物語論の限界

 
 語ることで自己がつくられるというナラティヴセラピーの発想は、観念的である。他者との語りの中で自己とその物語がつくられたとしても、それは観念的構成物にしかすぎない。物語は実演されなければ、創発されず、実在しない。実演されるためには、舞台(場)や共演者や観衆が必要である。物語を語ることと演じることには、大きな差異があるのである。
 地に足のついたリアリティのある自己や社会は、語ることでつくられるのではなく、演じることでつくられるのである。この場合、演じるとは、普通に社会的役割を遂行することと考えても良い。例えば、教職免許をもつ者が、自分が教師だと他者に語るだけでは、本当に教師にはなれないし、自己が教師だと自信ももてないだろう。学校という舞台において、共演者としての生徒や観衆としての周囲が認めないと、教師という自己物語は成就しない。語るだけでは決してリアリティは生じないのである。実演することではじめてリアリティは発生し、自他共にそれが本当だと信じることができるのである。
 ここが、ナラティヴセラピー、つまり社会構成主義の限界である。社会構成主義は、観念としての物語や神話を構成することはできるが、実演というかたちで社会を創発することはできないのである。社会構成主義は、物語としての社会観念=社会理論をつくることはできるが、実在する社会をつくることはできない。実在する社会は実演されることでのみつくられる。このように、(語る/演じる)という区別で観察すると、ナラティヴセラピーの弱点が見えてくる。のみならず、社会構成主義の限界も見えてくる。

 演じるというレベルで社会を観察した社会学者がいた。演劇論を唱えたゴフマンである。ここに、社会創発論者の起源を見て取ることができるのである。さらに、システムは実在すると、社会学者ルーマンも主張したが、実在するとは演じられているという意味である。構成されたものは虚構=観念=物語であるが、演じられたものは実在するのである。社会システム論は実在主義であるが、社会構成主義は観念論なのである。(語る/演じる)という区別は、(虚構/実在)という区別にも対応しているのである。

 同じつくるという発想でも、社会構成主義と社会創発論とでは、かように全く異なる。時折、ルーマンの社会システム論はラディカル構成主義と呼ばれることもあるが、創発に重点が置かれており、厳密には社会創発論の系譜に属しており、ガーゲンらの社会構成主義とは一線を画するのである。この点の区別、かなり重要である。

 実演されざる物語は「虚構」であるが、実演される物語は「現実」である。社会的リアリティの基礎はそこにある。
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by merca | 2007-02-22 23:20 | 理論
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