ナラティヴ・セラピー批判

         社会構築主義批判2

 ナラティヴ・セラピーとは,他者との会話の中において,語ることで自己をつくり,様々な問題を解決・解消しようとする心理療法である。ナラティヴ・セラピーの基本原理は,社会構築主義に基づいている。つまり,現実はコミュニケーションによって構築されたものにすぎないという世界観に基づいている。
 そこで,社会システム論から,ナラティヴ・セラピーを分析してみたい。まず,コミュニケーションを重視する点において,社会システム論もナラティヴ・セラピーも変わりはない。しかし,社会システム論においては,コミュニケーションの主体は心(心的システム)ではない。確かにコミュニケーションは二つ以上の心的システムが必要であるが,コミュニケーションの送信者と受信者は,人格システムに帰属することになる。
 このように,社会システム論では,心的システムと人格システムを分ける。言い換えれば,「思っていること」=心的システムと「語られたこと」=社会システム(相互作用システム)の差異を前提としている。さすれば,語ることでつくられるナラティヴ・セラピーの自己とは,心(心的システム)ではなく,コミュニケーション・システム(相互作用システム)に包摂される人格システムということになる。人格システムとは、相互作用システムを可能にする役割システムのことを言う。人は、状況に応じて特定の役割やキャラクターを使い分け、演じることで、他者とのコミュニケーションの円滑化を図ろうとする。この役割自我を人格システムと考えることができる。社会学はコミュニケーション・システムを対象とし、心理学は心的システムを対象とする。そして、社会心理学の対象である自己概念=アイデンティティと呼ばれるものが、ちょうど、この人格システムにあたる。
 システム論からすると,会話によってつくられる自己とは,心的システムではなく,このような人格システムなのである。つまり,ナラティヴ・セラピーの治療対象は,人格システムなのである。
 ところが,ナラティヴ・セラピーは,原理上,自我一元論を採用しており,人格システムと心的システムの区別がなされていない。つくられる自分以外に本当の自分がどこかに存在するという実在論を拒否し,徹底的な一元論の立場をとる。従って,当然,演技する自己と本当の自己との区別,意識と無意識の区別などをも否定される。社会構築主義においては,自己はコミュニケーションによって構成されたものであり,それ以外の自己は存在しえないのである。実は,ナラティヴ・セラピーの原理的限界がここにある。
 ナラティヴ・セラピーによって人格システムを構築したとしても,心的システムとの差異やズレは常にあり,人格システムと心的システムの構造的カップリングがうまくいかないおそれがある。また,人格システムは社会システムとの構造的カップリングも存在しており,社会システムと不調和(社会不適応)を起すような内容をもつ自己物語は否定されることになる。つまり,語ることでつくられる自己物語,つまり人格システムを維持するための物語の内容は,社会システムと心的システムによって制約を受けているのである。
 このようにナラティヴ・セラピーには、社会システムや心的システムとの構造的カップリングがうまくいく人格システムしか構築できないという制限があるのである。この意味において,ナラティヴ・セラピーの無制限な多元的現実主義は,否定されることになる。構成された現実は,心的システムや社会システムなどによって,多様性の範囲に制約が課せられているわけである。平たく言うと、何でもありにはならないということである。社会構築主義の理論は、システム間の差異を考慮していないために、全て何でもありの相対主義になってしまうのである。システム論の場合、一つのシステムは他のシステムから制約を受けており、何でもありにはならないのである。

 ナラティヴ・セラピーの対象は、その理論からすると、本来、人格システムであるにもかかわらず、心理(心的システム)が対象だと勘違いされている。心理療法として位置付けられ、心理的問題が解決すると思われている。ナラティヴ・セラピーは、心を対象としないので、心理的問題は解決できないのである。語る自分を制約するものを除去するためには、社会環境の改善や精神分析や別の心理療法なとが必要なのである。

 
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by merca | 2007-01-28 21:11 | 理論
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