するというかたちで、社会的排除を防止することが大切であると考えられているのである。反貧困思想のように、国家のみが個人をサポートするという発想は極めて時代遅れでおかしいのである。これは、日本だけである。
 ともあれ、宮台氏も大澤氏も、社会学者であり、個人が相対的に中間集団に包摂されることが重要であると認識しているのである。個人責任でもなく、社会責任でもなく、家族責任や企業責任や学校責任など中間集団の責任という概念を流布すべきであるという結論となる。
 中間集団が責任をとるためには、中間集団の自立性・自律性が求められる。国家や市場に相対的にしか依存しない自立的な中間集団の存在が必要であり、社会的排除の解決策の本丸は中間集団にありとするのが、社会学の本流の考え方である。
 よく考えてみればわかるが、個人は様々な社会集団に関わりながら、欲望を充足するわけであり、全体社会と直結しているわけではない。従って、個人が所属する社会集団が個人の面倒を部分的に見ていくことが、古典的な国家のみによるセフティーネットよりも現実的なのである。
 
 社会学的には、国家は各々の中間集団を調整・支援し、各々の中間集団が個人を支援するというかたちがベストなのである。社会責任論を前提とした国家による個人のサポートを強化するという政策は、財政破綻をきたすだけであり、無意味である。
 国家と個人の二項関係こそが、現実的な個人の孤立化を意味しているのであり、中間集団の支援なしに生活保護を受けるのは孤立化をすすめることと機能的に等価である。国家と個人の二項関係に準拠した反貧困思想こそが孤立化の温床となってしまう逆説があるのである。
 中間集団=共同体の再帰的再構築と、中間集団の国家や市場からの相対的自立性によって、個人を包摂することが貧困問題・虐待問題などの解決策となるのである。国家から相対的に自立した中間集団による個人の社会的包摂こそが、孤立化による貧困問題を解決する社会学的処方箋なのである。

 全般的に、大澤氏の社会学思想というよりも、大澤氏が宮台思想を引き出したという対談の内容であると思った。
 
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by merca | 2010-12-04 11:37 | 社会分析 | Comments(0)
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