道徳なき共存社会は可能か?

 多くの人は、道徳や良心があるから、人は罪を犯さないと考え、そのことにより、社会秩序が守られ、治安の悪化を回避でき、安全な社会がもたらされると考えている。
 従って、道徳が衰退すると、すぐに社会が崩壊するという不安を抱き、道徳の正当性を回復し、子供達には道徳を内面化せねばならないと思考してしまう。各種モラルパニックの根底にある思考はこれだと思われる。
 このような道徳主義パラダイムの自明性に基づいて生きている人たちは、犯罪者が法律遵守を内容とする道徳=良心=規範意識を身につけることが真なる更生であると決めつけ、また教育の目的は道徳=良心=規範意識を習得して組織のルールを守ることのできる人間を生産することだと考える。道徳の根拠は、右翼なら伝統や国家、左翼なら自由と平等と民主主義に求められる。

 しかし、近代に入り、このような道徳主義は、ニーチェなどのニヒリストや懐疑主義者や相対主義者によって徹底的に叩かれた。価値観は人や文化によって多様であり、絶対的な善悪の基準はなく、一切が無根拠であると暴かれた。しかし、前期ポストモダン論者の道徳批判は、システム論的ではなく、道徳内容の根拠を相対化するだけのものであり、徹底的ではなかった。各々の道徳の内容は確かに人や社会によって異なり、普遍的ではないが、道徳の形式的な社会的機能に重要視した連中がいた。それがデュルケームやウェーバーから始まる社会学の流れである。個々の具体的な道徳の内容には根拠や合理性はないが、道徳という形式それ自体は、社会を統合する機能を有しており、人類社会にとって必要不可欠であると考えられた。道徳の内容いかんにかかわらず、共通の内容の道徳というものが共有されているということ自体が、コミュニケーションを可能にし、社会秩序を維持するというのである。さらに、道徳に自我の統合機能を見い出した人物もいた。精神分析学や人間性心理学の祖であるフロイトである。道徳とは超自我のことであり、そこに意味論的に自我を統合する機能を見い出した。物語論者がこの流れをついでいる。人間科学の伝統では、道徳は、社会統合と自我統合を担い、社会的人間として生きる限り絶対不可欠な機構だと考えれきた。実は、ある意味、道徳とは、社会学と心理学をつなぐ唯一のキータームである。
 道徳内容の無根拠性は、前期ポストモダン論者に否定されてきたが、社会学的機能と心理学的機能を中心に発展してきた人間科学(社会学、心理学、教育学)によって重宝されきた。道徳は衰退するどころか、その機能に注目されることで、科学によって生かされたのである。

 しかし、道徳は本当に社会秩序維持機能=社会学的機能や自我統合機能=心理学的機能があるのだうか?
 
 社会秩序維持つまり社会統合は、道徳がなくても可能だと考える理論がある。一つは、ルーマンの社会システム論である。これは、信頼と予期によって、円滑なコミュニケーションの連接過程=社会統合は可能だと考えられている。もう一つは、合理的選択理論あるいは社会的選択理論がそれである。予期の総和から社会統合を説明した宮台の「権力の予期理論」はあまりにも有名である。ハーバーマスも、前者よりは徹底性を欠くが、対話的理性によって生活世界の統合が可能であると考えた。あるいは、些か古典的ではあるが、アダムスミスのように、「神の見えざる手」による、各人の賢明なる利己心の総和から社会は統合されると考えることもできる。また、ブルデューのように、道徳ではなく、社会階層ごとのハヴィトゥス=習慣によって人々は行動し、それによって社会統合は可能になると考えることもできる。

 道徳に頼らずに人々が共存できる社会を構想できるかどうかが現代社会学の課題であり、道徳に頼らずに人々が生きる意味を実感できる方法を構想できるかどうかが現代心理学の課題なのである。 

 
 
[PR]
by merca | 2007-01-20 15:38 | 理論
<< (内容と形式) 規範主義パラダイム >>