因果関係確定とニセ科学批判者の二枚舌

 因果関係とは、AがあればBが生ずるという関係である。例えば、火があれば、煙が生ずるなどである。因果関係には、三世界論に対応して、以下の種類がある。
 
(物理的因果関係)
対象は、物質世界における因果関係。
観察方法は、外から五感を通して認識し、個物を一般化した相で捉え、帰納的に発見する。
記述方法は、必然の法則として記述する。同じ属性をもつ全ての物質に当てはまる。
例 エネルギー保存の法則、熱量の法則、万有引力の法則など、物理法則。
 
(心理的因果関係)
対象は、精神世界(意味世界)における因果関係。
観察方法は、分析対象そのものに質問して認識し、個別的な因果関係を構成する。
記述方法は、動機として記述する。個別のケースのみに当てはまる。ただし、類似の事例には類似の因果関係が蓋然的に認められることがあり、それを臨床知と呼ぶ。
例 精神分析学のヒステリー分析。

(社会的因果関係)
対象は、社会世界(意味システム)における因果関係。
観察方法は、コミュニケーションを観察して認識し、集合的な因果関係を構成する。
記述方法は、規則や規範として記述する。特定の共同体のみに当てはまる。
例 文法、売買行為(店で金を払うと、商品が手に入る)、違法行為(盗むと、逮捕される)等。
 
 これらの三つの世界は、相互影響(構造的カップリング)=相互条件にあるが、原理的に互いに閉じており、システムとしては自律している。従って、相互に関係はあるが直接的にコントロールできるまでの関係性(一対一対応)はない。
 例えば、物体に浮かび上がれと念じたところで、浮遊することはない。(心理的要因が物質的要因をコントロールできない。) また、気温があがったからといっても、喜ぶ人もおれば残念がる人もいる。(物理的要因が心理的要因をコントロールできない。) さらに、一人の受験生が受験競争なんてなくなれと思っても、行動しなければ(コミュニケーション過程にあがってこなければ)、社会の仕組みは変わらない。(心理的要因が社会的要因をコントロールできない。)
 このような三世界における「相互コントロール不可能の原則」は、宇宙の根源的秩序である。ちなみに、この原則を破った世界観は、松本人志監督の「しんぼる」で描かれている。この原則が破れた世界ほど怖いカオスはない。

 さて、それぞれの世界における因果関係は、観察方法が異なる。
 物理現象においては、外から物体を観察することになる。ある現象の後にある現象が生ずることが繰り返されることで、因果関係を発見していこうとする。実験と呼ばれる方法である。しかし、ある現象に含まれるどの要因が本当の原因かわかるまで、疑似相関を排除するために、要因に統制を加えて精度を高めていくことになる。観測と実験が自然科学における因果確定の方法である。

 では、心理現象においては、因果関係の確定はどのようになされるのであろうか? 自然科学のように外から観察していても、心理内容は記述できないことは言うまでもない。表情や行動だけからの観察は類推の域をでない。そこで、分析対象そのものに質問して聞くことになる。
 例えば、カウンセラーが悩んでいる学生に質問し、「辛い気持ちになっている原因は、不登校で親から怒られているからです。」と答えたとする。「親から怒られる」ことが原因で辛い気持ちという結果をもたらしているという因果関係を確定できるわけである。しかし、あくまでも個別的因果関係を確定していることに注意しておこう。親から怒られると辛いという心理的次元における因果関係は全ての学生に当てはまるとは限らないからである。また、辛いという気持ちを起こす原因は親から怒られることだけではなく、いくらでも存在するのである。これは、個別のケースに関する現在における特定の因果関係の確定である。
 精神分析に基づく心理療法は、カウンセリングを通じて、因果関係をこのように個別的に特定していく。さらに、本人が気づかなかった(抑圧・隠蔽されていた)因果関係を気づくようにもっていくことになる。分析対象自身が因果関係を知っているというわけである。因果関係確定の根拠は、外からの観察ではなく、本人自身にあるということである。これを非科学的と言って切り捨てることはできない。そればかりか、内からの観察なので疑似相関に悩まされる自然科学よりも完璧な因果関係の確定となる。因果関係の確定に関しては、外側からしか観測できず不確かな自然科学よりも精神分析学のほうが完璧なのである。この点、全く気づかれていない。
 
 次に、社会現象については、人々のコミュニケーションを観察することになる。心理現象は、観察対象が個人の内面であったが、社会学の場合は、人々の行為となる。コンビニでお金を出して商品を買うという社会現象は、心理過程とは異なる次元である。例えば、一人の男がコンビ二で弁当を買ったとしても、その男がなぜ弁当を買うのかという動機(心理的次元)を店員が理解していなくても、お金を支払うだけで、店員は行為の意味を理解し、弁当を男に手渡すであろう。コミュニケーションにおいては、相互の内面的動機を提示しなくても、成立するわけである。
 また、同じ国民社会内では、どこのコンビ二に行っても、お金を支払うだけ弁当を買えるのである。金を払うという行為が原因となり、商品が手に入るという結果が成立しており、一つの因果関係が成立っているのである。
 さらに、この因果関係は規則・規範として維持されていることで、逸脱現象は起こらない。金を支払わずに商品を手に入れようとすると、万引きや強盗で逮捕され、処罰されるのである。逸脱現象に社会的制裁が伴うことで、社会的因果法則は保たれているのである。賞罰があることで社会的因果関係は維持されているのである。
 重要な点は、社会的因果関係は、社会学者自身が社会生活を送り、コミュニケーションをすることで観察・発見することができるものであり、自然科学のように、統計や実験はいらないことである。 平たく言えば、それなりに社会生活を送っていれば、わかることである。しかし、社会理論を使用して社会生活におけるコミュニケーションを観察・記述することができなければ、社会学とは言えない。社会理論という観察道具のない人の観察は、ただの居酒屋談義である。
 理論社会学の基礎を修めていない統計屋は、社会学者ではない。新聞社の世論調査そのものは社会学ではない。パオロ氏の反社会学講座は全く理論社会学の観点からの考察が抜けており、社会学的手法とはほど遠いのである。何度も述べているところであるが、人々のコミュニケーション過程にあがってこない客観的統計は、いくら正しくても社会を構成することはできず、社会的事実の資格はないということである。客観的統計=社会的事実と思い込んでいるパオロ氏の反社会学講座は、全くそのことを理解していない未熟な思考なのである。(真理のコミュニケーション説)

 因果関係の確定は、分析対象を内面から知ることができる心理学や社会学のほうが明確である。それに比べて自然科学は物質に聞くとこができず、外からしか観察することができないわけであり、実験を繰り返し、疑似相関を排除していく手続きが必要であり、因果関係の確定はいつも不明瞭なのである。「科学は全て仮説だから」という弁解が多いのはこのためである。偽薬効果は科学的仮説の段階であって確定した科学的事実ではない。
 自然科学中心主義のニセ科学批判者は、仮説に逃げることで自説の絶対化から免れつつも、仮説なのに他者を批判して自説を絶対化する二枚舌が特徴である。

 ニセ科学批判者は、科学を絶対化しているというニセ科学批判批判者や多くの常識人からの助言を真摯に受け取らず、仮説だから絶対的に正しいとは思っていないと弁解し、科学を理解していないと反論するわけであるが、その一方でその仮説でもって他説を全否定することで、自己が正しいと絶対化しているのである。この二枚舌のからくりは、科学の本質とも関係してくるのでニセ科学批判者の誤りだけに帰責できないかもしれないが、この課題をどう処理するのか見守っていきたい。

 さらに、ニセ科学批判者による科学と通俗道徳の使い分けにも注意しておう。この点についてはまたの機会に論じたい。

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by merca | 2011-02-06 11:54 | ニセ科学批判批判
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