脱社会的存在

 宮台社会学が社会学の徒に与えた影響は大きい。しかし、宮台氏の社会解釈が適切だったかどうは、検討しなればならない。
 神戸のサカキバラ事件以降、「人を殺せるのはえらい」という殺人者崇拝の思想が一部の少年達に流布し、実際に人を殺してみたかったという理由で事件を起す犯罪が数件ほど起り、マスメディアで報道された。サカキバラに共感できる少年達も少なからずいるという報道もよくなされていたのは記憶に残るところであり、子供がおかしいなどとテレビの特集番組が多く流され、人々の社会不安を煽った。そして、殺人をしてみたいからやったという犯罪動機では、人々は満足できず、様々な精神科医や教育学者がこぞって、少年の犯罪動機を透明化するために解釈しだした。また、哲学者や倫理学者が「なぜ人を殺してはいけないのか」というような殺人禁止の道徳的根拠を若者達に合理的に説明するための書物を書きだした。これに輪をかけたのは、テレビでの若者討論番組であった。平気で、殺人をしてもいいというインテリ学生も現れたりし、殺人を否定する論理的根拠がないことを主張したりした。おかげで、若者全体が、無気味な殺人鬼としてのレッテルを張られだした。
 とりわけ、若者に対する宮台真司の解釈は、明解であったし、分かりやすく、多くの社会学や哲学の徒に受容された。それが脱社会的存在という定義だった。脱社会的存在とは、コミュニケーション=社会に失望し、コミュニケーションの外で、自尊心を調達する一部の若者達のことを指す。コミュニケーションの外とは、社会の外であり、道徳や法律の外でもあり、殺人も非難されない空間である。少年の猟奇犯罪は、この脱社会的という枠組みで解釈されるようになり、映画のテーマなどにもなりはじめた。さらに、宮台氏は、このような脱社会的存在が生ずる社会変動も問題視した。成熟社会に入って共同体が空洞化し、他者からの承認は、個々のコミュニケーション能力に委ねられ、自己責任過多となり、その苦労に耐え切れず、コミュニケーションから降りる若者たちも現れ出したというわけである。その一部がひきこもりとなり、別の一部が脱社会的存在である。確かに、スクールカーストが学校の成績という基準とは関係なく形成され、ある意味、その基準がコミュニケーション能力と関係していることから、それはうかがい知れる。

 「人を殺せるのはえらい」という考えが若者達に流布したというのは一部認められると思うが、本当に脱社会的態度から、それを採用したかどうかは疑わしい。では、どのような若者達が「人を殺せるのはえらい」という思想を採用したがるのか?
 
 そのような若者が現状の自己が置かれているコミュニケーションに不満を抱いていることは間違いないと思う。ここまでは、宮台氏が正しい。しかし、ここからが解釈が異なる。
 
 私の解釈・分析はこうだ。まず、スクールカースト下層でいじめにあったり、仲間集団や友達ができず、コミュニケーションから疎外されており、自己イメージが低い若者たちがいる。そのような若者たちのほんの一部が、自己の弱さや自信の無さに向き合わないで済むために、自己防衛として、他人よりも卓越している自分をつくろうとし、「人を殺せる自分はえらい」という物語にすがっているだけなのである。動機は、他人との比較に基づいており、脱社会的であるどころか、他者への当てつけであるという点において極めて社会内存在である。
 殺人崇拝物語あるいは殺人鬼英雄化物語は、ルサンチマンをもつ弱者の自己防衛装置なのである。平たく言えは、弱い自分を取り繕うために物語にすがって強く見せようとしているだけである。これはスターに憧れ、自己を同一化する若者の心理と変わらない。コミュニケーション弱者が生き方のモデルを殺人者にしか見い出させないことが問題かもしれないが、臨床心理学的には本当に陳腐な動機なのである。プロの臨床心理士が面接すれば誰でも見抜ける動機である。また、処方箋も簡単に見い出すことができるのである。脱社会的存在や人格障害も持ち出す必要はない。
 
 ちなみに、卓越化の物語として脱社会的存在というタームが、どの程度、コミュニケートされていき、若者達の自己概念として採用されていったかは、自分を「脱社会的存在」だと自称している若者のブログを見つければよいが、ニートと違って、あまり見かけない。もっとも世間に「脱社会的存在」だと自称した時点で、脱社会的存在ではなくなるというパラドックスがあるが・・・。 
 
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by merca | 2006-12-31 14:09 | 理論 | Comments(1)
Commented by TT at 2016-12-05 01:32 x
私のような脱社会性はどこに当てはまるのだろうか。
私は今の社会の中で極々自然のように受け入れられているいくつかの概念に疑念がある。

天然資源にすら、所持者が存在するという概念。
また、それを購入するための貨幣という概念。
権力により、人が人、また地域を管理するという概念。
これらは人が作り出した、人々の怒りを買うには十分な質の低い概念だ。

貨幣の方は、所得比率が天秤効果によって引き寄せ合うことになり、不公平が強く、
これを他人より多く稼ぐために数え切れないほどの揉め事が起きている。
また、権力も同様に、それを求めるものどうしの周囲を巻き込んだ争いの引き金になる。
どちらにしても、天然資源を自分のものだと主張するために常時争い続けている。
そして、人の争いは自然を理解していくほどに、醜く悲惨なものになっていく。

私には、社会に対して絶望しない人がいるのかの方が理解できない。
そして、私はそれらの争いには興味がないし、本来参加する気もない。
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