善悪(利他/利己)の対称性の破れ

 一応、善を利他と定義し、利己を悪と定義して考えてみたい。時折、人間は、善=利他心と悪=利己心の駆け引きが心の中で起り、行為の選択を迫られる。所謂、良心の呵責である。そして、天使と悪魔のささやきのどちらに組するのか決めるのは、本人自身である。実は、この自己選択性こそが倫理的行為の大前提である。
 他者論的倫理学からすると、天使の声とは、端的に他者の声と言えよう。助けを求めている他者を自己の都合をよりも優先させたり身代わりになって助けるかどうかの決断を迫られるわけである。自己の都合を優先させると、悪をなしたことになり、自己を犠牲にして他者を助けたら善をなしたことになる。
 
 いずれにしろ、人間は性善説でも性悪説でもなく、悪と善を含みつつも超越し、選択できる立場にあるというわけである。もう少し言うと、悪の心を完全に排除した善行は、善悪に関する選択性を欠くことになり、倫理的行為とはならない。悪の誘惑を断ち切って善を選択したときにこそ、本当の意味での尊い善行=倫理的行為となる。
 人間は性善説でも性悪説でもないと言ったが、善が悪よりも少し勝っているのが人間的真実である。この対称性の破れを説明しよう。善と悪の心が人間にあり、もし勇気を持って善を選択したのなら、一時的な自己の利益は失うが、悔いは残らず、すっきりと人生を歩むことができる。しかし、もし悪を選択したら、一生自己の善の心によって罪悪感に苛まれることになるのである。悪を選択しても、最初から善の心がある以上、罪悪感が人を責め続けるのである。戦場で上官の命令でやりたくない殺人をやってしまった兵士は、一生罪悪感で苛まれるのである。それは、悪をなしても、もともと善の心があるからである。罪悪感と償いの感情は利他心の現れである。この意味で、選択性に基づく悪は、善悪の葛藤のない単純な善行よりも倫理的である。ある意味、選択性があれば、善悪ともに倫理的行為である。そこで、次のような価値序列を立ててみた。
 
 選択性を媒介とした善行が一番目に価値があり、選択性を媒介とした悪行は二番目に価値があり、選択性を介在としない善は三番目に価値があり、選択性を介在としない悪は一番価値がない、という道徳的価値序列をつけることができるのである。
 良心の呵責や罪悪感なしに人を殺す者は最低である。かたや、自己の所属する共同体からの制裁(悪の誘惑)があるにもかかわらず、あえて他者を助ける者こそ、最高善をなすものであり、この世で一番美しい倫理的行為なのである。罪悪感をもちつつも悪をなしてしまった凡人たちは、この最高善をなした者を敬い、信仰するのである。それが許しとなるのである。ニーチェはこのことに最後まで気づかなかった愚か者である。

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by merca | 2012-11-30 11:12 | 反ニーチェ | Comments(1)
Commented by 正論者 at 2014-04-01 14:50 x
正しいのは善悪(利己/利他)だろうが!
調子に乗るなやカス野郎 コラ
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