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古市憲寿著「誰も戦争を教えてくれなかった」書評を通して

 最近、社会学専攻の院生・古市憲寿氏があらゆるメディアに登場し、発言している。古市氏の著作「絶望の国の幸福な若者たち」については、すでに私は過去のエントリーで、若者による俗流若者論であると位置づけ、批判的に評論している。
 私の予測とは裏腹に、古市氏は多くのメディアに取り上げれ、若者論、国家論、戦争論と幅広く、発言をし、現在に至っている。だが、社会学の鉄人である宮台氏ほど社会学理論そのものに準拠した観察をしているとは言いがたい。これは仕方ない。
 ここでは、古市氏の最近の著作「誰も戦争を教えてくれなかった」について評論を加えるとともに、戦争が起きたら自分は逃げるという古市氏の国家観がネット右翼から道徳的に批判されている現状について社会学の立場から多少擁護したい。
 
 さて、古市著「誰も戦争を教えてくれなかった」においては、各国の戦争博物館を見学することで、アメリカ、中国、韓国、ドイツなど各国における戦争の記憶の残し方に焦点が当てられ、各国との比較において、日本社会における戦争の記憶の残し方を批判的に論じるている。
 結局、日本は国民全体が共有できる戦争の物語を構築できなかったと結論付けているようである。最後には、もはや日本社会においては戦争体験は古くなり、平和体験が長く続きすぎているので、この際、平和ポケを肯定し、平和体験に基づいて思想や政治を作り出していくことを提唱する。
 言い換えれば、平和体験に基づく国家観こそがこれからの日本社会の国家観ということになる。そして、平和体験に基づくことで、かえって条件付きの戦争を肯定するという方向に議論を進めている。
 
 まず、話は方法論にそれるが、同書の面白いところは、各国の戦争観を調査するのに、意識調査や統計調査に準拠するのではなく、博物館を観察するという手法をとっているところである。これは、俗流若者論者の後藤和智が若者論を分析する際に、文献調査や統計調査を重んじるあまり、市町村などにある青少年会館等の若者育成のための施設を見学するという手法を疎かにしているのとは対照的である。
 国家がどのように戦争体験を残そうとしているのかは、統計調査をせずとも、確かにその象徴である戦争博物館を調査すれば一目瞭然にわかるわけである。つまり、社会調査法的に言うと、代表性のある事例を一つ調査するだけで全体を調査したのと等価であるというわけである。統計調査よりもコストがかからず、全体を推し量ることができるのである。社会学系のあらゆる大学でゼミ生がこのような事例調査やフィールドワークを行い、卒論を書いている。今後も、古市氏にとっては、施設見学は事実を認識するために得意とする手法となっていくかもしれない。
 さらに、自国の社会を分析するのに、他国と比較し、相対化するという手法をとっている。物事は、比較して初めて明確になることが多い。また、他国との差異・区別によって国民社会を分析する際に、複数の国と比較しているところがポイントである。後発的近代化論からすると、欧米だけを基準にして社会の進歩や成熟度を測るという考えは古いのであり、アジア諸国との比較も必要なのである。
 
 以上は古市氏の良い点であるが、一方でかなり抜けている点もあった。それは、日本社会には戦争体験に対する共通の物語がなく、残し方も中途半端であると見なしている点である。これは事実とは異なる。
 戦後の日本社会では、日教組を中心とする教師たちが、戦後民主主義教育というかたちで、軍国主義を悪とし、反戦主義、平和主義を子供に教育し、マスコミを中心に社会もそれを支持してきた。図書館に反戦教育の急先鋒として配置された「はだしのゲン」のテーマは正しくこれである。戦争は絶対だめという価値観は、左翼だけでなく、多くの戦争体験者からも発せされた。戦争絶対悪という価値観は、左翼でなくても、団塊の世代を中心に染み付いているのである。終戦記念日にNHKが戦争ドキュメンタリーを深夜に流し続け、戦争反対という価値観を国民に教育している。田原総一郎が言う通り、戦争を生理的に嫌うのが戦後日本社会の共有する価値観であった。
 日本社会が共有する絶対的反戦主義や絶対的平和主義は、最近、小林よしのりやネット右翼によって自虐史観として批判され、多少揺らいできているが、古市氏も絶対的反戦主義の相対化を試みようとし、戦争も場合によってはOKみたいな相対主義的な戦争観を若者に流布しようとしている。
 しかし、古市氏が考えるほど、日本人に植え付けられた絶対的反戦主義や絶対的平和主義は浅いものではない。なぜなら、それは田原総一郎が考えるように、理屈を越えて戦後の日本人の心に染み込んでいるからである。
 戦争体験者が戦争の悲惨さを語り、平和の大切さを唱えるというかたちの教育方法は価値伝達の手段としてはかなり有効であり、子供たちにこのような手法の教育が施されてきた。また、家庭でも祖父が戦争体験を語り、戦争は絶対にするなと言い聞かせることも多くある。社会学的には、道徳は物語=体験とセットになってはじめて効果的に内面化される。従って、戦後民主主義教育が日本人に植え付けた反戦主義・平和主義の価値観や思想は、そんなに簡単に変わるものではない。実は、戦後日本社会において、平和主義の内面化は、唯一成功した道徳教育である。
 そしてさらにいうならば、反戦主義・平和主義という価値観は、根本的に人権主義という普遍主義思想が根拠となっており、世界思想そのものであり、国際社会から認められている。戦争を放棄し崇高な世界思想に合致した価値観をもつ日本国は、倫理的に世界から否定されないことになる。このように反戦主義と平和主義はもともと人類普遍の価値と合致しているために、倫理的に否定することが困難であり、相対化し辛いのである。
 いくらネット右翼や小林よしのりが、反戦主義や平和主義を相対化したところで、人類社会は明らかに成熟した世界社会へと進化しつつあり、その普遍性・絶対性を論破することは困難である。
 一方、小林よしのりやネット右翼は、人類共通の絶対的価値規範は存在しないとする相対主義が本質であることを忘れてはならない。右翼は、基本的に、人類社会の普遍的価値はなく、それ故に、それぞれの社会ごとに異なる伝統に従うべきだとする保守的相対主義が本質てある。つまり、絶対的に正しい価値はないから、既存の伝統にすがるべきだとする思想である。人権思想に準拠した右翼は見たことがない。メタな視点からすると、左翼=絶対主義と右翼=相対主義の対立として描くことができる。
 
 要するに、若者の戦争観について(知識/価値)の区別に準拠して観察すると、戦後日本社会においては、必ずしも戦争の事実に対する知識は十分に伝達されていないかもしれないが、反戦主義や平和主義の価値観はきっちりと伝達されているのである。
 実際、「誰も戦争を教えてくれなかった」の巻末対談において、古市氏が若者の代表としてももいろクローバーZに対して戦争の知識について質問しているが、戦争の詳しい知識はないにもかかわらず、しっかりと戦争否定の価値観を内面化していることがわかる。若者にも、戦争に対する知識は伝達が不十分であるかもしれないが、価値伝達はなされているのである。
 つまり、戦争は悪であると誰もが教えてくれる社会であるが、戦争の歴史的経緯は詳しくは知らないというのが事実である。古市氏が知識伝達のみをもって戦争を教える教育だと勘違いしたことは非常に残念である。むしろ、社会学的には、知識伝達よりも、平和主義や反戦主義という価値伝達のほうが大切なのである。
また、歴史的知識習得は、社会階層によって異なる。古市氏のようにインテリ階層であれば、詳しい歴史的知識を知っているが、非インテリ層は詳しい歴史的知識をもっていないし、そのような知識がなくても生きていけるわけである。古市氏は自ら属している社会階層が若者の全体像であるというバイアスに気づいていない。
 
 ある番組で、古市氏が戦争が起ったら逃げるという発言をしたために、ネット右翼から批判されているが、社会学の基礎知識があれば、そう答えるのは原理的に間違いでない。社会システム論的にいうと、個人は国家システムの要素ではないからである。個人が国民として創発するコミュニケーションは国家システムの要素であるが、個人は国家の要素でなく、国家と分離可能である。
 このようなことは、社会学の基礎中の基礎である。個人は、究極的には(国民/非国民)のどちらも自己選択できる。
 ネット右翼等の国家主義者が古市氏の発言に戸惑うのは、社会の仕組みを扱う社会学を知らない無知からである。国家主義者が、古市氏を非道徳者として批判するのは、そもそも国家主義が個人は国家の部品であるべきだという思想に準拠しているからである。国家主義は、科学的真理ではなく、人間は国家の部品であるという虚構に準拠した思想なのである。国家主義が社会的真理であると唱える社会学者がいたとしたら、ニセ社会科学である。
 「人間は国家の部品である」という思想を本当だと信じ込むか、あるいはあえて演じることを是とする合意があった時のみ、国家全体主義的社会は創発されることになる。多くの人間が「人間は国家の部品である」という思想を共有・共演しなくなると、瞬時に消滅するはかないものである。
 ちなみに、人類の歴史においては近代国民国家の誕生は新しく、日本国民が誕生したのは明治以降の話である。それまでは、庶民にとっては、村落社会が全体社会(欲望充足に必要な範囲)であり、日本列島全域が全体社会ではなかった。これも社会学の基礎知識である。社会科学的知識の欠如こそがネット右翼の問題点であり、若者に社会学原理を必須科目として教えると、国家主義者はいなくなるだろう。
 ともあれ、古市氏は、社会学を学んだために国家主義者からバッシングされているのである。

 最後に、戦争が殺人を伴わなくなってくるという古市氏の仮説は、あまりにも安易である。全ての戦争の先に核戦争があるという認識が全くできていない。アメリカが躍起になって核拡散を防止しようとするのは、核戦争をおそれてのためである。戦争イコール核戦争による全人類の絶滅というイメージこそが正しいのである。

 田原総一郎に認められたそうだが、これからが古市氏の試練だと思う。今後、右翼(国家主義)と左翼(戦後民主主義)の相互から批判されるおそれもあり、かつまた後藤和智氏が批判する実証性のない東浩紀のごときポストモダンおたくになることも避けないとならないからである。
 私としては、社会的事実を観察する社会学理論が古市氏においては未熟なために混乱が起きているようなので、早く自らが準拠する社会学理論を確立し、その立場を明示するべきだと思う次第である。

  追伸
 「誰も戦争を教えてくれなかった」のなら、戦争に行ってみたら分かるよ。戦場カメラマンみたいに戦場に行ったらどうかね。外から眺めても真実はわからないかもしれない。それでどんな思いを持つかが大切だ。兵士や戦争に巻き込まれている人の気持ちがわかるかも。

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by merca | 2013-11-04 00:31 | 社会分析
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