世界からの祈り(Pray for Japan) 他者愛の連鎖

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 Pray for Japan
 http://prayforjapan.jp/message/
 
 東日本大震災が起こり、多くの人々が犠牲になった。しかし、世界中にいる無数の人たちが祈りを捧げてくれ、普通の人々の間で利他的行動が伝染・連鎖している。一体、これはどういうことか!!
これは、宮台真司が提唱する卓越した一人の利他的カリスマへのミメーシス(感染的模倣)とは全く異なる精神である。また、共同体を越えて、世界に住む無数の他者から祈りと支援が届いてくるわけであり、当然、小林よしのりが重んじる郷土愛・愛国心とも全く異なる精神である。
 カリスマでもなく、国家社会でもなく、平凡な普通の人たちの中にこそ、神仏はいるのである。これは物語ではなく、まぎれもない事実である。街角では、多くの人たちが献血や募金をしている。 ニーチェはこの事実に気づかず、ニヒリズムに陥った。レヴィナスやマザーテレサたちが、共同体を越えた一人一人の他者の中に神をみた。それは、他者愛である。他者愛は、平凡な一人一人の人々の中に宿る。
 それは、困っている人たちがいると、「あなたがたは、一人じゃない」と囁くのである。そして、そのメッセージは、共同体を越えて全世界の人々に連鎖していき、祈りと支援を生み出していくのである!! 
そして、世界平和がもたらされるのである。国家どうしの憎しみ合いは、他者愛の連鎖の前には消え去るのである。韓国と中国も日本を支援してくれている。他者愛の前には、小林よしのりの未熟な愛国心も何も意味をもたなくなる。我々は、異国=他者であるオバマの演説にむしろ励まされるのである。なぜだろうか?

 リンカーンのスピリットを受け継いだ平和主義者オバマは、言う。
 「私たちは日本とともにいます」と。

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by merca | 2011-04-04 23:17 | 反ニーチェ | Comments(54)
Commented by じゅんじゅん at 2011-04-17 16:52 x
すみません。スピリチュアルって、形容詞なので、受け継げないと思います。スピリットじゃないですか。
Commented by merca at 2011-04-17 23:31
論宅です。了解しました。多忙な中、勢い余って書いてしまいました。
Commented by dankkochiku at 2011-05-19 23:15
無縁社会という本がベストセラーになった途端、今回の地震、津波、原発事故で、被災者救援に多額の義捐金、支援金が集まり、ボランティアが各地から駆け付ける、略奪も物価騰貴も起きない、こんなに素早く団結できる国民を、一方で他国から素晴らしいと国民と思われ、他方、一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、と勅語にひれ伏した忌まわしい時代の国民を思い出します。
Commented by merca at 2011-05-22 09:47
dankkochikuさん お久しぶりです。論宅です。
 一応、今回の人々による向社会的行動は、戦前の軍国主義社会の集合的行動と区別できると考えています。
 まずは、戦前の軍国主義社会の集合的行動は、国家に対する滅私奉公として強制的(反すると道徳的に非難される)であり、国家のためにするという行為であり、自己の利害と直接関係ありますが、震災への支援は自発的であり、被災者という個々の人たちのためにするという行為であり、自己の利害とは直接関係ありませんので、その点が異なります。
 今回は、報道で伝えられた被災者の状況を見て、支援感情が湧いた海外の人たちからの純粋な支援こそが、他者論的倫理学からは、評価すべきものと考えています。
 もろちん、中国人社員を逃がして津波被害の身代わりになった 日本人社長も倫理的です。軍国主義政府に反してユダヤ人の命を救った杉原千畝の倫理的行為に匹敵すると思います。
Commented by たにぐく at 2011-08-17 06:09 x
貴方の主張は貴方がそう思いたいのではないかと考えてしまいます。今回の支援の輪ですが、これがあるからといってナショナリズムや郷土愛を越えた倫理の存在があると思うのは早計で、情報化社会が物理的遠近に関らず被害情報のみをひたすら情に訴える形で濁流のように流しています。こうすれば手を貸すというのはありうることです。津波の身代わりになったのは身代わりになろうとしたのではなく逃げ遅れた結果そうなっただけ、杉浦氏のは関東軍を嫌っていたので国家忠誠の思いが弱く、武士道を重んじる彼が人間性に自尊心をおいて救ったのであって、超越倫理というのは物象化に過ぎないと思います。
Commented by merca at 2011-08-17 22:24
論宅です。
 あなたの視点の混同を指摘しておきましょう。
 倫理的行為かどうかを規定する根拠は、倫理的行為を行う主体にあるのではなく、それを受けた他者の側にあります。社会学でいうコミュニケーションの事後決定性とも関連する原理です。
 社長の行為が倫理的かどうかを決定するのは、私の視点でもあなたの視点でもなく、当の中国人留学生の視点です。同じく杉原千畝の行為が倫理的かどうかを決定するのは、当のユダヤ人たちの視点です。倫理的かどうかは、私やあなたの視点ではなく、中国人留学生やユダヤ人という直接関係する他者が判断することであります。中国人留学生は社長を身代わりとしての倫理的行為と感じ、杉原千畝の行為はユダヤ人から聖なる行為として受け取られています。私は、そのような直接の他者の視点から主張しているわけです。私の視点ではありませんし、いわんやあなたの考える視点でもありません。私やあなたの視点で語ることはおこがましいことです。
 他者論的倫理学では、行為は他者の視点から意味付けられます。そもそも他者との関係性を欠いた倫理は倫理足り得ません。倫理学を学び直して下さい。主観に準拠した倫理は破綻します。
Commented by たにぐく at 2011-08-18 05:58 x
貴方の言っている事はおかしいと思います。散々記事本文中で皆の中に倫理が内在するといっているのに、突然受けた人の判断のみで皆の中の主観は無関係ってどういうことでしょうか。社会学的には皆がそう思えばそれが真理です。中国人やユダヤ人のローカルな判断で皆の中にも同様な判断が有るというのは整合性がありません。それにメディアを操作可能だとすると、倫理も操作可能だということになります。韓流ブームに対する懐疑も正にそのことを差しています。情報操作は無視して無邪気に「倫理はあった!」「宮台も小林も間違っている!」というのはやはり物象化ではないでしょうか。
Commented by merca at 2011-08-18 22:00
論宅です。
 社長や杉原千畝に助けられた人たちは、中国人やユダヤ人として、社長や杉原千畝に感謝しているわけではないでしょう。助けられた一人の人間=実存として感謝の念を感じているのです。みんな=共同体の役割行為として感謝の念を感じているわけではありません。社長や杉原千畝は、メディアによる操作の結果で助けたわけでないでしょう。メディアは倫理的行為を操作不可能です。
 助けられた人たちの視点からは、助けてくれた他者の中に、神仏=倫理性が宿り、内在するようにうつります。もしあなたの命を助けてくれた人がいたならば、その人の中に神仏を見いだすことでしょう。またもしあなたのために祈ってくれる人がいたらどうでしょうか? 感謝の念を抱くはずです。
 愛とは、常に誰かの愛であり、単独的であり、皆とか集団とかという共同体が主体になることはあり得ません。共同体の役割義務で他律的に支援することは、本当の愛ではありません。無数の他者とはそれぞれの顔のある他者のことを指します。今回、震災では、世界のそれぞれの人たちが支援と祈りを捧げており、助けられた人たちは、そのそれぞれの人たちに感謝の念や愛を感じるわけです。
Commented by merca at 2011-08-18 22:02
あなたは、あなたを助けてくれた他者に感謝や愛を感じたことはないのでしょうか? もし感じたことがないのなら、あなたの感性や視点からは、確かに世界には倫理は存在しないことになります。しかし、それはあなたの感性や視点から見た世界にしかすぎません。
 多くの人は、自分を助けてくれた人に感謝と愛を感じていることでしょう。多くの被災者は援助してくれた人や祈りを捧げてくれる人たちに感謝しています。その事実が真理を証明しています。
Commented by merca at 2011-08-18 22:13
ちなみに、「社会学的には皆がそう思えばそれが真理です。」は社会学的には正しくありません。皆が思っているだけなら(共同主観だけなら)社会は創発されません。多くの人がその思いに基づいて演じることではじめて社会は創発され、社会的真理が生まれます。(創発論的社会観)
Commented by たにぐく at 2011-08-19 00:53 x
>助けられた一人の人間=実存として感謝の念を感じているのです。
助けられたローカルな判断をもって倫理は存在すると高らかに宣言する事の意味が分から無いのですよ。

>社長や杉原千畝は、メディアによる操作の結果で助けたわけでないでしょう。
私はその様なことは言っていませんよ。メディアの操作で助けるということがあるといっているだけです。そしてメディアは情報操作をします。例えば阪神大震災では火事場泥棒や警察が機能しないことをいいことに性犯罪が行われたりメディアが行くと突然演技を始めて気落ちした態度を取ったり送られた救援物資も中古の服は無視されて新品を取り合ったりと様々なコミュニケーションがあるのに放送されることはほとんどありません。感謝もどの様にされているのか分からないです。被災者の自意識も貴方の耳には情報を加工するメディアを通じて入っているのではないでしょうか。被災者にも戦略があるのですよ。
Commented by たにぐく at 2011-08-19 00:54 x
>助けられた人たちの視点からは、助けてくれた他者の中に、神仏=倫理性が宿り、内在するようにうつります。
何故そう喝破できるのか意味がわから無いのですよ。今時落し物を届けても相手が必ず感謝するということでもないんです。実際お金を落として届けたら「馬鹿じゃないの」という発想は珍しいものではありません。だって他人ですからね。

>しかし、それはあなたの感性や視点から見た世界にしかすぎません。
貴方は私が私の恣意的な感性で語っていると言われますが、私からすれば論宅さんこそが恣意的な感性で倫理の勝利宣言をしているように見えたので書き込みさせていただきました。

>多くの人がその思いに基づいて演じることではじめて社会は創発され、社会的真理が生まれます。
何故貴方は創発性の話をここでされるのでしょうか。広松氏の共同主観の真理性の謂いは完全に誤りということでよろしいですか?

当方が思いますに、論宅さんは感情論を書かれているように思うのですよ。ブログの物象化についての記事を読んだのですが、その時はどのブログよりも論理的で素晴らしいと思うのですね。でもこと倫理に関しては思い入れを感じてしまいます。
Commented by merca at 2011-08-20 17:48
論宅です。
 倫理は、ローカルな現象ではありません。だからこそこれらの現象をとりあげたのです。中国人留学生と社長、ユダヤ人と杉原千畝、震災被災者と支援する外国人たちとの関係は、ローカルとは全く反対の現象です。グローバルであります。というのは、これらの援助関係は、一つのローカルな地域文化内現象ではなく、特定の文化=ローカルを越える現象だからです。一つのローカルな共同体の人間同士が同じ文化共同体に属する仲間を助けるのは当たり前ですが、自己の共同体に属していない他者を支援しています。異なる文化間の現象であり、もはや特定の文化に拘束されたローカルな判断を越えています。
 さらに、東洋文化に所属する中国人留学生にも、西洋文化に所属するユダヤ人にも、倫理的関係は創発されています。文化を越えて倫理的行為は認められ、ローカルとは全く逆です。
Commented by merca at 2011-08-20 17:48
「実際お金を落として届けたら「馬鹿じゃないの」という発想は珍しいものではありません。だって他人ですからね。」
 むしろ他者にもかかわらず、自分を助けてくれたというところに、純粋な倫理性の契機が存在します。仲間ではない他者が、何の自己の利益にもならないのに、救ってくれることに倫理性が宿ります。仲間しか自分を助けないという共同体的思考=認知の歪みを捨て去さり、再教育すれば、そういう人も感謝の念が湧くことでしょう。
 
 感情も、一つの認識作用です。例えば、音楽を聞くと色々な感情がわき起こります。音楽を聴くためには感情=心が必要です。感情でもって、人は短調と長調を区別することができます。音楽を認識するとは、自己に沸き起こる心=感情を知ることです。倫理や愛についても、感情で認識するものです。感情のない人は、倫理や愛を本当に知ることはできません。感謝の感情が湧いた中国人留学生やユダヤ人は倫理を認識したことになりますし、そのような感情をこれまた感情で知るということは極めて人間的な営みです。優れた文学作品=言語は、感情を他者に伝播します。自己の感情を認識の道具として活用できない哲学者・思想家はそもそも失格です。
Commented by merca at 2011-08-20 17:59
 広松氏の共同主観の真理性については、(共有/共演)あるいは(思うこと/語ること)の区別がなされていない論理であり、社会学的にはかなり不十分です。
 単に共通の観念や価値観を所有しており、それらの共同主観に規定されて行為するというのなら、人間はロボットと同じです。社会学でいうダブルコンテンジェンシーを処理することはできません。
 参照記事 
(共有/共演)
 http://mercamun.exblog.jp/7487895
 
Commented by たにぐく at 2011-08-21 05:18 x
>倫理は、ローカルな現象ではありません。
論宅さんが倫理を一般的現象として取り上げたのは分かります。しかしその例として何故個別的な中国人留学生の例を挙げたのか理解に苦しみます。また確かに日本を支援する海外の国はあります。それはメディアの伝えるとおりです。しかし例えばインドネシアで日本支援がありますが、それは人口比としてどれぐらいの割合ですか。またキリスト教の文化では汝の敵を愛せと共同体を越えて信仰心に基づいて支援します。これをいわゆる論宅さんの倫理に該当させないとするならキリスト教者の割合も踏まえるべきです。またもし中国人留学生が恩を感じなかったら論宅さんは取り上げましたか?個別的な事例として黙殺したのではと推測します。メディアは世界は一つを喧伝しますが、それは今の流れとしては当然のことです。メディアは分かりますが何故論宅さんが支援をしない人たちについては一切取り上げないのか不思議です。倫理現象が一般的で有るというのなら人口や宗教者の割合を追求してから説明するのが誠実さです。皆に倫理が内在するという事の証明がまだ何も成されていません。一方的勝利宣言は論宅さんとは思えない拙速だったと私は思うのです。
Commented by たにぐく at 2011-08-21 05:21 x
>むしろ他者にもかかわらず、自分を助けてくれたというところに、
>純粋な倫理性の契機が存在します。
純粋な倫理とは利己心のない純粋な利他心があるという主張なのでしょうか。

>仲間しか自分を助けないという共同体的思考=認知の歪みを捨て去さり、
>再教育すれば、そういう人も感謝の念が湧くことでしょう。
共同体外を救う気持ちが無ければ歪んでいるという前提がどこから来るのか分からないです。 

>共同主観に規定されて行為するというのなら、人間はロボットと同じです。
なんだか論点がずれているような気がします。ここで共同主観を出したのは創発性云々ではなくて中国人留学生やユダヤ人などの個別的な数少ない例で世界中が倫理に溢れているみたいな主張は整合性がないといったのですよ。確かに共同主観だけですと固まったアトムになってしまうのは分かりますが、短期的に見れば例えば「美女/不美女」は共同主観的に決定されているではありませんか。
Commented by たにぐく at 2011-08-21 05:25 x
>感情のない人は、倫理や愛を本当に知ることはできません。
これは分かるのですが、そもそも無いものを知ることも出来ないでしょう。まず前提を共有できる努力をされるのが筋だと思うのです。

>自己の感情を認識の道具として活用できない哲学者・思想家はそもそも失格です。
私は永井均は間違いの多い人だと思っていますが、ニーチェには賛同しています。彼は論理的な思想家であると思っています。価値観を伝播しないのは彼に間共同体的倫理が無いという判断が有るからで、彼のニヒリズムは敢えて論宅さんの言葉を借りるなら彼の倫理でしょう。

いつも当方の拙コメントにご返答いただき感謝しています。
Commented by merca at 2011-08-21 22:34
論宅です。
 少し観点を変えますが、困っている人を見たら、全ての人間が助け、そして助けられた全ての人は感謝する。このような倫理性が、中国留学生だけではなく、世界の全ての地域の人間に事実的行為として該当しないと、倫理の普遍性はあり得ないという考えですね。
 全てに該当しなければ普遍的ではないという考え=絶対主義は、自然科学の領域には通用しても、人間科学、社会科学の領域では通用しません。  もし全てに該当するのなら、人間は必然の因果律に支配されており、人に自由意思もなく、かえって自己選択性に基づく倫理性の本質を否定することになります。人間の行為は偶然であり、選択によって起ります。ですので、そもそも全てが同じように行為すること自体あり得ません。
 困っている人を助けるという行為を自動的に皆がするのなら、わざわざそれを伝える必要もないでしょうし、ありがたいとも思わないでしょう。他者の自己選択=自己原因によって、救われたからこそ、その他者にありがたさを感じるわけです。
 また、その行為に感動・共鳴した人たちは、自己もそうすべきだと思い、伝播していき、普遍性を獲得していきます。
 
Commented by merca at 2011-08-21 22:34
人は、善悪、利他のどちらも選択できるので、事実において善や利他が全てに該当することはありえません。自然科学的な意味での普遍性を求めること自体がナンセンスです。
 ところが、あなたが理想とする必然の全体性=同一性=普遍的真理ではなく、偶然に基づく無限性は求めることは可能です。偶然性というのは、そもそも可能性を意味しています。人は、利他的行為も、利己的行為もどちらも選択できる可能性があるということです。もし利己的行為しかできない人間がいたら、それはロボットです。自己選択性をもつ存在を人間と定義するのなら、全ての人間は利他的行為をする可能性と利己的行為をする可能性のどちらにも開かれています。このような可能態たる無限性としての普遍性が人間には与えられています。
 世界宗教が共同体を越えて伝播する普遍性も、このような人間の自己選択性による可能性に基づいています。
 中国人留学生や社長との関係、それに世界の人々からの支援やメッセージなどの、人々の倫理性も、選択肢の一つとして世界の人たちに伝播・連鎖していってます。この伝播・連鎖することが実は普遍性の証です。倫理性を選択肢として取り込んでいきます。
Commented by merca at 2011-08-21 22:35
「共同体外を救う気持ちが無ければ歪んでいるという前提がどこから来るのか分からないです。」
 仲間以外は自分を助けてくれないという固定観念は現実に即していません。現に他国の人間を救う人は多く認められます。端的に言うと、仲間以外は敵であるという共同体的思考で現実を歪めて認識しているということです。
 ニーチェほど、絶対的真理に憧れた思想家はいないと思います。ニーチェは自然科学とキリスト教を否定しようとしましたが、ニーチェ自身がそれらと同じ区別に準拠してしまっています。
 また、ある一点の論理的誤謬から全てを駄目にしています。さらに共同体を越えた倫理性が実は当の共同体を支えていることにも気づかなかったようです。
 しかし、ニーチェ思想の伝播力はすごく、あらゆる共同体を越えて支持を受け、論理的・実証的には誤謬ですが、思想としての機能的普遍性はあると思います。論理的、実証的には間違った思想でも、普遍的である一例です。
 このように異国の思想であるニーチェ思想があなたも含む多くの日本人たちに伝播して共鳴すること自体、皮肉なことですが、間共同体倫理の前提があることを証明しています。
Commented by たにぐく at 2011-08-22 02:19 x
論宅さんの教養の豊かさには圧倒されてしまいますが、論点とは異なる領域まで分析されてもそれは議論の前進にはなりません。私が言っているのは全ての人々が倫理的振る舞いをしなければ一般的倫理は実証されないということではありません。ある他者の不幸を見た際に起こりうる一般的な倫理的事実というものを正確に掴まなければ本質は見えてこないといっているんです。メディアは真実を伝えません、当然そこにはメディアの情報操作が見られます。論宅さんの倫理的事実の例は全てメディアの受け売りでしょう。正確に把握しないでどうやって倫理的事実を証明するのですか?中国人留学生ですが外国から来ている人間がそこで語れることとは?また元々ユダヤ人と日本人は友好的で河豚計画というのもありましたよね。これらとの因果関係は分かりませんが、少なくとも完全なる他者なのかはっきりはしません。世界的支援の輪ですが国際的な同調圧力も有るでしょう。宗教的な信仰も有るでしょう。世界共同体という想像の共同体に自尊心を置いているというのも有るかもしれません。繰り返しますと世界的な支援の輪の詳細な事例を挙げないのは不誠実です。
Commented by たにぐく at 2011-08-22 02:34 x
なんだが私が上手いことを言ったつもりがそれをそのまま論宅さんが使ってしまったようで困ってしまいます。勿論これはジョークなんですが(汗)。

さて、ニーチェに対する共感は私にとってはなんら感情的なものではなく、彼自身の主張と現実社会との整合性にであってなんら倫理ではないと思います。意味的な存在の批判はキルケゴールもフランクフルト学派も行っています。
Commented by merca at 2011-08-22 22:24
論宅です。
 「被災者の自意識も貴方の耳には情報を加工するメディアを通じて入っているのではないでしょうか。」
 あなたが言わんとすることは、それが個別であれ、普遍的であれ、事実を正確に把握しているかどうかということですね。
 あなたは、(間接的情報/直接的情報)という区別に準拠し、加工のない直接的情報こそが真実であるという立場をとっています。しかし、自分が直接的に知った情報よりも、他者から知った間接的情報のほうが真実である場合の方が多いのです。例えば、ある生物が雄かメスかという事実は、素人である私が直接その生物を見るよりも、生物学者に調べてもらったほうが確かです。つまり、多くの事象は、専門家に任せたほうが、私が直接調べるよりも正確です。リップマンの指摘するように、近代社会では、人々の世界は、直接体験した領域よりも、間接的な情報から構成された疑似環境のほうがあきらかに大きくなりますが、専門分化によって、その分、益々、間接的情報のほうが正確になってきます。
Commented by merca at 2011-08-22 22:25
 私が直接見聞きするよりも、明らかに新聞記者や報道記者や科学者のほうが、事実を正確に捉えているでしょう。事実を記述する専門的訓練を受けた専門家たちですから。
 このように、情報社会では、メディアを通した情報と直接体験した情報は、その優位性が転倒します。それが専門分化した後期近代社会のあり方です。あなたのように直接的に知った情報のほうが事実であるという思想は、現代社会の専門性の前に挫折します。専門家を利用して情報を収集することは、より事実に近づく手段です。メディアの加工こそがメディアの専門性であり、事実を伝えてくれます。メディアの加工を事実の歪曲としてしか考えられないのは、偏頗な物の見方です。
 さらに、ジャーナリストは、社会に役立つ視点でニュースをつくります。ですので、困っている人を支援しているという事実を伝え、より多くの支援を調達しようとするわけです。
 いずれにしろ、私は、多くの間接的情報で判断しているからこそ、事実に即して適切に判断しうるわけです。実は、社会学的には、メディアの加工はメディアの機能なんです。
Commented by たにぐく at 2011-08-23 03:46 x
論宅さん

前回指摘したような論点ずらしで終始していて非常に残念です。論宅さんの言われる加工されたメディアの情報の正確性というのはよく分かりました。では伺いますが、前にも言いましたとおり韓流ブームを国民的大人気のように装って情報操作しているのではないか、ということが最近言われていますがご存知でしょうか。事実は別にして、その様な態度は情報を加工し正確にするという側面同様に存在しうる可能的側面です。またマスコミが社会悪に対して感情浄化を与えるために過剰に犯罪者を悪にしたてるのは、論宅さんもご存知だと思います。この様にメディアの正確性にのみに拘泥するのはおかしな話しでしょう。そこでもう一度当方の問いに戻りたいと思うのですが、メディアにも立ち位置があるので必ずしも正確さを追求するのではないということ、そして今回の場合は論宅さんも言われている通り社会に役立つ視点でニュースを作っている以上は情報操作があるのです。
Commented by たにぐく at 2011-08-23 03:50 x
だから阪神大震災では都合悪い事実は全て自発的に口をつぐみました。被害者はより大きな被災者の為に踏みつけにされました。犯罪者は過剰に叩かれ怪物にされてしまい、その家族は「報道されている人間像と私たちの知っている人間像は全く違う」と正確さは微塵もありません。今回の件もそう、何かにつけ美談にしようとしていることをしっているのに倫理の存在を信じる論宅さんが、非論理的に情報をそのまま受け入れてしまったのではないか、と私は思うのです。中国人留学生然り、ユダヤ人然り、世界的支援の輪然りです。倫理の勝利というにはまだ拙速すぎます。勘違いされないでください、倫理の勝利の可能性を否定しているのではないのです。ただ今ここで勝利を宣言するには根拠薄弱だといっているだけです。最後に私は情報は全て虚構といったわけではなく、これだけ情報の胡散臭さがいわれている中で疑うということも必要だといっているだけですのでどうか誤解されないでください。それではご返答よろしければお待ちしております。
Commented by merca at 2011-08-24 23:15
論宅です。
 あなたは、(現実的可能性/論理的可能性)の区別のうち、論理的可能性のみに準拠し、立論していますが、そのことに気づいていません。
 確かにマスコミが嘘を流す可能性と事実を流す可能性は、論理的には二分の一ですが、現実的可能性は異なります。あなたは、マスコミの情報は嘘である可能性は半分あるのに、なぜ私が安易に受け入れているのかと言いたいのでしょうが、その考えは確率論を無視した抽象的で非論理的な考えです。
 私は、現代社会では、マスコミが嘘を流す確率よりも、事実を報道する確率の方が高いと考えます。ですので、確率論的にはマスコミを信頼し、情報を受け入れることになります。これは確率に基づく極めて論理的な態度です。
 例えば、明日通勤電車が動く確率は、過去の運行状況からして、明らかに動かない確率よりも高いわけであり、人々はその確率に基づいて行動し、生活をしています。これは確率に基づく現実的可能性を考慮した論理的な行動です。
Commented by merca at 2011-08-24 23:20
明日電車が動かないという極めて少ない確率を信じるわけにはいきません。確率が高いほうを信頼するのは論理的ですので、電車は動くということを人々は受け入れます。それと同じであり、マスコミが嘘をつく確率よりも事実を報道する確率のほうが高いので、マスコミを信頼するのは極めて論理的です。このような確率論を無視して全てを二分の一の確率で考えるあなたのほうが非論理的、非科学的であるわけです。
 マスコミの報道が嘘で裏切られた体験よりも、そうでない体験の方が圧倒的に多いです。また、嘘を流すとマスコミは社会的に避難されます。このように一般に報道の専門家であるマスコミが嘘をつく確率は低いので、今回の中国人研修生が助けられた話を事実として受け入れることは極めて論理的であり、根拠があるものと言えましょう。
 確率を無視して他者の主張を何でも相対化しようとするあなたの態度が理解できません。倫理の存在が確かであることがそんなにあなたの自尊心を破壊するものなのでしょうか? ある物事を信じて絶対化している人間をみたらむかつくという現象=ニヒリスティックルサンチマンという社会病理に犯されていると思います。
Commented by たにぐく at 2011-08-26 02:28 x
>倫理の存在が確かであることがそんなにあなたの自尊心を破壊するものなので
>しょうか? ある物事を信じて絶対化している人間をみたらむかつくという現象=
>ニヒリスティックルサンチマンという社会病理に犯されていると思います。
論宅さん、貴方の今回のこの指摘も根拠が薄弱ですね。倫理に関しても根拠が無くずっと誤魔化してばかり、そして追い詰められると今度はルサンチマンの烙印を押し病人扱いですか。私は貴方が病人とは思いませんが、今回の指摘は貴方自身にこそ当てはまります。病人だという根拠も無く病人だと決め付けたいところに論理ではなく貴方自身の信仰がある。倫理の存在も無根拠に謳いあげて一方的な勝利宣言はカルト宗教の「我々は勝利者」「最高ですか」と同じでしょう。まるで論理の呈をなしていません。貴方自身が本当に論理に誠実であるなら薄弱な根拠を強化するように努めるべきです。そしてそれが上手くいかないならば自らの論理の出鱈目さを認めることが誠実さなのです。倫理の存在が不確かであることがそんなに貴方の自尊心を破壊するものなのでしょうか?
Commented by たにぐく at 2011-08-26 02:29 x
>あなたは、(現実的可能性/論理的可能性)の区別のうち、論理的可能性のみ
>に準拠し、立論していますが、そのことに気づいていません。
全くその様なことはないですよ。確かに日々流すニュースに私は信頼を置いて生活しています。しかしそれは文脈次第です。日々の生活の中で例えば通勤電車が動く確率に関しては問題が無いと思っています。しかしそういったことと今回のことを並列に考えることこそ現実を見逃しています。

>マスコミの報道が嘘で裏切られた体験よりも、そうでない体験の方が
>圧倒的に多いです。
文脈が無視されていますね。では某テレビ局は韓流ドラマの過剰放送を否定したので「他のニュースと同じノリ」で許されていますか?

>嘘を流すとマスコミは社会的に避難されます。
これも一般論ですよね。美化しなければむしろ非難されることだってあるでしょう。もし被災者の悪口を事実に基づいているとはいえ書けばどうなるでしょうか。つまり嘘をつかなければ社会的に非難されることもありうるのです。中国人留学生の話を一般的ニュースと同じように受け入れることは、考える力のない人のすることです。論宅さんにその様な力が無いとは思えません。
Commented by たにぐく at 2011-08-26 02:29 x
泣いてバショクを斬るという言葉もありますが、バショクは現実を見逃して策に信頼を置いてしまい優秀であるにも拘らず失敗しその責で斬られました。論宅さんも「何故か」論点とは直接かかわりのないことまで教養を出されて論点がぼやけることが多々あり、今回も教養に溺れられてその個別的な文脈を見逃しているように感じられます。いや、そうではなく「何故か」大切なものを守る為の論理の外皮で覆っているように思える。その理由は倫理信仰です。倫理の存在に自尊心を置いて生きているからです。それは自由ですがそれを論理の殻で覆い論理的で有るように振る舞えば見透かされて論破されることもありますよ。私なんかでも簡単に見抜けたのですから宮台氏だったら貴方と議論したら秒殺するでしょうね。信仰を否定しませんがネットで発言する以上は反論されることもありますし、論理的なふりをして騙している以上はそれに抗議することもあります。因みに私は倫理の有無に自尊心を置いてはいません。最初から全く平静です。
Commented by merca at 2011-08-26 08:30
論宅です。
 中国人研修生を助けた水産加工会社の専務さんのニュースを一般のニュースと区別しなければならない論理的な根拠を見いだすことのほうが難しいように思えます。
 しかし、この二ュースが不都合な人たちが一部いることは事実かもしれません。例えば、反中感情をもつネット右翼の方々です。中国人は倫理的・道徳的に劣っており、利己的で野蛮であると考える人たちです。そのような人たちにとって、助けてもらったという行為に恩を感じる中国人の倫理的な姿を受け入れると、認知不協和を起こし、自らの思想を否定することになってしまいます。ですので、不都合な情報として排除することになります。
 「他のニュースと同じノリ」で許されないとしたら、かえって中国人に対する偏見を優先させて事実を歪めて相対化する人たちの存在です。
 あいにく、私は中国人は利己的であり非倫理的でなければならないという固定観念は特にないので、やっきになって中国人研修生が助けられたニュースを否定する必要はありません。
 もしあなたがこのニュースの美化を否定するのなら、事実に根拠があるのではなく、あなた自身の価値観に問題があると言えるでしょう。
Commented by merca at 2011-08-26 08:59
マスコミの事実報道をどのように評価するのかは、受け手に委ねられています。事実を解釈して評価する権利は、受け手である我々にあると言えます。震災で困っている人たちに支援や祈りを捧げる人たちの報道を見て、多くの人たちが倫理的だと評価しているからこそ、ボランティアもかけつけ、支援の輪が広まっているわけです。被災者を援助する行為を偽善として解釈・評価する人たちが多数であれば、このように広がってません。
 あなたは、(送信者/受信者)という区別を度外視されているように思えます。マスコミの加工よりも、その解釈者である受信者がどう評価するのかという問題を送信者であるマスコミ加工になすり付けています。
 例えば、サッカーで日本が勝って韓国が負けたというマスコミの事実報道は、日本と韓国では異なって受け取られます。事実は一つでも、美化するか貶すかは、受け手に委ねられています。今回の中国人研修生のニュースを美化したくない価値観があなたにあるだけの話です。美化する=評価するという次元は、受け手の次元の評価の次元の話であり、事実の次元とは異なります。
Commented by merca at 2011-08-26 10:29
 残念ですが、これまでの議論で、あなたの思考は私には非常に非論理的にうつります。
 私は、多元的な論理(専門性や確率論)やその事例から、自身がマスコミ報道を受け入れる根拠を示しましたが、あなたがそれを否定する強い根拠が示されていません。
 勝利宣言は私の一方的なものではなく、中国人研修生の二ュースについてはネットで「被災の前には、国を越えて人間である」とか「愛は国境を越える」とか讃辞が飛び交っています。私の一人の主観だけはないのに、私の主観や信仰だけであるかのように断定する根拠がどこにあるのか知りたいです。あなたの論理は極めて非論理で不誠実です。
 参考
 http://news.ameba.jp/comment/20110321-55/?pageNo=5
 そうでない人もいますが、肯定的に捉えている人、あるいは「愛は国境を越える」と感じている人は多くいます。倫理を感じるのは私一人だけではないことは確かです。私一人だけでの一方的勝利宣言だという証拠はどこにあるのでしょうか?
ネットを見る限り、あなたの主張は反証されます。にもかかわず、私に対する先入観だけで判断しています。追いつめられているのはあなたのほうです。
 
Commented by merca at 2011-08-26 10:33
 あなたの非論理性こそ何かの価値信仰に基づいているしか思えません。私を云々するよりも、あなた自身の価値観や思想がどのように形成されたか自己を見つめ直したほうがよいと助言します。
 さらに論理が人や文化によって多様であるという現実を打開するのは、論理ではなく、むしろ感情や倫理の次元だということを知っておくべきでしょう。論理的には解決できないことも、倫理や感情によって克服されます。また、全てに論理的根拠がないといけないという思想も偏っています。
 もしあなたがブログをもっているのなら、教えて下さい。どのような思想を背景に主張しているか知りたいです。そちらにコメント屋としてコメントしたいです。
Commented by とーりすがり at 2011-08-28 22:22 x
見たいものを見るって楽しいですよね。自分の理論を後押ししてくれる気がしますもん


視野が狭いというか、もうちょっと色々な知識を仕入れて、視点を多く持ってみたほうがいいのかもー
Aの現象にはBという原因がある!それが全てだ!っていうのは現実的になかなか無いですもんね・・・


なんて、色々な記事から受けた個人的な印象を語ってみたり。
Commented by たにぐく at 2011-09-02 03:11 x
すみません、旅行に行っていたので書き込みが遅れました。

論宅さん

>例えば、反中感情をもつネット右翼の方々です。
まず私も反中感情や右翼的な思想は持ち合わせていないと思います。韓流の問題も右翼的な観点で言ったわけではありませんので、どうか誤解のないようお願いします。

>やっきになって中国人研修生が助けられたニュース
>を否定する必要はありません。
私からすると貴方こそやっきになって肯定しようというのが分からないですね。阪神大震災のときの被災者による犯罪やネガティブなコミュニケーションを知っている私としては、その教訓を生かして今回も見ています。

>中国人研修生を助けた水産加工会社の専務さんのニュースを
>一般のニュースと区別しなければならない論理的な根拠を
>見いだすことのほうが難しいように思えます。
美化することを理解している以上は全面肯定ではなく、一定の懐疑を持つのはそれなりの感性を持っていれば当然の態度です。でも勘違いしないでください、私は貴方の倫理の根拠を薄弱だと言っているだけで論理的根拠無しといっているのではないのですよ。倫理はあった!と勝利宣言をする以上はその根拠が薄弱では駄目でしょう。
Commented by たにぐく at 2011-09-02 03:13 x
>事実に根拠があるのではなく、あなた自身の価値観に
>問題があると言えるでしょう。
貴方はレッテル貼りばかりしますが、貴方自身がそういうことにしたいだけではないですか。価値観に問題が有るって何を根拠に反中や右翼にしたがるのか意味が分かりません。私は美化するということがある以上は懐疑の目を持つべきと根拠だてて話していますし、倫理はなかった!と貴方のように吹き上がったりはしません。

>多くの人たちが倫理的だと評価しているからこそ、
>ボランティアもかけつけ、支援の輪が広まっている
>わけです。
かつて阪神大震災で駆けつけたボランティアの若い人たちは、ほとんどが自分探しできていました。今回はまだ分かりませんが、集まっているだけで倫理的に皆が来ていると思うのは倫理信仰です。
Commented by たにぐく at 2011-09-02 03:15 x
>マスコミの加工よりも、その解釈者である受信者が
>どう評価するのかという問題を送信者であるマスコミ
>加工になすり付けています。
送信者に問題は一切ないといわれるのですか?受信者だけとお考えならそれこそ抜け落ちがあるのでは?それに私は貴方自身に倫理信仰があるといっているのですからこれは送信者を問題にしています。どうか勝手に私が中国人留学生の発言を全面否定している、とか送信者しか問題にしていない、とか右翼である、とか決めるのは辞めてください。

>今回の中国人研修生のニュースを美化したくない
>価値観があなたにあるだけの話です。
全然違いますよね、貴方が盲目的に美化したいだけです。私は肯定も否定もしていない。肯定して一方的勝利宣言をしているのは貴方であり非論理的な価値観に準拠しているのは最初から貴方だけですよ、論宅さん。
Commented by たにぐく at 2011-09-02 03:15 x
>私は、多元的な論理(専門性や確率論)やその事例から、
>自身がマスコミ報道を受け入れる根拠を示しましたが、
>あなたがそれを否定する強い根拠が示されていません。
貴方のは一般論で、現実が見逃された策士策に溺れるの机上の空論です。それに私は貴方の全面肯定を否定はしても、例えば報道される中国人留学生の発言を全面否定したことなど一度としてありません。

>私一人だけでの一方的勝利宣言だという証拠はどこに
>あるのでしょうか?
貴方一人だけが倫理の存在を肯定している、なんて私は言いましたか?少なくともこのブログにおける貴方の発言は子供じみたもので根拠も薄弱でとても論理といえるものではない、もし証明したいなら根拠を強化すべきといっているだけです。ユダヤ人だって何故親ユダヤが抜け落ちているのか意味が分かりません。もう一度言いますが私は貴方の主張を全面否定する気はないし全面肯定する気もありません。倫理の存在を否定しているのではなく、倫理の存在可能性は認めると前にも言ったではありませんか。
Commented by たにぐく at 2011-09-02 03:18 x
>追いつめられているのはあなたのほうです。
では感情的にレッテル貼りをせず冷静にお願いしますよ。

>論理ではなく、むしろ感情や倫理の次元だと
だから倫理に自尊心をおいていることを貴方に指摘しているのですよ。論理の外皮でいくら覆っても誤魔化せるものでは無いのです。

>もしあなたがブログをもっているのなら、教えて
>下さい。どのような思想を背景に主張しているか
>知りたいです。そちらにコメント屋としてコメント
>したいです。
思想の背景と議論における主張の論理性は関係がありません。そうではなくて問題がここで立ち上がっているのですからここで解決するのが筋です。他のことに目が行くのは粗を探して叩きたいようにしか見えないんですが。倫理信仰があるがゆえに貴方は薄弱な根拠でつい勝利宣言などと大仰なことをしてしまった。そこで私自身の指摘でそれを自覚したならば、貴方が誠実な人であるならそれを受け入れて宣言は拙速で行きすぎであったことを認めるべきです。そこから倫理を強化するのもよし、とりあえずおいておくのもよしです。自尊心を守るためだけにいたずらに努力する人こそニヒリストそのものではありませんか。
Commented by merca at 2011-09-02 21:12
 論宅です。
 根拠と信仰の区別がなされていません。根拠が薄弱にこだわっているようですが、そもそももし私が倫理信仰を前提として、主張しているとしたら、信仰なので、最初から根拠などあり得ません。信仰は、根拠によって証明されるものではないからです。例えば、神の存在を根拠づけることが必要なら、神よりも根拠のほうを信じていることになります。これは本末転倒となります。
 根拠を求める場合は、その根拠が正しいという共通の認識が互いにないと議論は成り立ちません。私とあなたでは、共通の前提がないと考えられます。現代のマスコミの情報に真理性、正当性があるとする私の考えと、あなたの考えが異なるということです。

Commented by merca at 2011-09-02 21:41
さらに、「美化することを理解している以上は全面肯定ではなく、一定の懐疑を持つのはそれなりの感性を持っていれば当然の態度です。」と言われていますが、
 疑うことは感性の問題であり、論理の問題ではないとあなたは主張しています。疑うことと信じることは表裏一体の心理作用であり、信じることも同時に感性の問題となります。結局、あなたの考えは論理的ではなく、感性的なものとなり、信仰と同次元です。
 要するに、美化することを胡散臭いと思う感性から判断しており、あなたはなんら論理的ではありません。論理を装っているのは、あなたのほうと言えるでしょう。あなたは自己の感性を論理のように装っているだけです。私は、専門性と確率論という論理でもって、主張しています。中国研修生のニュースに対して、感性で疑っているあなたと、論理で受け入れている私とは自ずと区別されます。
 端的に言うと、私の根拠があなたに薄弱に思えるのは、あなたの感性が邪魔しているからです。
Commented by merca at 2011-09-02 21:41
 社会学的には、一人の人間の感性や論理は、自分が読んだものや学んだものから影響を受けます。あなたが書いたブログを読むことで、なぜ私が根拠薄弱だとあなたが思うのか理解することにつながります。私にあなたのブログが読まれるとまずいのでしょうか?
マスコミに対する不信感などについて、あなたの考えがわかれば、私の理解も進むと思います。少なくとも、あなたから見たら根拠薄弱に見える理由がわかると考えます。このままでは、あなたの視点に立つことができません。あなたがどのような区別に準拠して私の主張を解釈しているのか知ることがないかぎり、私は納得しないでしょう。視点の相互性を互いにもつべきです。
Commented by たにぐく at 2011-09-02 23:44 x
>根拠が薄弱にこだわっているようですが、そもそも
>もし私が倫理信仰を前提として、主張しているとしたら、
>信仰なので、最初から根拠などあり得ません。
いったい何の話をしているのですか?私は何も難しいことをいっているわけではないのですが。いいですが、私は信仰に論理的根拠を求めてなど一切ないです。いつそんなことを指摘したというのでしょうか。私はあなたが論理を振りかざした上で倫理の勝利を謳ったので、根拠薄弱だから勝利宣言は早すぎる、それでも勝利だと言い張るならそれは信仰だ、もし論理に誠実であるなら信仰ではなく根拠強化に努めるべき、といっているだけです。あなたは論理で語っているのですよね?もし「信仰です」というのなら話は終わりですよ。でもあくまで「論理です」というのなら話は続きます。

>信仰は、根拠によって証明されるものではないからです。
当たり前ですよ、誰もこれに反論はしません。
Commented by たにぐく at 2011-09-02 23:45 x
>私とあなたでは、共通の前提がないと考えられます。現代
>のマスコミの情報に真理性、正当性があるとする私の考えと、
>あなたの考えが異なるということです。
だから現代マスコミに真理性があるか否かも含めて議論しているのではないですか。

>疑うことは感性の問題であり、論理の問題では
>ないとあなたは主張しています。疑うことと
>信じることは表裏一体の心理作用であり、信じる
>ことも同時に感性の問題となります。
ちょっと待ってください。言葉の問題へとスライドさせるあなたのやり口は別にして、そこで質問があるのですが、あらゆる個人の感性から離れた判断というのが論理的にありうるのでしょうか?ウェーバー知ってますよね?
Commented by たにぐく at 2011-09-02 23:45 x
>端的に言うと、私の根拠があなたに薄弱に思えるのは、あなたの感性が邪魔しているからです。
つまりもう根拠はない、一般的にニュースは信じられるしそれゆえ中国人留学生の話は間違いないし、ユダヤ人の話も親ユダヤ政策なんてどうでもいいし、世界中の人々が支援しているのは信じているという次元ではなく感性をまったく寄せ付ける余地のない倫理を実証する論理的根拠である、とそういうことですか?

>なぜ私が根拠薄弱だとあなたが思うのか理解する
>ことにつながります。
何故そう主張するのか分かったところでそれがどうかしたというのでしょうか?
Commented by たにぐく at 2011-09-02 23:46 x
>私にあなたのブログが読まれるとまずいのでしょうか?
あなたの中では私はすでにブロガーなんですね(汗)。関係ない以上この件について語ることはないです。視点の相互性ってまったく不協和は今のところ現れていません。あなたが反論をなぜか止めて話をはぐらかしているだけです。とりあえず信仰なのか論理なのか、もう根拠があるのかないのか、もしよろしければご回答していただきたい。議論の終わりは見えてきました、後はあなた自身の闘いと思います。教養に見合う人間性を身につけていただきたい。
Commented by merca at 2011-09-04 11:08
 論宅です。
「もし論理に誠実であるなら信仰ではなく根拠強化に努めるべき、といっているだけです。」
 事実かどうかの根拠と、その事実をどう価値判断するのかは、区別されますが、事実かどうかの根拠は、社会学の立場からは、現代社会におけるマスコミの専門性・確率に基づく信頼性によって担保されていると考えます。あなたがこだわっている事実の美化については、受け取る側の価値判断の次元であると考えています。誰かが人を助けたという事実報道を見て、それが素晴らしい善行であると価値判断するのは、事実を知った受け手のほうです。今回の中国人研修生のニュースも、事実を伝えるとともに、その事実に対する人々の反応も伝えられています。事実そのものの加工と、事実に対する評価つまり美化とは、区別して考えるのが理性的な立場です。価値判断は感性の問題であり、事実判断は理性の問題です。あなたは、美化という価値判断の問題を事実判断の問題と混同されています。
 人々の価値判断である美化に根拠を求められても困ります。
Commented by merca at 2011-09-04 14:36
「かつて阪神大震災で駆けつけたボランティアの若い人たちは、ほとんどが自分探しできていました。今回はまだ分かりませんが、集まっているだけで倫理的に皆が来ていると思うのは倫理信仰です。」
 自分探しと倫理は矛盾するものではありません。そもそも、他者との関係性で自分は確認されます。生の倫理的関係を通じて、他者から意味付与された倫理的な自分を感じることは悪いとは思いません。
 ボランティアや社会奉仕活動が自我を確立する上で必要だとして、学校教育に導入されています。人間科学的な根拠があります。
 端緒の動機は何であれ、一度他者を支援する関係の中に自ら投げ込むことで、倫理的関係が創発されます。
 自分探しのために震災ボランティアをしているので評価できないという捉え方は、それこそ俗流若者論の典型です。どこの評論家の意見でしょうか。ボランティアを評価するのは、支援を受けた被災者のほうです。評論家ではありません。
Commented by merca at 2011-09-04 14:49
 「そこで質問があるのですが、あらゆる個人の感性から離れた判断というのが論理的にありうるのでしょうか?ウェーバー知ってますよね?」
 事実判断は基本的には、感性から離れた判断となります。例えば、一つの荷物と二つの荷物を合わせると、三つの荷物になります。このような数学的な判断は、物理的リアリティといい、個別的な感性に左右されません。感性から離れた理性による判断も論理的にはあり得ます。
 また、「リンカーンは暗殺された」とか「広島に原爆が投下された」とかという事実判断にも、感性は入る余地がありません。同じく、誰かが人を助けたというニュースも同様です。事実に関して議論が起るのは、感性に左右されない一つの客観的事実があると考えるからです。もし事実が一つという観念がなければ、事実を巡っての議論そのものがあり得ません。私とあなたの間で行われている「水産加工会社の専務さんが中国人研修生を助けた」という事実が本当かどうかの議論もそもそもないわけです。事実判断を感性の問題であるとするあなたの立場からは、事実に関する議論はナンセンスとなります。
 
Commented by merca at 2011-09-04 16:40
杉原千畝のユダヤ人救出の決断については、NHKのドキュメンタリーでもありましたが、国家の命令とピザ発給で悩み、杉原自身の手記に「私はついに人道主義、博愛精神第一という結論を得ました」とあるようです。自身の決意がこのような人種や国家を越えた博愛主義にあるのなら、結果だけではなく、博愛主義ですから動機においても倫理的だと言えましょう。手記が捏造されたという根拠を示さない限り、現状では倫理的だと言わざるを得ません。根拠薄弱だという方が非論理的だと思います。何の物的証拠もなしにNHKの報道を否定したら、名誉毀損になると思いますよ。
 やみくもに事実をねじ曲げて、人道主義や博愛主義という共同体を越えた倫理の存在を相対化しようとする人たちのほうが怖いです。
Commented by merca at 2011-09-04 16:55
 これまでの議論の中で、一つだけ、あなたの主張が有利になる歴史的事実があるとしたら、関東大震災の際に朝鮮人を虐殺したことです。震災が起っても、人は助け合わず、むしろ悪行をするということです。
 しかし、朝鮮人が暴動を起こすというデマが流されており、それを人々が信じたことに原因があります。震災が起らなくても、そのようなデマが流れたら、同じような行為をすると考えられます。震災ではなく、デマが原因です。
 現代のマスコミのように事実の裏付けをとって報道するという専門性をもっておればよいのですが、それを欠いた社会では、このようなデマを防ぐことが困難であったと推察されます。私も多くのジャーナリストから取材を受けてきたことがありますが、現代の記者たちは基礎的な訓練を受けていますので、きちんと裏付けをとって記事にしています。でないと、誰も新聞を買わなくなるでしょう。私は、現代のマスコミは、基本的に信頼しています。
 ちなみに、韓国で「日本のシンドラー」と呼ばれている弁護士・布施辰治は、人道主義と博愛主義から朝鮮の人々を救うという倫理的行為を実践してきました。これも人道主義や博愛主義という共同体を越えた倫理の実例です。
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