ホリスティックな思考は、全て非科学か?

 ホーリズムとは、要素に還元されない全体が要素を決定するという論理である。ホリスティックなどという言葉でもよく使用されており、自然治癒力を重視するホリスティック医療等というものも存在し、ホメオパシーの正当性を根拠付けている場合も見受けられる。
 ちなみに、ホーリズムに基礎をおく知識体系は、ニセ科学批判者に嫌われており、非科学として断罪されるケースが多い。例えば、脳科学者の茂木健一郎のクオリア論も、ニセ科学批判クラスターから叩かれた。クオリア論におけるクオリアは、要素に分解できない全体的感覚であり、要素還元主義からは説明がつかず、一種のホーリズムな知識体系である。また、複雑系や宇宙論もホーリズムと関連してくると、ニセ科学批判者の批判対象となる。トランスパーソナル心理学やニューエイジの東洋思想も、実証性を重んじるニセ科学批判者の批判の的になるのである。
 要するに、目に見えない怪しい全体なるものが存在し、その全体が部分に作用するという理屈は、ニセ科学批判者にとっては、ニセ科学と見なされる。
 例えば、人間は精神と肉体の二元論で説明することはできず、心身を統一する全体としての生命体として存在し、従って生命力があがれば、肉体面の病気も治るという考えは、ニセ科学批判者に否定されることになる。なぜなら、生命(魂)という全体的存在は、目に見えず、科学的に観測されないからである。自然科学的に直接認識できるのは、分子と分子の関係からなる細胞、さらにその細胞同士の関係にしかすぎず、生命体という全体は存在しないからである。自然科学からしたら、ホリスティックな生命全体は虚構であるというわけである。
 また、部分から説明がつかない全体の存在を認めてしまうと、永遠の生命の存在を容認することにもなりかねず、科学主義者は嫌がるわけである。
 実は、ホリスティックな存在は、直観的にしか捉えることができない。ホリスティックな認識は、全て直観的認識であり、自然科学的認識ではない。物の全体性を捉える能力は、最初から生得的に一部本能として人間に備わっているのである。我々は、多少間違うことはあるにしても、科学を学ばずに対象を生物か無生物かに直観的に区別することができる。(ちみなに自然科学は細胞から出来ていると生物だと判断する) さらに、人間は自然科学を学ばなくても、対象を触ることで液体と固体を区別することができる。また、一定の社会環境で、人間として育つと、音の羅列を音楽として認識し、色の羅列を絵画として認識することができる。
 このような全体性を捉えることができる直感的認識は、自然科学的認識より劣っており、偽であると断言することはできない。問題は、ホリスティックな全体性と思えるものは、単なる主観的な人間の認識枠組みなのか、それとも客観的な外部対象の属性なのかということである。この点は、検討の余地があり、一番本質的な課題である。
 それはさておくとしても、物事をホリスティックに捉えることは、有用であることには疑問の余地はない。我々人間はあらゆる物事を一つの全体として捉え、意味付与し、カテゴライズして外界の複雑性を縮減し、世界に適応しているからである。
 自然科学的立場を絶対化し、ホリスティックな思考を全てニセ科学として断罪し、嘘であると排除するのは、よくないのである。

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by merca | 2011-02-20 23:59 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)
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