ヒュームの連合観念説の誤謬

 ヒュームの連合観念説とは、ある現象の後に特定のある現象が起ることを繰り返し体験すると、時間的に先行する現象を原因だと錯覚し、習慣的にその後に起った現象を結果だと思い込んでしまうという説である。要するに、連合観念説によれば、因果律は、人間の習慣的思い込みの結果にしかすぎないというわけである。人間主観が観念と観念を結合させるだけであり、対象の側にはその結合の根拠はないというわけである。
 実は、このヒュームの連合観念説には、大きな誤謬がある。ヒュームは、人間の認識が、結合を本質とするのではなく、区別を本質とすることを理解していない。ここに問題がある。詳しく説明しよう。
 人間は、対象世界を区別して分割して観念をつくりだすのであり、その逆ではない。つまり、不可分の連続する対象を区別して分割し、事物を認識するわけであり、従って区別されたものどうしは、本来、対応関係にある。一方がなければ、他方はないという相互依存関係なのである。人間が無理矢理区別して分離したにしかすぎないわけである。人間は、連続している対象世界を分割して、ひきちぎり、独立した別個の存在として一つの観念を形成するわけである。
 分離観念説が認識の本質なのであり、連合観念説は成り立たない。事物を区別・分離して観念を形成するわけであり、分離された観念どうしはそもそも不可分で関係しており、因果関係は成り立つのである。過去、現在、未来という時間の流れは連続しており、人間が恣意的に分割し、過去、現在、未来という三時の観念をつくりだしたにすぎない。本来、それらの観念が指し示す対象は、不可分の連続である。
 逆にいうと、ヒュームの連合観念説が成り立つためには、一切の存在が孤立的で無関係に存在し、はなから分離されているという形而上学=世界観が正しい場合だけである。しかし、このような無関係的世界観は、そもそも矛盾的で成り立たない。認識主体と対象も無関係だということになり、認識作用が生じて印象や観念が形成されることが不可能となり、認識論の一種である連合観念説もパラドクスに陥ることになるからである。
 ヒュームの連合観念説は、究極的には独我論にいきつく他ない。事物を結合するのが人間の認識であると勘違いしたヒュームははなから間違っているのである。認識論における初歩的なこの間違いに気づかず、未だにヒュームの哲学を信奉する学者がいるのが不思議である。

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by merca | 2014-06-10 22:00 | 理論 | Comments(15)
Commented by 学生 at 2014-08-13 09:14 x
無知な質問であれば無視して下さい。
観念の本質が分離であるなら、観念において類似性は存在しえないのではないですか。類似性のもとで分離することを連合というのではないのですか。
Commented by 学生 at 2014-10-12 03:14 x
ではなぜオーケストラの音楽は一つのまとまりとして認識されるのですか?
Commented by merca at 2014-10-14 22:57
論宅です。
  向学心が強いですね。
 アリストテレスの形而上学の目的因の項目を参照して下さい。
音楽は外から観察する因果関係ではなく、目的因で説明した方がよいです。音楽は、演奏者の目的を現象化するということで、実存しますので、ヒュームの連合観念説では説明できません。
 音楽が生ずる原因は、究極的に演奏者の目的因にありますので、音楽を聴く者の主観による結合には還元されません。音楽を一つのまとまりとして観察できるのは、聴く側の主観よりも演奏者側の目的因によります。不協和音を演奏する奏者の音楽は一体性がありませんが、コードを守って演奏する奏者であれば、聴く側も統一性を感じます。その違いを考えると、音楽の一体性は、奏者の統一性に原因があります。
 ヒュームの連合観念説の本質は、主観的独我論です。独我論者であるかぎり、音楽を説明することは不可能です。オーケストラは、一人では成り立ちませんですから。
 大学院での専攻は何ですかね。
Commented by 学生 at 2014-10-16 19:22 x
他者の目的が音楽を奏でているのではなく、この音楽は他者が奏でることを目的としているから発生していると"私"が考えているだけだと思います。他者の考えを自己が直接認識することは究極的には不可能ですから。他我の内容は理念的な想定の域をでないので、他者の目的や物質運動の目的には認識論的な限界があります。
Commented by 学生 at 2014-10-16 19:23 x
また、指揮者は全体としての曲に対する部分としてのパート演奏の歪みを把握しますが、演奏者本人が気付いているとは限りません。指揮者にとっての音楽は演奏者の目的に還元されず、同様に個別の演奏にも還元できないと思います。あくまで現象する各音源の総体を把握している。
Commented by 学生 at 2014-10-16 19:26 x
ヒュームの観念連合説はカントーフッサールの現象学の登場によって過去のものになったと考えていますが、弁証法的に発展したのでヒュームのエッセンスは継承していると思います。その意味では研究価値が無に等しいと断定できるかは疑問です。
Commented by 学生 at 2014-10-16 19:29 x
また、認識の本質を分離とすると認識の統合作用が無視されてしまうと思います。例えば、部屋の中に居ながら外から聞こえてくる音だけを聞いてそれが車であると認識するので、「音が通った」ではなく「車が通った」と言うのが普通です。その他にも音のみで車の「種、数、大きさ、速度、方向、位置」などを同時に認識し得ますので、これ等を分離から説明するのは困難だと思います。因果性や相関性の認識形態はあくまでアプリオリな総合判断の一種であると捉えています。アプリオリな総合判断に限定される以上いわゆる物自体の認識は不可能なので認識論的に客体の真実在は連続体であるか否かは不明です。
Commented by 学生 at 2014-10-16 19:31 x
また、アリストテレスの場合物体や生物の目的因は神への憧れによって根拠付けられているので認識論的に誤りです。神やシステムなどに認識の諸形態を従属させるのは神学や社会科学的な理念であって認識論的には証明しようのない事(=超越)であると考えられます。無論、便益上これらの仮象は仮象としてのみ肯定されると思います。
Commented by 学生 at 2014-10-16 19:39 x
先日二十歳になったばかりの大学生なのでコメントの内容よりは向学心で見て頂ければ幸いです。哲学を専門的にやっているわけでもなく、経済や政治を勉強しながらさわる程度にやっております。
Commented by merca at 2014-10-19 01:25
論宅です。
 発想の転換が必要です。
 思弁的な認識論ではなく、科学的思考に準拠し、実験や観測をすることで、目的因がオーケストラの音楽に一体性をもたらす原因であることが簡単に実証されます。
 オーケストラの音楽の一体性は、次のような実験や調査で実証されます。ある一つの特定の曲を演奏するという目的(や役割)を共有している奏者たちの集団と、何も目的(や役割)を共有しておらず自由に音を出す複数の奏者の集団に分けます。
 この二つの集団に楽器から音を出してもらいます。目的を共有するグループは一体性のある音楽を奏でるでしょう。目的を共有しないグループはバラバラな音を出し一体性は認識できないでしょう。
 さらに、実在するオーケストラ楽団に聞いてみて調査をしてみるとします。演奏する時に、皆が同じ一つの曲を演奏するという目的を所有しているかどうかをです。調査結果は、一目瞭然でしょう。
 実験と観測からすると、各奏者が目的を共有し、役割を演じることで、オーケストラの音楽は一体性をもちます。実証的な立場からすると、主観ではなく、対象の側に一体性の原因があることになります。
Commented by merca at 2014-10-19 02:04
音楽は目的を持つ行為の結果生ずるということは、明らかに実証できると思われます。近代社会では、頭の中だけの独我論から推論される解釈よりも、科学的方法によって得られる結果こそが採用されます。科学的事実に準拠すれば、目的因がオーケストラの音楽に一体性をもたらす原因であることになります。実際に実験したり、オーケストラの楽団員に聞いてみたらと思います。一つの曲を奏でるという目的がなければ、オーケストラの音楽に一体性はありません。一つの曲を奏でるという目的や役割をもたずに演奏している楽団員を見たいものです。
 実際に、楽団員という他者に聞いてみてはと思います。他者は自分の思い通りになりませんが、そのような他者からの反応で回答があれば、独我論を越えたことになります。正しく、実験と観測で他者(自然も含む)に投げかけることで、自分だけの思い込みではないということを利用するのが科学であり、科学的知識です。独我論的思考は前近代的な過去の産物です。独我論に還元されない科学的知識のみが近代では真理と見なされます。
Commented by merca at 2014-10-19 02:22
ものそれ自体を想定してしまうと、必ず独我論や不可知論に陥りますし、そもそも認識論そのものが成り立ちません。認識とは、常に何かについての認識であり、その何かが不可知なものそれ自体ならば、認識そのものが無意味です。カント哲学の誤謬は、ものそれ自体を想定したことにあります。世界は、認識している部分と認識していない部分があると考えたほうが適切です。この二つの境界線は流動的です。認識作用=意識とは、認識していないものを認識する弁証法的運動です。
 世界を認識している部分と認識していない部分で分離するという区別から認識は始まります。従って、認識の本質は端的に区別=分離です。
 なお、フッサール独我論については、柄谷行人の他者論によって完璧に否定され尽くされています。
Commented by merca at 2014-10-19 09:14
「「音が通った」ではなく「車が通った」と言うのが普通です。」

 ヒューム的にいうと、過去に車が出しているエンジン音を何度も聞いて、エンジン音を聞くと車が走っていると類推する習慣ができあがり、人はエンジン音と車一般を連合・結合させて認識していると言いたいのでしょうが、逆ですね。
 エンジン音がしたら車であるという認識を学習したのは、車とエンジン音が一体になっているという渾然とした外部対象からくる過去の原体験が最初にあり、後からその体験全体を分別して、車と音に分離して観念化したことで、可能になるわけです。もとの体験は一つであり、それを観念で部分に分けることで、学習しているわけです。幼児も、言葉を学習することで、物事を分別して認識できるようになります。
Commented by merca at 2014-10-19 22:31
 車を走らせてみて、エンジン音がするかどうか実験してみて下さい。動く車なら、全ての車の走行でエンジン音はするでしょう。実験によって、車の走行とエンジン音が一体の現象であることが実証できます。この反復される一体の外部現象から「車の走行」と「エンジン音」という部分を区別して分解・分離することで、因果関係の観念が構築されます。やはり認識は区別・分離が先にあります。
 また、道路を実際に走行している車を何台も観測し、車にエンジン音が伴うかどうか調査します。結果は一目瞭然です。普通には、エンジン音の出ない車はないでしょう。
 このように、実験と観測に基づく科学的事実からは、主観が勝手に車の走行とエンジン音を結合したわけでないことが簡単に証明されます。ヒュームの連合観念説は、実験と観測に基づく科学主義が発達していない時代の産物にしかすぎません。すでに時代遅れです。
Commented by 学生 at 2014-10-20 02:26 x
詳細な解説ありがとうございます。論宅さんのお考えはよく分かりましたが、納得できないところもあるのでもう少し勉強してみます。
(音,車)⇒ 音,車
という認識は分かりますが、
音⇒車
という認識の説明になっているとは思えないです。

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