世界とは何か?

 世界あるいは宇宙は、一つの全体性=同一性ではない。そのような全体性や同一性を越えたところに世界はある。もしかりに世界が一つの同一性であるのなら、その同一性を根拠付ける外部が必要となり、世界に外があることになる。世界の外があると、世界は世界足り得なくなる。世界とは、一切であり、その外に出ることができないから世界なのである。世界は、内外の区別を越える真無限である。
 また、世界は場所であり、実体ではないので、本来、主語化できないものである。世界は主語化された途端に、一つの実体となり、世界足り得なくなるのである。つまり、「世界はこれこれだ」と述定した途端に、世界に同一性が付与され、世界は世界でなくなってしまい、世界は捉えられなくなってしまう。つまり、原理的に、世界は決して認識することはできないのである。認識できはしないが、それがあることを私たちは知っているのである。このような世界に対する知は、科学的知識の外にある。科学が宇宙がこれこれだと分析した途端に、宇宙は宇宙でなくなるのである。宇宙は認識作用ではなく、別の仕方で感じ取るものなのである。認識作用ではない知を人々は忘れており、科学のような認識作用のみが知である勘違いしているのである。

 しかし、強いて言うと、世界とは、一切と一切の関係であり、万物はその関係項である。ライプニッツのモナド論や仏教の事事無碍法界が世界論を正確に捉えている。またルーマンは、世界を無限なる複雑性として捉えた。このような哲学者たちの知は、科学のような認識作用による知ではなく、生得的な直観知によって得ているのである。
 世界論では、世界は、それぞれの万物の唯一性によって成り立っていることになる。それぞれの万物に区別がないのなら、世界は同一化してしまい、世界は世界足り得なくなる。無数の万物が世界の無限性をもたらすのである。
 
 星空を眺めたときに、我々は一つの全体性ではなく、無限性として世界・宇宙を感じる。その無限性は、無数のそれぞれの星が輝いていることからくる。星が一つもない暗闇という同一性に世界を感じるのではなく、無数の星の存在があることに世界の無限を感じるのである。世界という感覚は、そのように感受される。それが生得的な直観知である。
 
 社会も一つの世界だと考えると、この生得的な直観知は、人類社会=世界社会=万人と万人の関係を知る場合にも、必要となってくるのである。ある種、認識作用を越えた知でもって、世界社会を観察するのが、理論社会学の要諦である。世界社会の無限性を考えるときに、無数の人々の行為やコミュニケーションのそれぞれ性、唯一性こそが必要となる。
 今回、世界社会は、国民社会を越えて、東日本大震災において海外から支援や励ましのメッセージが届き、それに感謝する被災地との倫理的コミュニケーションにおいて、創発されたことが観察できた。そのメッセージの唯一の無数性が世界社会の無限性を支えているのである。ともあれ、そのような世界社会を観察する知は、ある意味、直観知であり、社会学玄論の玄とは、そのような玄妙な知を意味するのである。

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by merca | 2011-09-10 08:43 | 理論
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