市民社会(普遍性)と国民国家(特殊性)の止揚としての近代社会(全体社会)

 ルーマン研究家の社会学者佐藤俊樹氏が「意味とシステム」という著作において、行為、コミュニケーション、システム等について根本的に議論している。私も興味をもって拝読したが、むしろ面白かったのは、システム論にまつわる本質的探求の部分ではなく、国民国家と市民社会の二重体として近代社会を観察している部分である。つまり、国民国家と市民社会は単純な対立概念ではなく、国民国家の複数性と市民社会の単一性が相互に依存しているという洞察である。国民国家は、世界に複数存在することで、個人に国家所属についての選択意識を表象させ、国家に包摂され尽くされない外部としての独立意識をもたらすことになる。このような個としての意識が市民社会の意識をつくりだす。

 逆に、国家は社会契約論的観点から、国民が市民たりうることで、本来的に自由な個人たる市民たちが契約によって国家をつくったという近代社会の成立根拠の正当性を担保できる。つまり、自由な市民だった国民によってつくられた、あるいは全ての国民の合意によって国家が成立したという建国物語をもつことができる。社会契約論という必要的虚構が国家の成立の本質的根拠となるわけである。

 さらに、国民国家の外に個人が市民として存在することで、国家は国民に自己負担させることができ、個人の責任を全て国家が丸抱えせずにすむことになる。

 複数ある国民国家は、特殊性、共同性を意味し、単一の市民社会は、普遍性、世界性を意味することになる。個人は、国民として国家共同体に所属しつつも、世界市民として市民社会(世界社会)の中にいることになる。近代社会は、国民国家と市民社会という一見対立している二つのファクターを含みつつ、両者を止揚することで、成り立つことになる。

 

 このような近代社会の見方は、根底から、カントの理想とする世界共和国の思想を覆す社会理論と言えよう。平和共和国という普遍性に偏った一元的なカントの社会観は、弁証法的にはあり得ない。弁証法的には、普遍性(単一の市民社会)は、特殊性(複数の国民国家)を前提としてしか成り立たないからである。

 さらに、国民と市民の二重意識は、後期近代社会=成熟社会に生きる我々の感覚に非常にフィットし、リアリティを感じる。市民社会の普遍的価値としての人権思想=革新主義=左翼思想と、国民国家としての郷土主義=伝統主義=右翼思想が対立するように見えて、互いに前提とするという円環的弁証法が見てとれるのである。普遍性と特殊性の弁証法である。

 ただし、国民国家あるいは国民社会は、同一性のあるシステムとして観察できるが、市民社会は、同一性のあるシステムとしては観察できないし、定義上からも、共同性はなく、システムではないとも言える。

 ルーマン社会学の視点からして、システムではないものを社会と呼ぶことがそもそもできるのか少し疑問である。普遍性を本質とする市民社会あるいは世界社会には、本来、内と外の区別がなく、(システム/環境)の区別がないでのある。


 ところが、市民社会も、一つの区別に準拠していると見なすことは可能である。(普遍性=市民社会/特殊性=国民社会)という区別によって創発したシステムとして観察できる可能性がある。国民国家と市民社会の二重体として近代社会を観察する立場は、システムとして両者を捉えることも可能である。市民社会の環境は、国家社会であり、国家社会の環境は、市民社会であるという区別が立ち現れると、システムとして存在が可能となる。


 そういう意味では、近代社会は、普遍性たる市民社会システムと特殊性たる国民国家システムという二つのシステムを止揚した何者かである。その何者かが真なる全体社会だとしたら、ルーマンのいう世界社会の解釈と合致する。ありとあらゆるコミュニケーションの包括的総体が社会システムだとしたら、市民社会と国家社会を包括した近代社会そのものが、全体社会となる。実は、全体社会は、単一でも複数でもなく、そのどちらを離れても実在しないシステムとして観察するほかないのである。弁証法的観察のみが全体社会を捉えることができるのである。

 対立しているものが実は相互に前提とし合っているという弁証法的思考で、システム論を再解釈すると、以上のようになるのである。


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by merca | 2016-10-29 09:57 | 社会分析
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