思想としてのエビデンス主義

 科学的事実には、科学的根拠としての証拠=エビデンスが求められる。エビデンスがない仮説は、科学的事実の権利が認められない。仮説が科学的事実として見なされるためにはエビデンスが必要であるという思想のことをエビデンス主義という。そして、現在、この思想が絶対化されている。

 通常、エビデンスは、三種類が存在する。論理的根拠、規範的根拠、実証的根拠である。
 論理的根拠とは、三段論法でいうところの大前提と小前提にあたる。「ソクラテスは死ぬ」という命題が真である論拠は、大前提である「人間は死ぬ」と小前提である「ソクラテスは人間である」という命題が真であることである。この場合、実証されなくても、論理的必然性をもって結論が真であると導きだせるわけである。
 また、「AはBより大きい」という命題は、「AはCより大きい」と「CはBより大きい」という命題が真であれば、論理的根拠となる。ある命題の正しさは、実験をせずとも、別の命題の正しさによって証明されるわけである。複数の正しい別の命題との関係性から、ある一つの命題の正しさを導き出すことを論証といい、その根拠を論理的根拠という。論理的根拠もエビデンスの一つである。
 次に、規範的根拠とは、決められた規則や手続から逸脱していないことである。例えば、刑事裁判では、脅迫して自白させた供述や違法捜査で収集した証拠は採用されない。また、科学的実験の結果も、学会の示した厳密な手順に従っていないものは排除される。要するに、正しい規則や手続に従っているということがそのまま命題の正しさの証拠となるわけである。違法な捜査や間違った方法で得られた知識でないことが、エビデンスとなるのである。
 ちなみに、専門家が発した知識だから正しいと考えるのは、専門家が正しい知識を獲得する手段を使用していると人々が思っているからである。権威のある学者の論文を引用して自説の正しさの根拠とするのは、規範的根拠の一例である。文科系の学術論文の中には、この種の引用を多用することで、構成されているものが多い。
 最後に、実証的根拠とは、仮説を実証する実験結果や観測結果のことをいう。自然科学では、各種実験によって仮説の正しさを実証することになる。医学では、臨床実験を繰り返し、仮説の正しさを立証する。社会科学では、社会調査によって社会現象を観測したり、既存の調査の結果によって、自説の根拠とする。
 
 このうち、科学が採用する根拠、すなわちエビデンス主義の唱えるところの根拠とは、実験と観測による実証的根拠をさすことは言うまでもない。論理的根拠と規範的根拠もエビデンスであるのだが、なぜか実証的根拠のみが重宝されているわけである。さらに、実証的根拠がないものは全て科学的事実から排除され、非科学としてレッテルを貼られることになる。
 しかし、実は、エビデンス主義が、真理の対応説ではなく、究極的に真理の合意説に基づいていることはあまり知られていない。つまり、科学的事実にエビデンスがあっても、本当は対象と認識が一致した真理であるというわけではないのである。
 科学的事実は、自然界の現象を写し取った正しい認識ではなく、自然界に対する一つの確率論的解釈なのである。結論から言えば、ある一定の高い確率で起る現象について科学的事実として認定しましょうという科学者集団の合意によってあたかも真理のように一般化されているだけなのである。
 どのような確率で起ったら科学的事実と見なすかは、自然界が決めたものではなく、人間が勝手に決めて合意しただけであり、事実判断に価値判断が混入しているのである。医療におけるエビデンスレベルという考え方にそれは顕著に反映されている。医学的に有用かどうかの視点から、合意の上、科学的事実として採用するかどうか決めているにしかすぎない。

 もう少し詳しく説明しよう。エビデンス主義は、実証的根拠となる実験や観測について、決定論ではなく、確率的現象として記述する。例えば、Aという現象の後にBという現象が起った頻度をカウントし、95%の確率で起ったならば、AとBの間に統計的に有意な相関関係があると見なすことになる。しかし、これは確実にAがあればBがあるというのではなく、確率の信頼度にしかすぎないのである。世界を偶然的現象と見なし、その確率を記述することで、現象を解釈しようとしているだけなのである。
 一方、厳密な意味での決定論に基づく自然法則というのは、偶然性の支配する確率論の世界では存在しない。そもそも、決定論の世界では、確率は意味をなさない。確率論は、世界の偶然性に対する一つの数学的処理なのである。そして、単に確率的現象にしかすぎない仮説を真理へと一般化するための社会的装置がエビデンス主義である。エビデンスがあれば、真理であると人々は錯覚するのである。
 確率論に基づくエビデンス主義においては、因果関係や相関関係を確定することは究極的に不可能である。不可能であるからこそ、真理の対応説を放棄し、真理の合意説に身を委ねるしかない。要するに、ある一定の確率で起るのなら、その現象を科学的事実と見なしましょうという合意に委ねられることになる。合意であるからには、すでに自然現象ではなく、社会現象であり、様々な社会的要因が混ざり込み、時には強引な解釈もなされることになる。
 つまり、科学的事実は、エビデンス主義によって社会的に構成されているのである。例えば、医薬品の臨床実験における治療効果の確率も、世間の人々から見れば多少低くても、製薬会社の意向などを受けて、強引に統計的に有意だと解釈されることになる。どこからどこまでが有意であるかの線引きは究極的に合意=人為である。科学的事実が確率的現象にしかすぎないのなら、科学的事実を採用するかしないかは、本質的にギャンブルと同じてある。このギャンブルに乗るか乗らないかは、これまた個々人の自己選択となる。正しく子宮がんワクチンの論理である。

 エビデンス主義は、学問ではなく、一つの思想である。世界を確率的現象だと見なし、無数にある確率的現象のうち、人間にとって有意味や有用な確率で起る現象を科学的事実として真理化する思想なのである。エビデンス主義が、後期近代社会に適合的な思想であるかは、これからの分析を待たないとわからない。

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by merca | 2013-06-23 23:10 | 理論 | Comments(4)
Commented by the_sphere at 2013-10-12 01:38 x
科学的という言葉を多用しながら、例示されるのが医学ばかり。医学の大部分は「目の前の患者を治すこと」が最優先であり、原理や法則を見いだすことは二の次。しかしその他多くの「科学」の現場では、もちろん原理も法則も不確定なあいだは確率論で話が行われ、その際は「仮説」という論者の価値判断が介在するが、究極的には決定論的な原理・法則を見いだそうともがいているのであり、単なるエビデンス主義などでは決して無い。だからこそモデル科学が発展してきているのであり、またそれは実験化学と相反するものではない。
Commented by さだ at 2013-10-12 20:20 x
エビデンス主義が仮にあったとしても、絶対化はされてないでしょ別に。
研究してる人なら絶対の真理なんて存在しないことぐらい教わるし、きづくはず。だからパラダイムシフトがあるんでしょ。
Commented by telomere at 2014-02-26 15:11 x
上の方もいわれておりますが、何も医学ばかり例示するのもどうかと思います。

「医薬品の臨床実験における治療効果の確率も、世間の人々から見れば多少低くても、製薬会社の意向などを受けて、強引に統計的に有意だと解釈されることになる。どこからどこまでが有意であるかの線引きは究極的に合意=人為である。」

これを言ったら社会学だって似たようなもんでしょう。社会学では、5%水準有意もしくは10%水準有意にするのが一般的ですが、そうするのは半ば慣習的なものです。なぜ20%水準ではダメなのか?といったって何か究極的な理由があるわけではありません。

少々脱線しますが、日本の社会学には、それこそ医学に倣って、今後よりいっそうエビデンス主義にシフトしてほしいものです。現にアメリカ社会学では、大規模サーベイと計量分析を駆使したエビデンス型研究がメジャーですし、台湾や韓国などでも大規模サーベイデータの蓄積が蓄積されてきています。日本ではSSM調査やJGSSが有名ですが、今後もっと進んで欲しいものです。エスノグラフィーであれサーベイデータであれ、エビデンスを提示しない社会学は社会学ではないというような風潮になればと願っています。
Commented by protomed69 at 2015-03-05 10:34 x
エビデンス主義が間違いであり医学から放逐するには、決定論である物理法則に基づいて治癒させることができることを見せればよいだけです。物理療法が薬物療法をはるかに上回り、多くの病気に適用できるならば、確率論による検証や評価の必要はない。薬物療法が主である現代医学の標準医療は、一部を除き不要になる。エビデンスをふりかざしニセ医学を攻撃しながら、副作用など多くの問題があり不完全な現代医学の標準医療を科学的に正しいと擁護する、そのように馬鹿げたことは終わりにしなければならない。しかし、メカニズムを問わないエビデンス主義者からは、物理療法はニセ医学に見えるらしい。
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