出来事の解釈

  出来事の解釈は、下の三つの次元でなされ、加工される。
  
   例
 出来事・・・震災で負傷した。

 必然的解釈・・・地震は活断層の活性化によって引き起こされ、その地震が起る地域に住んでいたので負傷した。
 偶然的解釈・・・負傷をしなかった人もいるのに、たまたまなぜ私だけが負傷したのかわからない。
 自由意思的解釈・・・私が活断層のあるような地域に住んだことを選択したのが悪い。 

  例
 出来事・・・空き巣の被害にあった。
 必然的解釈・・・ドアのカギが空いていたので、空き巣が入った。
 偶然的解釈・・・ドアのカギがあいていたとしても、空き巣が通りかかになかったら被害に合わなかった。なぜたまたま空き巣が通りかかったのか、またその時だけはなぜたまたまドアを開けてしまったのかわからない。
 自由意思的解釈・・・ドアのカギを閉めようと思ったが、大丈夫だと思った自分が悪い。

  例
 出来事・・・弟が殺人にあった。
 必然的解釈・・・人を殺したいという願望をもった者と出会ったことが原因。
 偶然的解釈・・・なぜたまたま弟だけが、その時間帯にその少年と出会ったのかはわからない。
 自由意思的解釈・・・弟が見知らぬ人に近付かないという親の注意を怠ったのが悪い。

 先に、科学とは、偶然を必然にする理性の運動と定義したが、実は、その逆の運動もありうる。それが、必然を偶然として解釈する逆向きの理性の運動である。例えば、伝染病にかかり死亡したというのは、医学的因果関係は明確であり、死亡という出来事を必然化したことになるが、なぜその人だけがたまたま伝染菌がいるような場所に行ってしまったのかは、たまたまとしか言いようがない。これは、科学的因果関係そのものの原因を探ろうとする懐疑的理性=哲学のはたらきである。

 これは、いわゆる自己言及のパラドックスと構造的には同じである。つまり、(原因/結果)という区別自体に(原因/結果)という区別を自己適用したことで生ずる。世界の根源的偶然性(未規定性)というテーゼは、自己言及のパラドックスによって常に露呈してしまい、人々に根源的な不条理性の感情をもたらす。これは、平たくいうと、因果法則そのものがあること自体は偶然であるという問題提起でもある。このパラドックスを隠ぺいするためには、科学的理性では不可能であるので、宗教や神話が持ち出され物語化されるか、あるいは自由意思に帰着させて無害化する。

 科学的真理は、因果図式を使う限り、全て自己言及のパラドックスに晒され、世界の根源的偶然性(未規定性)を露呈させる。科学そのものの中に、科学を否定する要素があり、構造上、科学はその要素を肯定しても否定しても成立たない。科学の思考パラダイムは自己完結性はない。端的に言うと、近代においては、科学が宗教の前提である根源的偶然性(未規定性)を提供しているのである。この科学と宗教の共謀関係は、システム論的には、科学システムと宗教システムの構造的カップリングと呼んでもよかろう。

 犯罪被害者や震災被害者に対して、いくら科学的説明をしても、納得しないであろう。精神医学・心理学的・社会学的因果関係でもって猟奇殺人少年の動機を明らかにしても、「なぜたまたま」という不条理感情は残り、それが応報感情によって置換えられるわけである。犯罪・天災による被害の原因・責任は、社会や国家にあるという社会科学的認識を提示したところで、世界の根源的偶然性(未規定性)による不条理感情は拭えないである。
 
 本来、人類が根源的に抱える「なぜたまたま」という不条理感情を解消・緩和するのは、科学の役目ではなく、哲学や宗教や文学の役割である。「許しの思想」や手塚治虫の「火の鳥」や「ブッダ」から学べるのである。  

 
 

  
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by merca | 2007-01-08 11:32 | 理論 | Comments(0)
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