香山リカ批判

 香山リカが「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」という新書を出し、スピリチュアルブームを批判している。しかし、彼女が批判するに際して使用している区別は、単なる近代社会前期の理性的啓蒙の域を出ない。

 彼女の議論においては、結論として(真/偽)という理性的啓蒙あるいは科学の区別コードでのみ、スピリチュアルや宗教を断罪している。理性的啓蒙とは、対象と認識の一致という思考方法である。スピリチュアルや宗教に対して、そのようなコードだけで評価するのは、いかにも近代社会前期的な思考である。
 
 柄谷行人が提唱した超越論的仮象という考えがある。これは、自由、平等、人権、個人などの概念は近代社会の虚構であるが、人々が共存していくためには必要な物語だという議論である。もし仮に香山リカがスピリチュリズムを非難するのなら、同時に近代的虚構としての自由、平等、人権等も否定しなければならないことになる。なぜならば、これらも認識と対象の一致という思考からは証明できない虚構になるからである。柄谷行人は、所詮、近代的観念である自由と平等に裏打ちされた個人=主体は近代の物語であると見抜いたわけであるが、されどそれは(有用/無用)という区別に基づいた機能主義的な観点から、必要だとするわけである。このような思考を社会学的啓蒙という。

 自由、平等、人権、個人が一つの物語であるのと同様に、スピリチュアルや宗教も、一種の物語である。スピリチュアリズムは成熟社会に適合的な物語である。また、宗教団体がセルフヘルプグループとしての機能をもつという視点は、臨床心理学をかじった者ならば、よくわかるはずである。社会学的には、個人がバラパラになった成熟社会では、大きな物語を提供する既存の集団型の新興宗教よりも、個人を対象としたかけがいのない個別の物語を提供するスピリチュアルカウンセラーのほうが適合的に機能するのである。さらに言うと、心理カウンセラーよりも、物語構築能力が高いので、相談者に対する治療能力は高い。
 
 前にも書いたが、科学的因果律の限界を提示する世界の根源的偶然性は、宗教が提供する物語(神話)によって処理されるということである。世界の根源的偶然性の処理は、対象と認識の一致によって(真/偽)を確定する理性的啓蒙=科学からは処理不可能なのである。神社や仏閣にお参りすること、占いを頼ること、これら全ては、世界の根源的偶然性に対する適合的な人々の営みである。神仏を理性的啓蒙の立場から観察するほど野暮なことはない。香山リカは、その野暮なことをしているのである。人々が生きるために必要かそうでないかという観点から判断し、適切に機能していれば、それでよいのである。そのような大人の立場が社会学的啓蒙と呼ばれる立場である。西洋では神を信じる人がほとんどであるが、神について(真/偽)という区別に準拠する理性的啓蒙=科学から観察すると、反証不可能な虚構になる。同じく、心理学理論も厳密に言うと、(真/偽)という区別に準拠する理性的啓蒙=科学から観察すると、虚構にしかすぎない。社会学に言わせれば、心理カウンセラーもスピリチュアルカウンセラーも機能的に等価なのである。

 
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by merca | 2007-02-19 03:27 | 社会分析 | Comments(11)
Commented by 名無し at 2008-02-27 11:07 x
香山リカこそ不安を煽るようなタイトルの本を出して、買わせるというスピリチュアル商法だと思いました。
Commented by at 2008-03-04 00:35 x
宗教が提供するのは世界の根源的偶然性の処理ではなく、自己の行動する処に無限のアクセント(可能性)を与え、人間が自分自身を信じる事が出来る点にあります。宗教が単に世の中の総ての運行は決定論的に必然化されているのでは、人々は生きてはいけません。つまり、人々は神に世の中の運行の必然性を求めているのではなく、自分の意思と努力によっては人の運命も変更可能で一切は報われる余地が与えられているという可能性の保障を求めているのです。自分が何を望もうが努力し様が、自分の意思に関係なく世の中の運行も自分の運命もあらかた決められて仕舞っているという決定論的(偶発処理的)なものなら、人々は絶望して仕舞います。奴隷の奴隷根性が絶望的なのは、奴隷が自分の意思如何に関わらず将来も奴隷身分に留まるという必然性を信じ込んで仕舞っている点にあるのです。信仰とは必然性を信じる事ではなく可能性を信じるというその事なのですから。

こうした観念は、次の様な思考を辿ることで一層明らかなものとなります。
Commented by at 2008-03-04 00:36 x
〈つづき〉


この世の中、テレビやパソコンや車等の便利で有難いものが一気に普及してきているわけですが、それが便利で実用的である事さえ知って置きさえすれば、後はなんの問題もなく楽しめるのであって、大半の人にとって、その内部の構造や原理についてはまったくのブラックボックスであり、それらの仕組みを完璧に理解して説明する事が出来る者等ほとんどいません。にも関わらず、彼はそういったパソコン等が突然おかしくなったり、いつも道りに動かなくなっても何とも思いません。彼はその構造を知り尽くした人間が世の中には必ずいて、直してくれるだろうし、どうにかしてくれると気楽に受け取っています。ここからして彼はパソコンがおかしくなったりしても至極冷静に対処していけると結果してきます。

人間と宗教の関係についてもこれと同じ事がいえます。神を知る人間は、「神は何もかもご存知になられている、神の欲する処は一切が可能である」と思えることによって、世界の運行や人性や個々の運命のブラックボックスの問題をなんとも思いません。彼はたとえ、人生に躓きや問題が発生し、ある日突然彼を災厄や不幸の中に招き入れ様とも、絶望して身動きが取れなくなるといった様なことはなく、かえって果敢に立ち向かっていこうとします。そればかりか彼は人生におけるあらゆる失敗や躓きの可能性に対しても臆する事なく進んでいこうとする勇気さえも与えられているので自らの未来を進んで切り開いていこうとします。なぜなら神においては一切が可能だからです。神は一切が可能であるからして、彼はたとえ人生に躓いたり、自分の人生がおかしくなったりしても、至極冷静に対処してゆけるのです。
Commented by at 2008-03-04 00:51 x
宗教は、根源的偶然性を必然性によって処理するのではなく、可能性によって処理するんですです。
Commented by at 2008-03-04 01:07 x
さて、元々政治が「まつりごと」といわれた様に、元々政治は宗教が果たした役割を担ってました。政治とは、社会が混乱や躓きに陥った時に「まつりごと」をして、世の中のあらゆる躓きを取り払う為に行われて来たんだと。従って政治家に実際に国の舵取りをするだけの能力があるか否かという問題よりも、「まつりごと」によって大衆に国の舵取りを任せて置けるだけの力がある様に思わせておく事の方が事の他重要だったのです(かつての天皇が神に祭り上げられていた様に)ここからして日本の政治が政治本来の「まつりごと」といかに相反したものであるかが分かります。本来ならば「まつりごと」が大衆の絶望や不安を取り除く処のものを、かえって政治家は様々な政治的腐敗や政治的な無能さをこぞとばかりに露呈し、これが大衆の政治への不信感をますます募らせています。これによってますます人々は「自分一人が努力したって何もならないじゃないか」という現実の先に自分の実存がまったく見えてこない暗雲を作り上げました。今の日本社会には社会全体の絶望や不安を吸収する宗教装置がないだけに、政治家の「まつりごと」の失敗は、そのまま日本全体を絶望へと突き落とすリスクをも抱え込むのです。
Commented by merca at 2008-03-05 00:59
 宏 様
 論宅です。まじめなコメントありがとうございます。かようなコメントを待っていました。最近、ニセ科学批判議論に巻き込まれ、まともなコメントをもらう機会を失っていました。心が洗われた気がします。本当にありがとうございます。
 さて、本論ですが、世界の根源的偶然性の処理とは、マックス・ヴェーバーの苦難の神義論のことを指しています。世の中には、善人が非業の死をとげるなど、不合理なことが多くあります。偶然と言えば偶然なのですが、それに対して、神が与えた試練であり、死後の世界である天国で報われるという物語をキリスト教などは、提供します。仏教では、来世で報われるなど輪廻転生で説明します。
 
Commented by merca at 2008-03-05 01:00
  続き
 つまり、因果応報ですね。善行が幸福という結果を生み、悪行が不幸という結果を生むという因果律(必然性)が世界に存在すると考えるわけです。ただ、宗教におけるこの道徳的因果律を宿命論的に必然として解釈すると、確かに人々は善行への動機付けを失います。道徳的因果律が存在するが、完全なる運命決定論ではなく、自由意思による自業自得説によって努力主義へと変換します。道徳的因果律が自身の外から拘束するのではなく、自身の内部にあると考えることで、折り合いをつけます。 
Commented by at 2008-03-06 05:08 x
要点を掻い摘んでみれば、世界の根源的偶然性の処理とは、世界の不確定性を人々が受容可能なものに馴致させるって事ですね。人々は「善人が非業の死をとげる」という不確定性ゆえに、理解困難に映り、途轍もない不安の中に置かれる。そこで、この不確定性を教義的な因果律(物語)でもって理解可能なものに変換し不安を解消する。
Commented by at 2008-03-07 11:18 x
論宅さん。

宗教の目的は人々のこの現世での不安や絶望、苦しみを解く事です。しかし、僕は物事の原因となる因果律を説明するだけでは人間の苦悶は半分しか解けないと思います。人はよく、自分の中の苦しみはその苦しみのもととなる原因を突き止め、その原因を打ち砕けば、苦しみから解き放たれるといいます、しかし、苦しみというものは決めしてそんな単純な構造ではありません。なぜというに、外傷そのもののからの苦しみは別として、人間的な内的な苦しみというのは真に内的に閉じた姿をしており、従って内部の苦しみと、その苦しみを齎している外界との因果的連続を観察者の視点から紐解くだけでは説明が付かないものだからです。
Commented by at 2008-03-07 11:19 x
例えば、ある医者がこんな話をしていたのを覚えています。最近インターネット等の情報社会の実現により、自分の病理に関してはその医者も顔負けの詳細な知識をもって、自分の容態と病理の関係について力説する来訪患者が最近増えたという事ですが、驚くべきことにはそれら患者のほとんどは、自分の病理を詳しく説明する事が出来れば出来るほど、それが決して病理への苦しみから解き放たれてゆく傾向を証明してゆくわけではなく、むしろかえって精神状態の悪化を示す傾向さえ示す場合もあるという事なのです。ここからも分かる様に、我々の苦しみは物事の因果的連続を把握する知性の光によっては癒す事は出来ず、場合によってはむしろ知性を労せば労するほど苦しみはいよいよ深く自己の内部を蝕んでいきます。この事は、古来の多くの賢者とうたわれた人物、古今の文学者、学者といった多くの知性が人生の終焉に自殺の道を選ばねばならなかったのかを思えば一層明らかなものになります。しかし、論宅さんの言われた様に、宗教の道徳的因果律が自身の外の観察者の視点から(対象と認識の一致によって真/偽をはかる科学的因果律)ではなく、彼自身の内部にある性質のものなのなら、人間の苦悶は宗教の教義によって根本から癒えるものなのでしょう。 
Commented by merca at 2008-03-09 09:01
 宏さん 論宅です。コメントありがとうございます。
 宗教と因果律については、ほとんど宏さんが言われているとおりだと思います。精緻な分析ありがとうございます。
 人は、世界が全く必然でも偶然でも、無力となり、希望を失います。必然と偶然を弁証法的に自由意思によって止揚する時に、はじめて努力主義が成立ちます。ちなみに、不動・普遍の因果律を追求する科学が人に生きる意味=希望を与えることができないのは、科学が世界を必然の相で観察することを目的とするためです。自由意思は、因果律を必要としつつも、未来はまだ決まっていないという偶然性も要求します。哲学的には、自由意思という概念は、必然と偶然の二つのファクターのいずれでもないが、そのいずれも必要とします。従って、ある種、自由意思は、弁証法的に観察する他ありません。単なる二分法では観察できません。
 生きる意味を人に付与する物語は、必然であっても偶然であっても機能しません。自由意思によって、演ずることによってのみ成就し、機能します。
 人間の苦悩について、鬱病で悩む人たちを例にとって、エントリーをつくりたいと思います。
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