(右翼/左翼)という思想システムコード

浅羽通明の「右翼と左翼」という新書を読んだ。

 (右翼/左翼)という言葉はよく使われている。自己をどちらかの立場に置き、人の意見をそのような区別で分類する人もネットにはよくいる。浅羽氏の著作「右翼と左翼」では、(右翼/左翼)という二元コードによる観察によって、思想や政治的立場がコミュニケートされてきた経緯が丁寧に記述されており、区別による観察の典型を見た。
 
 浅羽氏は、そもそも近代的価値観である自由と平等を追求する左翼の反動として、右翼が登場してきたとし、フランス革命にその起源を求める。以来、(右翼/左翼)という区別が諸思想を観察するコードとして使用されてきた。言わば思想システムのコードである。
 
 興味深かったのは、状況に応じて、区別の再参入によって、その都度、(右翼/左翼)の意味内容が微妙に異なってきたということである。区別の再参入とは、区別された片方の項に、同じ区別を代入する操作のことを言う。(右翼/左翼)の場合、基本的に自由と平等を追求する左翼の方向に進むのだが、左翼の中に(右翼/左翼)の区別をつくり、さらにまたその左翼の中に(右翼/左翼)の区別をつくるという運動を繰返しているのである。ただし、再参入する際に、別の区別=基準によって区別される。例えば、(平和主義/軍国主義)というのは、もともと(右翼/左翼)という区別とは次元を異にするが、戦後日本では、平和主義が左翼、軍国主義が右翼に対応していた。「ある特定の状況」によって、一つの区別が(右翼/左翼)の中に入り込み、再参入を可能にしているのである。

 さらに、右翼も左翼も依存の思想であるという浅羽氏の指摘はするどい。左翼は、自由や平等のない社会構造を否定することに依存しており、右翼は、左翼の反動として生じ、左翼に依存しているというのである。右翼の反動形成である。

 まとめると、再参入と反動形成によって、(右翼/左翼)の区別が生き残り、様々な思想や立場を分別してきた。

 重要なことは、(右翼/左翼)という思想の運動は、弁証法の動きではないということである。一見すると、正反合の弁証法と似ているが、(右翼/左翼)をコードとする思想システムは、弁証法とは異なる動きをしている。弁証法の場合、反対の項どうしを統一するジンテーゼなるものがあらわれるが、右翼と左翼を止揚したジンテーゼはない。(中道という言葉があるが、これは右翼と左翼を止揚した新しい立場ではない。)社会は、自由・平等の方向に進み、左翼が自己分割して新たな(右翼/左翼)の区別を生産するという運動になっているからである。ちょうど、弁証法とは逆の流れになっているのである。また、自己言及のパラドックスでもない。

 社会=コミュニケーションの総体は、綺麗な弁証法の法則ではなく、雑多な再参入と反動形成による二元コードの再構築によって、つくられていくものであるのかもしれない。 
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by merca | 2007-01-14 03:33 | 社会分析 | Comments(2)
Commented by dankkochiku at 2007-01-16 21:31
 朝羽氏の本を読んでいませんが、ちょっと頭に浮かんだことは、上下左右という言葉です。
 上流・下流と右翼・左翼を組み合わせた図式も面白くありませんか。 上流社会の人は、現状jを守るために保守的になり、権力的、、排他的に行動する。 下流社会の人は、現状を打破するために平等を主張し、団結して闘争的行動にでる。 こうして上流は右翼と、下流は左翼と結びつくという図式です。
 当家へ再度お越しいただき有難うございました。 寸言を追加しました。
Commented by 論宅 at 2007-01-19 04:25 x
コメントありがとうございます。おっしゃるとおり、格差社会論の(上流/下流)に対して、(右翼/左翼)という区別で観察することは可能です。
 前期近代社会では、(資本の所有/非所有)つまり(資本家/労働者)という階級区別が全面化しており、資本家=右翼、労働者=左翼という結合図式がよく認められました。
 後期近代社会である成熟社会における格差社会論では、(正社員/フリーター)という区別に基づき、所得格差が問題になります。所得格差是正のために、フリーターが団結できるかどうかかポイントになりますが、労働組合を組織化できない社会的仕組になっていることがネックです。
 下流階層が、中間集団によって組織化されておらず、バラバラに個人主義化・大衆社会化しているために、団結・連帯できず、劇場型政治に先導されやすくなっています。またかえって、バラバラであるために、統合を求め、ロマン主義的な右翼の国家主義に自我を委ねてまうおそれがあります。大衆社会がファシズムを生み出すという図式です。フロムの「自由からの逃走」の図式です。
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