国民性は、他国民につくられる。

 社会心理学では、アイデンティティは、他者との比較、集団への所属、他者からの評価によってつくられると考えられている。関係主義の公理からも、他者との差異関係がなければ、自己はない。
 このことは、国民社会レベルでも同じであり、一つの国民社会は、他の国民社会の存在を前提とする。一つの国民社会は、他の国民社会との区別によって成立する。
 同じく、国民性は、他国の国民性との比較、共通の文化圏や政治体制への所属、他国民からの評価によって構築される。
 例えば「日本人は礼儀正しい」という国民性は、他国民との比較や評価によって獲得されたアイデンティティであり、日本人がつくりあげたものではない。そして、日本人は国外において日本人らしく振る舞うことを要求される。また、社会科学的に国民性を調査する場合でも、基本的に他国との比較によって把握され、表現される。
 日本人の国民性は中国人の評価によって部分的につくられるし、中国人の国民性は日本人の評価によって部分的につくられる。韓国人、アメリカ人、フランス人、ロシア人・・・・全世界の国民も同様である。全ての国民社会の国民は、自身では国民性アイデンティティをつくることができず、他国に依存しているのである。
 言い換えれば、他国の存在を否定したり、他国との関係を断絶すると、他国と比較できなくなり、自らの国民性の否定につながるのである。
 
 奇妙なことであるが、国外においてこそ、日本人は日本人と見なされるのである。国外で「あなたは誰ですか」と聞かれたら、「私は日本人です。」と答えるであろう。国外においては、個としてよりも、日本国民として見なされてしまうのである。当然、敵国に行けば、個人の意思と関係なく、敵国民として非難・排除されるのである。
 反日教育で「日本人は悪い」と韓国人が思っていれば、善人の日本人が韓国に行ったとしても、日本人だから悪いと見なされるのである。罪のない個人がレッテルを貼られ、差別、排除、迫害がそこから生ずるわけである。ある人間を国民として観察するのか人類として観察するのか、その選択は、多くの場合、初対面の外国人であれば、国民として観察してくるであろう。
 つまり、他国民とコミュニケーションをとるためのメディアとして国民性はあるのである。国民性によって相手の反応を予期することで、複雑性を縮減し、コミュニケーションを可能にするのである。初対面の外国人であったとしても、その国の国民性がわかれば、コミュ二ケーションがとりやすくなるのである。そのように(自国民/他国民)という区別に準拠してなされるコミュニケーションは、国際社会システムを創発するのである。
 ちなみに国際社会システムは、世界社会とは区別される。国際社会システムのユニットは(諸)国民であるが、世界社会は人類がユニットだからである。つまり、全世界の異なる複数の国民社会から構成されるシステムこそが、国際社会なのである。また、国際社会システムの行政機関が国際連合である。
 
 ともあれ、国民の役割としての国民性は、国際社会において、他国民の期待によってつくられるのである。右翼は自国の歴史的伝統のみから国民性を導きだそうとしているが、他国民との差異と評価によって自国の国民性が形成されることに気づいていない。自国民が自国民は優れていると思っても、それは真なる国民性ではなく、単なる自己満足にしかすぎない。本当の国民性は、他国との関係で形成される対他規定性のものなのであるから。
 
 戦後の日本国民は、反戦主義の平和国家の国民として世界から期待されているのであり、その役割を遂行しなければならないのである。人類社会が進歩するために、世界からの期待として平和憲法が押し付けられたのは当然であり、戦争をしない国という役割を負わされてしまったのである。それが日本の宿命である。世界によってつくられた国民性である。
 日本国民は、戦後、「過去の戦争を反省する反戦主義の平和国家の国民」として役割期待を背負わされてきたのであり、この崇高な使命は、来たるべき世界(宇宙)社会の先駆けである。
 
 地球を外から眺める火の鳥(宇宙生命)は、日本国民たちを観察しながら、戦争を繰り返す人類がやっと自らの過ちに気づいたと思っているだろう。

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by merca | 2015-02-01 23:23 | 社会分析 | Comments(0)
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