社会構築主義のコード

          社会構築主義批判3

 社会構築主義は、かえって本質(実体)主義を必要とする。というのは、社会構築主義は、(つくられたもの/つくられざるもの)という二元コードに準拠して創発された理論だからである。つくられたものは構築されたものであり、つくられざるものは確固たる永遠不滅の実体的存在となるからである。つまり、(つくられたもの/つくられざるもの)という区別は、(現象/本質)という西洋哲学の二元コードと同義なのであり、かえって反対の項の存在を認めることで成り立っているのである。

 ここで、二種類の社会構築主義を分ける必要がある。つまり、(全体/部分)というコードから観察し、部分的社会構築主義と全体的社会構築主義に分ける必要がある。部分的社会構築主義は、つくられざるもの=実体が存在することを認め、それとの対比で、それ以外のものは構成されたものであると見なす立場である。一方、全体的社会構築主義は、全てのものはつくられたものであるという立場をとる。
 部分的社会構築主義は、ヘーゲル弁証法によって(現象/本質)の二項区別を止揚し、包括的に相対化してしまうことができる。
 一方、全体的社会構築主義は、自己言及のパラドックスで脱構築できる。社会構築主義それ自体に、(つくられたもの/つくられざるもの)という区別を自己適用すると、やはり自己言及のパラドックスに陥り、自己矛盾を露呈し、成り立たなくなるのである。

 ここでは、社会構築主義は、準拠する二元コード(つくられたもの/つくられざるもの)に(全体/部分)という別の区別を再参入することで、二分割され、弁証法的に止揚するするか、自己言及のパラドックスに追い込むことによって、簡単に相対化できる理論であるということだけを確認しておきたい。
 
 ポイントは、(全体/部分)という全く別の区別によって観察することである。あらゆる思想は、このように別の区別から観察することで、いとも簡単に相対化されるのである。

 
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by merca | 2007-02-11 22:20 | 理論
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