若者論に科学的根拠はいらない。

 俗流若者論批判で有名な後藤和智が、とうとう「「あいつらは自分たちとは違う」という病」という書物をだし、自らの主張を整理した。同著は、これまでの若者論が基本的に科学的根拠のない思いつきにしかすぎず、世代アイデンティティとして活用されきたと主張し、科学的根拠のある若者層の実態把握を提唱する。
 私は、当ブログにおいて、あらゆる学説や論は、真実か虚構か、また科学的か非科学的かに関わらず、思想として受容される可能性があると指摘して来た。若者論が若者や若者を批判する大人の側の自我統合=アイデンティティの統合(あるいは獲得に)をもたらすことは、社会学からは当たり前のことである。例えば、宮台社会学、反貧困論、ニセ科学批判などが、学問ではなく、思想として観察できると繰り返し述べて来た。簡単に言えば、思想として機能するとは、自我統合や社会統合(集団生成や社会規範の補強)をもたらすことである。各時代の若者論が世間に流布し、受容されるということは、人々にアイデンティティを付与することなのである。
 
 例えば、俗流若者論で登場するフリーター、ニート、ひきこもり、ヤンキー、おたくなどの若者概念は、若者自身の自己概念に採用され、若者自身がその価値観を内面化し、それを演じ、その結果、特定の若者層を形成するに至っている。これらは、若者が選択する生き方の種類であり、ある意味、人生の指南として機能する。
 実は、科学的根拠のない若者論が作り出した適応類型概念は、若者に影響を与え、自らの概念を社会的事実として成就させているのである。日本社会では、若者の実態が先にあるのではなく、若者論が先にあり、実態はあとでできあがることになるのである。無論、若者に採用されなかった若者論は、真実になり得なかった虚構として退けられることになる。
 
 社会心理学では、アイデンティティは、他者からの評価、他者との比較、集団への所属で獲得されるものである。つまり、「あいつらは自分たちとは違う」という差異化の意識が必要となる。一つの世代層は、他の世代層との比較によってしかアイデンティティを得ることはできない仕組みになっている。若者論は、必然的に比較論になる。たとえ科学的に若者の実態を調査しても、比較することなしに、その実態に意味を付与することはできない。そして、何と比べるかによって、意味が異なってくる。これは、貧困論も同じ構造を持つ。若者世代は、他の世代と比較して、規範意識が希薄だとか、個人主義的だとか判断することが可能になる。
 つまり、同一の実態調査でも、比較対象が異なると、全く世代の特性は異なって記述されることになる。さらに、何を比較対象とするかは、恣意的であり、調査者の目的や価値基準に左右される。例えば、調査によって現在の若者の平均収入がわかったとしても、どの世代と比較するかによって、異なった評価となるのである。ロスジェネ世代は、自分たちの世代は貧乏だと思っているようだが、バブル世代との比較にしかすぎず、戦前の若者に比べれば、かなり裕福である。
 若者に対する科学的調査であっても、結局は、比較対象選択の恣意性によって、解釈が多様になってしまい、真実は一つではなくなるのである。調査者自身の解釈の相対性を考慮しないと、本当の意味での科学性は担保できない。
 
 また、もし仮に統計的調査によって、世代別の実態が科学的に把握できたとしても、かえってアイデンティティとして利用されるであろう。つまり、科学的根拠というお墨付きになるので、よけいに採用されやすくなるであろう。後藤氏は科学的根拠のある実態把握であればアイデンティティとして利用されないと思っているようであるが、それは全く逆である。科学的根拠があると思えば思うほど、真実味が増し、人々にアイデンティティとして利用されるであろう。ニセ科学が流行る理屈と同じである。
 科学的根拠のある若者実態調査をするにしても、調査目的を明らかにし、その目的によって比較対象が選定された理由を説明した上で、人々に公表しないと、俗流若者論よりもひどい結果になるのである。古市氏は、現在の若者は幸福であると豪語するが、比較対象の恣意性を説明していないところに欠点がある。

 後藤氏は、「世代論を今一度科学や政策のフィールドに下ろして論じなければならない。」と述べ、若者論における世代論の不毛からの脱却を短絡的に科学的根拠のある若者の実態把握に求めているが、それは根本的解決にならない。
 そうではなく、原理上は、比較対象を変更することが根本的解決になる。つまり、他の世代の若者と比較してデータを解釈するのではなく、他県の若者との比較、異なる社会階層に所属する若者との比較、学歴別の若者の比較、他国の若者との比較などにすれば、世代論から脱却できるのである。科学的根拠があっても、世代ごとのデータを集めて世代間の比較によって分析する限り、世代論からは脱却できないのである。

 究極の立場からすると、若者論が人々にアイデンティティを供給することが役割であるとしたら、若者論にわざわざ科学的根拠は要らない。さらに、事実とは無縁な「べき論=若者への役割期待」でもかまわない。統計調査で対象とするのは、若者一般である。
 してみれば、若者一般は、実在しない虚構であり、個別対象としては存在しない。概念としてのみ存在する。若者一般は、後から構成されたものである。統計調査が若者一般をつくるのであって、統計調査の前にあらかじめ若者一般が存在するわけではない。

 参考
 ブロ教師の会の諏訪哲二は、「オレ様化する子供たち」という俗流若者論を展開している。彼は全国の子供に意識調査をして統計的に分析し、子供たちが自己中心的になっていると判断しているわけではないのに、「子供が自己中心的になっている」という仮説を事実のごとく語っている。しかし、諏訪哲二の仮説は、規範主義社会学的な視点(規範に従うことで秩序が成立するという立場)から多数の子供たちを観察した結果であり、教師としての彼の臨床的知識に基づいている。世代の異なる多くの子供を見て来ているのである。
 統計のように間接的ではなく、このように対象に直接触れていることで知ることができる事実がある。医者も臨床的知識に基づいて診断することがある。このようなプロの臨床的知識は、科学的知識よりも確かであることが多い。

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by merca | 2013-12-01 23:57 | 社会分析 | Comments(6)
Commented by 社会学生 at 2014-07-15 01:13 x
ちょっと怪しくないですか?フリーターやニートという若者概念が先で後で若者がそれにハマるという部分と自分のアイデンティティは他者とのアイデンティティとの比較で得られることと、世代のアイデンティティは他の世代とのアイデンティティとの比較で得られることを同列で扱うという部分が違う気がします。そして科学的根拠がいらない若者論なら論という言葉自体を外す必要があるのではないでしょうか?
Commented by 文学部学生 at 2014-07-25 15:58 x
>社会心理学では、アイデンティティは、他者からの評価、他者との比較、集団への所属で獲得することになる。
ご自身の理論によると、あなたは「社会学者の文章はわかりにくい」といわれ続けて生きてきたのでしょうね。
社会学を学んだばかりに、あえて意味が通らない日本語の文章を書かなければならないとは、社会学者って本当に可哀そうな方々だと思います。

あまりに可哀そうなので単純な指摘をして差し上げますね。
引用部分の文章は、主語=社会心理学(またはアイデンティティ)、述語=獲得することになる、と分解できます。
ところで、当たり前ですが、社会心理学やアイデンティティは「ある」もので、は「なる」ものではありません。
ですから、引用部分は下記のように直す方がわかりやすいかと思われます。
・社会心理学によれば、アイデンティティは…(中略)…で獲得するものである。
あなたの文章には、日本語として通じず、そのまま読むと、あなたが意図しているはずの物事と全く違うことを主張しているように読めてしまいます。
非常にわかりにくいです。
でも、仕方ないですね。あなたは社会学者なのですから!
Commented by merca at 2014-07-26 21:34
 思考のスピードに合わせて一気に書くタイプなので、間違うことがあります。「されるものである。」に変えましょう。
Commented by merca at 2014-08-31 10:49
 若者論の内容が他世代との比較に基づいた若者論であるからこそ、若者も多世代との差異意識たるアイデンティティとして用いることができるわけであり、そもそも区別を伴わない若者論は、若者に採用されません。
 論には科学的根拠は必要有りません。哲学、倫理学、道徳学、文学には、科学的根拠はありませんが、幸福論、観念論、モナド論とか、何々論と呼ばれます。若者論も同じです。
Commented by ほいほい at 2014-10-01 01:53 x
社会科学から若者論を切り離して、ただの思想にせよ、ということですか。だから若者に対してデタラメな推論に基づく認識を押し付けても構わないと?

もちろん若者が多様化し、一元的に若者論を取り扱うのは難しくなっているとは思います。ただ統計的手法を用いたより真実に漸近した論の方がただの推論に基づく論よりも価値は高いと思います。
Commented by merca at 2014-10-11 07:55
論宅です。
 若者という存在を実体視するのは、社会科学的には間違いです。若者というものは、実体としては存在せず、社会内の役割としてのみあります。社会科学的には、役割存在を離れた若者論は無意味です。従って、いくら特定の年齢の人たちの集合を統計的手法で調査したところで、なんら社会現象を調査したことになりません。若者という役割は、社会に共有された行動規範、つまり共有された一種の思想として観察する方が適切です。
 社会において、若者という役割の意味内容を記述し、いかに社会的に構築されていくのか分析するのが、社会科学の立場です。
 逆説的ですが、むしろ社会科学的には、単なる統計的調査よりも、オヤジ世代による俗流若者論の中にこそ社会が期待する若者像が隠されており、若者という役割の真実に迫ることになります。
 また、オヤジ世代が期待する若者役割を拒絶するために、若者世代が科学的根拠なるものを持ち出して否定しようとするのが俗流若者論批判の本質です。つまり、俗流若者論批判は、科学そのものではなく、科学の名を政治的に利用した若者役割にかかる状況の定義権の世代間闘争にしかすぎません。
 これが本当の社会学的なものの見方です。
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